6 不束者
馬車に乗って三日経った。この旅で、私は初めて「宿」というところに泊まった。宿は変な感じだった。まるで大きな屋敷に、旅をする人々がそれぞれ部屋を借りる。すれ違う人は全く知らない人。大きな荷物を持った人もいれば比較的軽装な人もいる。私はスピカ様に連れられ、きょろきょろと物珍しく辺りを観察した。そして、スピカ様はそんな私を興味深そうに見ていた。
夕食の時。座っていただけで出て来た料理を前に、私は固まった。誰かに給仕してもらうということ自体、いつぶりか分からない。
「よろしいのですか…?」
私がカチカチになってやっと聞くと、スピカ様は目を瞬かせた後、「よろしいのですよ」と優しく返してくれた。きっと変なことを聞いたのだろう。私は恥ずかしさで頬が熱くなった。
部屋での過ごし方もよく分からず、あまり散らかしてはいけないと思って極力物には触らず過ごした。眠った後のベッドのシーツも整えておくべきかと、いつものようにピシッと畳んでおいた。
その結果、次の日の朝私を呼びに来たスピカ様に真剣な顔で「本当にちゃんと休みましたか」と聞かれてしまい、私はまた顔を赤くした。
私は自分が思った以上に世間知らずであることを知った。
「もうすぐ屋敷に着きます」
「は、はい…」
私はもう変な失態を晒さなくて良くなると安心する一方、いよいよヴィルゴ家の領地に足を踏み入れるという緊張で身を強張らせた。
「大丈夫ですよ」
私の様子の変化を見て取ったのか、スピカ様はすかさず私に穏やかな顔を向ける。
スピカ様は不思議な人だ。出会ってまだ間もないというのに、妙な安心感がある。助けてもらったという恩と、あの『家族』たちに勝ったという尊敬が大きく影響しているのは間違いない。
それに、同じ馬車にほぼ一日中揺られるというのも、非常にハードルの高いことだったのだが、私が必要以上に気を遣っていたのは最初の一日と二日目の午前中くらいのものだった。
沈黙が気まずくて何かを話そうとするも、何を話していいのか分からない私が醸す不審な空気を察する度に、スピカ様は柔らかい笑みを湛えて窓の外にあるものを指さしては色々な話をしてくれた。
それも私に気を遣ってではなく、自身が話しかけたくて話す体で切り出してくれるというスマートさで、私はその背に後光を見た。
「おや、ベガ様見えますか。あれは葡萄畑ですよ」
「大きい…」
「向うに点々とあるのがワインのシャトーです。この辺りは盛んですから」
「へええ…」
「このあたりの葡萄ですと、特徴は…」
「すごい…」
信じられない程気の利いた返事ができない私を責めるでもなく、スピカ様は至って穏やかだった。彼の話は全く世間知らずの私にとって、とてもためになるものだった。私が前のめりになって聞いていると、よりたくさんのことを教えてくれた。
(物を知らない子って思われていやしないかしら…)
多分、絶対思われている。思われているが、知ったかぶりの程度など知れているし、隠したっていいことはない。気にしたら負けだと自身に言い聞かせ、私は何とかスピカ様の言うことを全て記憶しようと必死に聞いた。全部覚えるのは流石に無理だった。
スピカ様の話を聞くのは面白かったが、同時に無理に話しかける必要もないということを学んだ。彼が静かな空間を苦にする様子も無いし、逆に私がソワソワしてはスピカ様に気を遣わせてしまう。
次第に私は沈黙が訪れても大丈夫だと思うようになった。
この短期間でもスピカ様ができた人であるということは重々分かった。今の私はとても釣り合うような人間ではないだろう。私は精一杯の誠意を込めて、ぺこりと頭を下げた。
「粗相のないようにいたします」
「全く心配していませんよ」
こんな些細な言葉も照れ臭く、私はまた口を噤んでしまったのだった。
ヴィルゴの領地は広大な農地に囲まれていた。区画ごとに色んな作物が育てられている。作業に従事する人々が、ヴィルゴ家の紋章の入った馬車に気が付き、作業の手を止めてはこちらに向かって頭を下げた。
