26 信者の鑑
就業の時間になり、スピカは手早く荷物をまとめると部屋を出た。職員たちから「お疲れさまでした」と声をかけられ、スピカも挨拶を返す。
アルタイルはすぐに帰る性質だろうか。先に来訪を知らせてはいない。スピカは普段通らない廊下を足早に歩いた。途中で人の気配に気が付いたが、それがレグルスだと察すると、スピカは目の前だけを見て歩き続けた。
『管理室』と書かれた部屋の前でスピカは足を止めた。アルタイルの所属はここ、管理室。宮殿の設備を担う部署である。事務室を覗けば、まだ人がたくさん残っていた。スピカは部屋の入口付近に居た職員に「アルタイル殿はおみえですか」と尋ねた。
声をかけられた職員は目の前の人物がスピカだと認めるとギョッとして「少々お待ちを!」と言って部屋を見回す。
「あ、い―いらっしゃいます! お呼びしますね!」
「ありがとう」
職員は全速力でアルタイルのところへ駆け、早口でスピカの来訪を知らせた。スピカはその場でその様子をじっと眺めた。
アルタイルは少し癖のある髪で、彫刻のように整った顔をした青年だった。
青年は弾かれるように部屋の入口へ顔を向け、そしてカバンをひっつかむとすごい勢いでスピカの方へとやってきた。
「まさか……あなたの方から来てくださるなんて……!」
「何度も来ていただいたと聞きましたので。これからお時間はありますか」
「もちろんです!ああよかった、ようやくあなたとお話ができる…!」
スピカは喜ぶアルタイルを連れて、農林局で普段会議に使っている小さな部屋へと案内した。アルタイルを先に中に入れると、部屋のドアを閉じ切る手前で止め、外にいるレグルスに中の様子が分かるようにした。
二人は向かい合って机に着き、互いの顔を見合った。アルタイルはいささか興奮しているようで、顔が赤くなっていた。その顔がどこか期待に満ちているように見え、スピカは心の中で額に手を遣った。
「スピカ様!ヴィルゴ家のスピカ様!僕はアクイラ家のアルタイルです!」
「……存じていますよ。で、何度も私を訪ねてこられたご用事はなんでしょう」
熱のこもった話し方をするアルタイルに対し、スピカは努めて平坦に喋った。同じ温度で話してはいけないと思った。
「今代、ライラ家のベガ様があなたとご婚約をしたと聞きました」
「その通りです」
「僕、あなたにお知らせしなくてはと思っていました。その婚約は運命に抗ったものです。きっとそれは不幸な結末を呼び寄せるでしょう」
「……ほう」
部屋の外でレグルスが動く気配がした。すでに突入の態勢に入ったらしい。スピカはレグルスの危機察知能力の高さに感心した。
とはいえ、スピカ自身もアルタイルの発言から、青年の奇妙さに警戒せざるを得なかった。話し合いで問題回避できるならと考えてのことだったが、もしかしたら話し合いすらできないかもしれない。
ヴィルゴがアクイラよりも格上の家であることは百歩譲って目を瞑ったとしても、初対面の人間の婚約を「不幸」と言う無礼を憚らないことに、スピカはかなり引いた。社交を営む貴族でなくとも、眉を顰められる言動である。
スピカが早々に「これは相手をするだけ面倒なだけかもしれない」と結論付け始めた一方、アルタイルは待ち望んだ説得の機会を逃すまいとこれまでスピカに言いたかったことを捲し立てた。
「ようやく、やっと、男子のアルタイルと女子のベガが同世代で生まれたのです。まさにこれも運命。僕たちは祖先の無念に報いなくてはならないのです。よその家がそれを邪魔するなんて、許されることではありません。ああどうして、ライラの元ご当主は我がアクイラ家ではなく、ヴィルゴと婚約の取り決めをなさったのでしょう。自然の摂理に反しています」
「……ライラもヴィルゴも国とそれぞれの未来を考え、この度の婚姻に至りました。それこそ他の家が口を出すことではありませんよ」
ヴィルゴだけでなくライラの家までも批判し始めたアルタイルに、スピカの心が少し動いた。頭では「まともに相手をしない方がいい」と分かっていたが、とても一言言わずにはいられなかった。
あの子の家が、どれほど先を考え、身を削って、ここまでこぎつけたか。
スピカの目がギラリと光る。アルタイルは一瞬その目にひるんだが、直ぐにまた気を取り直し、自分の主張をぶつけ始める。
