4 無知の恥
未だ収集のつかない頭で、誘われるままヴィルゴ家の紋章のついた馬車に乗ると、馬車はゴトゴトと動き出した。私はその振動に「わ!」と声を上げる。スピカ様は物珍しそうに私を見た。
「その、すみません…慣れなくて」
「…そうですか」
「はい…」
いたたまれない空気に私は俯いた。これまで、家から離れたことなど殆どなく、ましてや馬車に乗った記憶などない。私は基本的に家の敷地から出ることを許されなかった。『家族』は山のような家事雑務を押し付けてきたにも関わらず、買い物だけは他の誰かに行かせる程の徹底ぶりだった。
(それなのに。私は突然今馬車に乗っている)
夢なのではないだろうか。もしくは、大掛かりな罠。
「…」
考えた途端、私は真顔で固まった。
(あり得る。あの人たちの事。このまま私をどこかに拉致して、亡き者にして…)
段々と顔が青ざめてゆく。気持ちが悪くなってきたところで、スピカ様が「ベガ様?」と訝しむように私を呼んだ。
「は、はい!」
「お加減でも悪いですか?この辺りは道が悪い。酔ったのであれば」
私は彼の優しい気遣いにブンブンと必死に顔と手を振って否定した。彼の穏やかな金色の目を見て、「きっと私の想像しているようなことは無い」と思うものの一度胸の中に芽生えた不安は消えてくれない。『家族』だってあんなに怒っていたというのに、何を疑うことがあるだろう。
それでも。私はどうしても安心したくて、失礼を承知でスピカ様に尋ねた。
「あの…ご無礼を承知でお聞きしても…?」
「どうぞ」
「私は、今、本当にヴィルゴ様の領地へ向かっているのですよね?『家族』の謀ではないのですよね?」
私の問いかけに、スピカ様は大きく目を見開き、深いため息を吐いた。私は直ぐに後悔した。
(やっぱり、失礼過ぎた…!)
「これは酷い」
ぼそりと吐き捨てるような言い方に、私の胸がひんやりとする。この人に見限られたら、本当に終わりだというのに。
「も、申し訳…!」
咄嗟の私の謝罪は最後まで発せられることは無かった。
「………」
体を包まれる違和感、温かさに私は言葉を失った。向かいに座るスピカ様が身を大きく乗り出して、私を抱きしめていた。
固まる私の背をあやすように、彼はポンポンと優しく撫でる。その感覚に、私の古い記憶が蘇った。
(…お母様、お父様……)
幼い頃、私を包んだ温かさ。
『ベガ』
『いい子だ』
もうはっきりとは思い出せない、両親の声。
「…っ」
気が付けば私は泣いていた。ぼろぼろとみっともなく涙が零れる。スピカ様の綺麗なお召し物が汚れてしまう。頭では分かっているのに、涙は止まらなければ、声も出なかった。
ひたすらに泣く私の背を、スピカ様は何も言わずに同じリズムで撫で続けた。
「もう、何からお話ししてよいやら…という感じですが」
しばらくして私が落ち着くと、スピカ様は体を離した代わりに私の隣に座った。私は向かって正面が空の座席になり、いささかホッとする。向かいに人が座っていると、どこを見ていればいいのか正直分からなかった。
「すみません…」
「知らないのは、貴女のせいではありません」
とりあえず謝っておくという私の初動は空振り、何と言っていいのか分からずに俯いて自分の膝を見つめた。
(私のせいじゃないなんてこと、あり得るのね…)
大概のことは自分のせいだと言われて育ったため、スピカ様の言葉が新鮮でならない。胸の中がドキドキした。
「…まず、我々のことから話しましょうか」
「私たちの事…?」
私が不思議に思って顔をあげると、ばっちりとスピカ様と目が合った。スピカ様は眉を下げて優しく笑う。私は美醜の感覚があまり鋭くないけれど、スピカ様のお顔はとても素敵だと思った。
神秘的な金色の目、シュッと通った鼻筋、目元にかかる綺麗なブラウンの髪が陽に透けて輝いた。
形の良い唇が「私は、スピカ・ヴィルゴ。ヴィルゴ家の嫡男です」と名乗った。
「あなたよりも十年上ですから、今は二十八。先ほど若輩と言いましたが、もういい年ですね」
私はその言葉にブンブンと頭を横に振った。まだまだお若いし、何を言うのだろうか。そんな私の反応に笑うと、スピカ様は今度は私の番だと言うように、手で合図した。
「あ、はい…私は、ベガ・ライラと申します。ライラ家の長女です」
「ご長女…それがあの義理の妹君を考慮して、という意味でしたら…。正確には、一人娘、ですね?」