(尊敬されているのね)
スピカ様は窓から手を振って彼らに応えている。私はあるべき領主の姿を目の当たりにし、非常にいたたまれなくなった。
(義父が誰かからあんな風にされたことがあったかしら…)
正当な当主ではなかったものの、一時の窮地を救った功績すら誰にも称えられない。そんな義父から、色んなことを学ぶことができるのではないかと、私は今初めて思った。
ただし、反面教師という意味で。
(本当は比べることすら失礼極まりないのだろうけれど…)
ゴトゴトと揺れる馬車の中、私は窓の外に手を振り続けるスピカ様をしみじみと眺めた。
「貴女も手を振ってあげてください」
「え…!私も…?」
(そんなこと期待されているのかしら)
彼らの大事な領主一族の嫡男に引っ付いてきたどこの馬の骨とも知れぬ奴からドヤドヤしく手を振られて、果たして嬉しいのだろうか。私の顔は自然と険しくなる。
「皆、貴女を待っていたんですよ」
卑屈な私は、皆に期待される自分の価値はさっぱり分からなかったけれど、スピカ様の言葉は信じなくてはと思った。
おずおずと控えめに窓の外に向かって手を振ると、私に気が付いた農作業中の彼らは顔をパッと明るくさせて、隣の人と何やら楽しそうに笑い合う。
「ね?」
「……」
何と表現したらよいのか分からない、くすぐったいような感覚が私の体中を走った。
「お疲れ様でございました」
馬車が大きな屋敷の前に停まった。空は大分赤くなっていた。屋敷の前にはたくさんの人が待ちかまえていた。
「若様、奥様、お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
黒い執事服に身を包んだ真面目そうな人が、他の使用人よりも一歩前に出て、ピシッと頭を下げると、後ろに並んでいるメイドやコックといった使用人であろう人々が続いて腰を折る。統率の取れた見事な挨拶だった。
(奥様って呼ばれて、お帰りなさいませって言われた…!)
いきなりたくさんの人に頭を下げられ、その上恭しく呼ばれ、更には初めて訪れたというのに、「お帰りなさい」。私の頭の中で軽くパニックが起こった。
「ただいま帰った。彼女はベガ・ライラ嬢。無事にお連れしたから、皆よろしく」
スピカ様が私の背中にそっと手を回す。私はハッとして自我を取り戻した。
(駄目よ、ぼーっとしていては!これからお世話になるのだから!)
私は慌てて背筋を伸ばすと、出迎えてくれた彼らに深々と頭を下げた。
「ベガと申します。不束ものですが、よろしくお願いいたします」
「……」
辺りがシーンと静まる。
(はんのうがない…)
怖くなって頭を下げたまま固く目を瞑り誰かの何かしらのアクションを待つと、隣から「フッ」と笑いを含んだ息が漏れる。
何か間違っただろうか。恐る恐るスピカ様の方に顔を向けると彼は案の定眉を寄せて笑いを堪えていた。
(ま…またやった!!!!!)
私は絶望に顔が青褪める。スピカ様は私と目が合うと、片手で目元を覆い、もう片方の手を「いやいや」と前に出した。目元は隠れているが、口元はばっちり弧を描いている。
「あ、あの…!」
「…失礼…何とも腰が低いなと思って…なあ、ディール?」
「さ、左様で…。奥様、我々は使用人ですので…!皆恐縮しております、どうか頭をお上げください」
ディールと呼ばれたさっきの執事の焦っている声に、私はようやく顔を上げた。すると、目の前のヴィルゴ家に仕える人々は皆「あああどうしよう」という顔で、中腰になっていた。
恐縮させてしまって申し訳ないと思い、「すみません」と謝ると、スピカ様は今度は困った様に笑った。
「ご覧の通り、奥ゆかしい奥様なんだ」
「そのようですね」
肩に置かれたスピカ様の手は優しく温かかったが、私は皆から集まる視線と沸き上がる羞恥にひたすら肩身を狭くした。
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