「世間もそのうちこの過ちに気が付き、声を上げるでしょう!偉大なヴィルゴが判断を間違ったと言われないために!取りやめるなら今しかありません!」
「…………」
スピカは頭が痛くなってきた。世間一般がアルタイルと同じ考えであるという認識はない。もしかしたらそういうことを言われることもあるかもしれないとは思った。何せ、今劇場では『ベガとアルタイル』が上演中だからだ。劇の出来がかなりよく、人気で上演期間が延びたと聞く。
しかし、そのためにヴィルゴ家とライラ家の結婚が揺るぐほどの事態にはなるまい。
アルタイルの言っていることにまともに耳を傾けることはもうできない。スピカは一呼吸を置き、真っ直ぐにアルタイルを見た。
「あなたのおっしゃることに同意はできかねます。話をしても平行線なだけだと思いますので、ここで終わりにしましょう」
「いいえ僕はあなたが納得するまで終わりにすることはできません」
「こちらとしてはもう話すことはないので、帰らせていただきますが」
「ちょ、ちょっと待ってください。それは無責任です、それとも逃げるということですか。逃げるなら、僕の言うことの方が正しいということでよろしいですか」
どうしてそうなる。スピカは頭が更に痛くなった。レグルスの言う通り、会わなければよかったのだろうか。会ったことで余計に面倒になったような気がしてきた。
「こちらには同志に呼びかける用意があります!市民の中にも同志はいるのです!もうすぐにでも、あなたを糾弾する……」
「そこまでにしないか? そろそろ侮辱罪で法務局に突き出せるぐらいになってきたぞ?」
アルタイルの言葉を途切れさせたのはレグルスだった。終わりが見えなくなったので第三者の登場が必要だと判断し、部屋に足を踏み入れた。
アルタイルは予期せぬ人の登場に驚いた。そして「侮辱罪?」「法務局?」と、いったいそれらがどう自分と結びつくのだろうと目を白黒させる。スピカとレグルスは呆れ、視線を交わし合った。
「話の続きは、お父上とします。療養中とお聞きしているので、心苦しいですが」
「いえ父と話しても無駄……」
「何言ってるんだ?両家の結婚を取り決めたのは当主だ。お前やスピカの間で喩え話が付いたって何も変えられやしないんだぞ?」
「……!」
アルタイルは思い切り衝撃を受け、がた、と椅子から崩れ落ちた。どうやらそういう考えには至っていなかったらしい。もうスピカはアルタイルの方は見なかった。一言、「失礼」と言ってさっさと部屋を出ようとする。
「お待ちください!」と背後からアルタイルの声が追いかけたが、その声がスピカを捕まえることはできなかった。
「……で、どうするんだ?」
「…………」
しばらく歩いたところで、レグルスが尋ねた。スピカは足を止め、あたりに人がいないことを確認すると低い声で答える。
「当主案件になった」
「だろうなあ」
レグルスが同情するような目を向けてくる。スピカは「悪かった」と謝った。
「何で謝った?」
「お前の言った通り、会わない方がよかったかもしれないと思ったからだ」
「うーん、俺はお前の言った通り、会った方がよかったと思う」
スピカは訝しみ「どういうことだ」と眉を寄せた。
「成功したかどうかはさておき、あいつ、何かを企んでいただろう。放っておいたら余計面倒になっていたかもしれない、というお前の心配は当たっていたんだ」
「そう、かもしれないが」
「それにあんなこと口にしたんだ。アルタイルを領地に戻すようあちらさんに警告するには十分だろ」
スピカが当主案件とする、と言った内容はレグルスが口にした通りだった。接触禁止扱いにして、頭が冷えるまで領地預かりとするよう父に交渉を提言するつもりでいた。
「街の方も、変なことが起きていないか一応調べておいた方がいいぜ」
「分かっている」
友人の親切な忠告に、スピカは素直に頷いた。すると、レグルスから風船の空気が抜ける音のような長いため息が発せられた。
「どっと疲れたな」
「本当に」
二人の影が夕日に照らされて廊下に伸びる。影は互いを小突き合うと、仲がよさそうに並んで王宮の奥に消えていった。
遠くの部屋では、誰かの悔しがる叫びが響く。
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