スピカ様の指摘に、私は「あ」と口元を抑えた。義妹であるリリアとは本来血の繋がりは無い。私は曖昧に笑って「お詳しいですね」と言うと、スピカ様は困ったように首を傾けた。
「ライラ家の直系の姫は今も昔も貴女のみ。その事実に変わりはなかった」
「?」
「なのに、貴女を取り巻く環境は劇的に変わっていた」
「…」
私は口を噤んだ。
「おかしいと思いませんでしたか?貴女の周りに居たのは、ライラの血を持たないひとばかり」
「それは…」
「少なくとも、周りはおかしいと思った。特に、貴女の叔父上や、近くに住んでいたご親戚たちは」
「近くに住んでいた親戚…?」
「さっき、叔父上の後ろに並んでいた人々ですよ」
私は驚きに「え!」と声を上げた。
(結構いたわよね!?なのに…私、誰も分からなかった…)
目を点にしていると、スピカ様は更に衝撃的なことを教えてくれた。
「だから、何度も貴女の家には親族が迎えに行ったはずなんです。なのに、カガシは、ああ失礼、貴女の義父は我が子を手放せないと追い返していた」
私の脳内にかつての記憶が蘇る。
『あの子は私の子だ!誰にも渡さん!』
(ああ、じゃあ、あの時来ていたのは…私を迎えに来てくれた親戚の方だったの…)
私はこれまで何度も自分があの環境から抜け出すチャンスがあったのだと知り、あまりのショックに顔を覆った。
(それを、彼らを追い返す義父の言葉を…信じてしまっていた何て…)
「また、貴女が手中にいるという強みから、親族の方々には相応の対応を弁えなければ貴女の無事は保証しないと触れ回ったそうです。なんと諸刃の剣か…。彼らだって貴女がいてこそ強気に出られると言うのに」
私は絶句した。それでは本当に人質ではないか。
「そして彼らは貴女の心を蝕み、恐怖で支配した。貴女の意思で、彼らと居るのだと言わしめるに至った」
「…」
「あなたと血縁にない彼らは、本来何の力も無い。彼らは貴女と言う武器を自分たちの権力と優越のために縛り続けるつもりだったのです」
今までの生活が鮮烈に脳内に過り、私は身を強張らせた。今もあの家を出て来たことが信じられないが、同時にあそこに居続けた未来も、もう私には想像できなかった。
「彼らは、貴女を引き留める方法を間違った」
深く染み入るような声色が気になり、私はわずかに顔から手を離してスピカ様を横目で見た。スピカ様は、目を細めて哀れむように私を見ていた。
「申し訳ありませんでした」
「えっ」
スピカ様は、私から目を逸らさずに低い声で謝った。どうして彼が謝るのだろうか。意味が分からず私が何も言えないでいると、スピカ様はそのままゆっくりと頭を下げたので、私は酷くびっくりした。
「あ、あの!?」
「自分の許嫁がそんな仕打ちを受けていたのに、私は…何も知らず…貴女を放り出していた」
「それはっ!」
「知らないことすら知らなかった…私の恥ずべき罪です」
「………」
スピカ様の顔は険しく、自身を責めるべくその罪を断言した。
(さっき、『知らないのは私のせいじゃない』と言ったのに!ご自身は違うの!?)
自分に厳しい彼に向かって私は必死に首を横に振り、否定の意を伝えるも、スピカ様はそれを制した。
私はかつてなく恥じ入った。これまで不幸を『家族』のせいにして、卑屈に走って、包丁を見つめることしかできなかった。
そんな私が、偉そうに今スピカ様を励まそうとか、彼の言う罪を否定しようなんて、とてもできない。ただ、私が今言えることは。
「……手を引いてくださり、ありがとうございました」
「ベガ様…」
額が膝に付く位頭を下げて深謝すると、スピカ様は私の名前を呼び、優しく、悲しみの籠った吐息を漏らした。
どうにもしんみりしてしまった空気の中、私は教えてもらったことについて考えていた。一度に与えられた情報が多すぎて、私の頭は整理しきれないでいる。
ともあれ、何て私は愚かであったのか。心配してくれた親戚の人々に、何の礼も言えずに出て来てしまった。
(そういえば、「一人娘」である私がいなくなってしまったらあの領地はどうなってしまうのかしら)
私は窓の外、ライラ領の方を眺めた。辛さや、後ろめたさや、ほんの少しの懐古等、色々な思いが混じって、胸の中がチクリとした。
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