28 あなたのこと
その日の夜、てっきりお義父様はお家で過ごすのかと思いきや、なんとお夕食が終わると王宮の職場に戻っていってしまった。遠ざかっていく馬車をスピカ様と並んで見送る。さっき帰ってきたところなのに。もういなくなってしまった。もう少し、せっかく帰ってきたのだからゆっくりなさってもいいのに。
馬の蹄の音が聞こえなくなると、柔らかい夜風が吹いた。
(……お体は大丈夫なのかしら)
心地よい風を受けながら、私は一抹の不安を覚える。聞く限り、明らかに働き過ぎだと思った。健康に差し障りはないのだろうか。話した感じではご健勝そうだったので、私の杞憂なのかもしれない。でも。
私の隣には将来同じ轍を踏むかもしれないお方が立っている。
もしもスピカ様もそうなってしまったら。いくら心配しても足らないだろう。私もついていけるのならまだいいかもしれないけれど、きっとそうはいかない。
(お仕事の応援はしますが…ご無理なさらないでくださいね…)
念を込めながらスピカ様の袖に額を寄せる。
「おや、どうされましたか。眠たいですか」
(……違います)
どこか嬉しそうなスピカ様の声。私はぐりぐりとそのまま頭を横に振って否定した。
「父と会うのは初めてでしたから、疲れたでしょう。温かいミルクでも作ってもらいましょうか」
「はい……あ」
家の中に入ろうとしたとき。私はあるものに気が付いた。
「何かありましたか」
「はい、あれを」
私は空を指さした。スピカ様は私の指の先を目で追い、「ああ」と笑みを零した。私は嬉しくなって「ふふ」と笑った。
「スピカ様です」
「よく見つけてくださいました」
空にはスピカ様と同じ名前の星が光っている。いくら明るいと言っても夜空は夜空。細かい星は見えないかもしれないが、私がスピカを見つけるくらい、訳はなかった。
「春の大曲線ですね」
「その通り。学ばれましたか」
「まだまだですが……」
少々恥ずかしくなりながら、私は更に勉強の成果を披露した。
「スピカ様の星は、不思議なのですよね」
「さて、どう不思議でしょう」
優しい声がからかうように響く。私は目を凝らして星を見た。
「……やはり、こうして見るとひとつの星に見えますが、実は二つの星なのですよね」
星から目を離し、スピカ様に視線を向ける。すると、「よくできました」と頭を撫でられた。スピカ様からしたら、きっと幼い頃から知っていることだったろう。自分の名前の星なら猶更。
「ヴィルゴに居る間に、勉強されましたか」
「……本をお借りしました。おじい様にもたくさんお話をしていただきました」
スピカ様は穏やかな顔で頷く。
「嬉しいです。あなたに、星のことを知っていただけて」
そう言って、スピカ様は私の額に唇を寄せた。
(…………!)
真っ赤になって口を噤む私の肩を抱き、「失礼。つい、嬉しくて」とスピカ様が屋敷に誘う。
「嬉しくて」と繰り返すあなたが本当に嬉しそうで、その顔を見たらどうしてか胸がきゅっと締め付けられた。
◇◇◇
どうしてだろう。いつもだったら一人で眠ることに何の不都合もないのに。真っ暗な部屋の中、私は自分のベッドで何度目かの寝返りを打った。
眠れない、というだけでなく何故かそわそわしてしまって落ち着かない。
(スピカ様、どうしてらっしゃるかな)
気になるのは、一時間前に「おやすみ」と私を部屋に送ってくれたあの方。瞼の裏に面影を思い出す。
嬉しいと言って笑った顔が蘇った。
(喜んでくださった。私が星の勉強をしたから?それとも、スピカ様の星のことを言ったから?)
私にはまだ到底、星を読むなんて芸当はできない。
(まだ、できないだけ)
瞼を開き、窓の外を見る。もう流石に、街に明かりはない。
(いつか。私にもできるように……)
追いつきたい。あなたの傍に居たい。役に立ちたい。
勉強する面白さはもちろん分かっているが、私を強く突き動かすのはそういう気持ちだ。
あなたが喜んでくれると、とても嬉しい。
(どうしてるかな)
安らかさと、切なさが身を包む。スピカが強い光を放って空で輝いていた。
◇◇◇
「ぶ——舞踏会!?」
「昨日すっかりお伝えするのを失念しました」
翌朝、寝不足の私が必死に睡魔と戦っていると。朝食を終えたスピカ様から、眠気が一気に吹っ飛ぶ情報がもたらされた。急に目が覚めた。それはもう、すっかり。
目を見開いて紅茶のカップを片手に固まる私に、スピカ様が続ける。
「時期が時期でしたので、どうしようか迷いましたが、顔つなぎによい機会とも思いまして。……いかがでしょうか」
一応意向を聞いてくださっているけれど、「顔つなぎによい機会」と言われては断る手はない。しかし、私には大きな問題がある。
「い、行くのは大丈夫です。いえ行かせていただきます。で、でででも」
「でも?」
私はごくりと喉を鳴らし、神妙に伝えた。
「初めてですので…大変、緊張いたします」
「ああ、それでしたらご安心ください。キグナス家は毎年この時期に舞踏会を催されるのですが、気軽な雰囲気でやってくださるので。行きやすいと思います」
「そ、そうなのですか」
それを聞いて幾分か安心した。よかった、あまり畏まっているところだったらどうしようかと思った。とはいえ、やはり踊っている相手の足を踏んでいい場ではないだろう。
「ダンスも、少しは上達したのですけれど……また足を踏んでしまうかも……」
私が小さな声でもごもごと言うと、スピカ様は明るく「ははは」と笑った。笑い事ではない、踏まれるのはスピカ様なのだから。
そう告げると、スピカ様は更におかしそうに顔を歪める。
「人の足を踏んでこそ上手くなるものですよ」
(……)
「当日まで少しですが、また練習しましょうか」
「!」
つい「やった!」という反応をしてしまったが、そんな子供っぽいことではいけないとすぐに取り繕い、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「私の友人のレグルスという男と会えると思います」
「レグルス様…というとリオ家の方ですね」
「はい。古くからの友人です。あなたの力にもなってくれると思います」
「是非私とも仲良くしていただけると嬉しいです」
「人をからかうのが好きな男なので、もしも何か言われたら軽くあしらってください」
スピカ様もからかわれているのだろうか。もしかしたら、舞踏会でその現場を見ることができるかもしれない。しっかり者の彼がちょっと困った顔をするのを見たい、と思う気持ちは分からないでもない。
(私は恐れ多いし、上手にからかえないから)
「ふふふ」
「何ですか、にこにこして」
「ふふふ。楽しみになってきました」
何が、とは伏せ、私はにやついてしまう顔を手で隠す。スピカ様は「よかった」と頷いた。きっと、私が楽しくなった理由はご存じない。それがまたちょっぴり面白くて、私はまた笑ってしまった。
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