21 昔話
「あ、あの劇団! 次『ベガとアルタイル』やるんだ! 見に行かなきゃ」
王都の一角で聞こえた声にスピカは振り返った。見れば少女が明るい顔で壁に貼られたポスターを指さしている。そこには大きく『ベガとアルタイル』という演目が書かれていた。
スピカは無意識に眉を寄せる。今更ながらに、「そのタイトルはいかがなものか」という考えが頭に浮かぶ。婚約者と同じ名前のそれは、彼女と全く関係がないとは言えないが、やはり個人の人生とは無関係である。
「よりによって。今代は上演を遠慮してもらいたい」
思うだけにとどまらず、声にして呟いたその思いは余計にスピカの胸をズンと重くした。
その昔。今やそれが本当にあったかどうか、誰も分からない遠い過去。誰も分からないけれど、みんな知っている物語。夜空を照らす星々は、星座を作り人々を見守っている。星には逸話が宿り、語り継がれ、今に至る。
その中で最もと言ってもいい程、国民なら誰もが知り、好み、愛し続けてきた恋物語。それが『ベガとアルタイル』である。
かつて地上にいたベガという少女と、アルタイルという青年は深く愛し合ったにもかかわらず、地上で結ばれることが叶わなかった。つらい別れを経て二人は星になり、夜空でひときわ輝きながら愛を囁き合っているという。
何と悲しくて美しいストーリーだろう。スピカはポスターから目を離すと、再び歩き始めた。用事の途中で思わぬ足止めを食ってしまった。
それにしても。どうして先人たちは家の名前に星座を頂き、親族に星々の名前を付けだしたのだろうか。おかげで自分の婚約者であるベガはみんながよく知る物語の「ベガ」にされてしまうし、今代、アルタイルが同じ年の頃で男子として存在している。
『ベガとアルタイル』を見た者は思うだろう。「どうして今代のベガはアルタイルと結ばれないのか」と。
ベガとの結婚を絶対と心得ているスピカは、まったく謂れのない噂話を気にするつもりはない。しかし、先日部下から「そういえばアルタイル様が一度訪ねてきたことがあります」と事後報告を受けたことに嫌な予感がしていた。
レグルスからも「信者だから気を付けろ」と以前忠告されている。
「はあ……」
スピカがやることはひとつ。ベガが悲しまなければそれでいい。降りかかる火の粉から、忍び寄る魔の手から、彼女を守り切ることだ。
ふと空を見上げれば、カッと日の光が家々の屋根を照らしている。
ベガがライラ領に戻ってから三ヶ月が経とうとしていた。顔を見なくなってもう一年になる。そろそろ王都から迎えに行くと言った期限だ。
「どうされているだろうか」
遠くの空に居るベガがスピカの胸を切なくする。スピカは足を速め、王都を二週間離れてもいいよう、方々への用事を済ませに向かった。
それから職場を長期に開けていい準備を整え、部下たちに色々なことを申し送り、スピカは王都をようやく発つ準備を完了した。既に必要な荷物は馬車に載せ、あとは自分が乗り込むだけとなった。
今日は非番だと言って、気楽な格好をしたレグルスが屋敷まで見送りにきた。レグルスはいささか堅い表情をしたスピカの脇腹を突く。
「やめろ」
「婚約者を迎えに行くってんのに、そんな顔してるやつが悪い」
スピカが顔をしかめてため息を吐くと、レグルスがさっきまでの軽薄な表情から一転、真面目な雰囲気をまとって声を落とした。
「スピカ」
「……出会った頃、あの子は自分の負った深い傷に気が付いてすらいなかった。この一年、ヴィルゴでの生活は良いものだったのだと信じている。だが、ここからは私の傍に居てもらわなくてはならない」
「守らなくては」と締めくくるスピカの背を、レグルスが「そうだ」と言って叩く。
「それがお前の今後の人生の務めだよ」
「……行ってくる」
「ああ。楽しみにしてるぜ」
友の顔を一瞥すると、スピカは家の馬車に乗り込んだ。窓の外からレグルスが手を振るのが見える。相変わらず派手な男だと思った。豪胆で、そうは見えないが頭が良く、信頼の置ける偉大な友。
十二星家だけでなく、貴族たちはみな腹の探り合いをしながら生きている。足元をすくい、すくわれ、口から発した言葉と本音が別であることなど当たり前。それが常の中で、信頼に足る友が居るということがどれほど貴重か、スピカとレグルスは互いに知っている。
家と友を天秤にかけたとき、二人はどちらを選ぶか一瞬躊躇うだろう。その躊躇いこそが相手への信頼の証。
「一生、あいつにそれを言うことはないだろう」
遠ざかる影を見ながら、スピカはぽつりと呟いた。きっと、口にするときは、彼を裏切るときだろう。そんな日がくるのかと想像し、スピカはふっと笑った。そんな未来にはさせない。
これからはベガ共々、レグルスに親しくしてもらわなくてはならない。きっと彼はベガのことも大事にしてくれるだろう。
「ベガ……」
儚く、守るべき彼女。ヴィルゴを出て、戻ったライラは彼女にはどんなふうに見えているのだろう。祖父は「わしに聞くな。自分の目で確かめろ」と言うに違いないので、気になっても端から聞かないでいる。
手紙の中のベガは、一生懸命生きていた。実際に目にできないもどかしさはしばしばスピカを苛んだ。この一年はスピカにとってもある種闘いだった。
ライラ領まで五日。どれだけ想像しても、きっと現実は覆してくるだろう。ベガが期待通り回復していても、いなくても、スピカは温かく彼女を抱きしめようと思った。
「ベガ、ベガ! あら? ベガはどこへ?」
「あら奥様。ベガ様なら今朝もジェイド様と畑へ」
「やだ! 今日にはスピカ様が到着なさるのに!」
ライラの畑の管理を任されているうちの一人、フィリップス夫人は慌てて畑へ駆けていく現当主の母親の背中を見送った。それが微笑ましくて、自然と笑みが零れる。彼女はベガが来てから、まるで自分の娘のように可愛がり、世話を焼き、時には叱り。
領民たちはライラの一族たちの素朴なやり取りを目にし、ようやく領地の安泰を悟った。
フィリップス夫人は広がる茶畑から聞こえてくる「ベガ!」という声に苦笑した。ベガに迎えが来たら、この優しく和やかな光景を見ることができなくなってしまう。受け容れなくてはならないと分かっていても、得も言われぬ寂しさを胸に抱えているのは、自分だけではない。
「やだわ、もう。涙もろくなっちゃって」
夫人は笑いながら目元をぬぐった。今日は忙しい、泣いている暇はない。
◇◇◇
ジェイドさんと一緒に今朝も畑で作業をしていたら、必死な形相の叔母さまが向こうから駆けてきた。叔母さまは健脚の持ち主で、走ると誰よりも速い。私たちのところにあっという間に到達した。
「どうされましたか!」と迎えれば、叔母さまからぴしゃりと「どうしたではありませんよ!」と返ってくる。
「今日にもスピカ様が到着なさるわ、綺麗にして、きちんとお出迎えしないと」
「ああ、母さん、ベガはね」
説明をしようとしてくれたジェイドさんの袖を軽く引っ張る。それだけで私の言いたいことを分かってくれたのか、ジェイドさんは私に目配せをすると口を閉じた。
(ありがとうございます)
会釈で想いを伝えれば、彼から「どうぞ」と続きを促すような目線を送られる。私は頷いて叔母さまの目を見た。
「色々とご準備してくださり、ありがとうございます。もちろん、ドレスには着替えます、スピカ様にもきちんとご挨拶いたします」
「あ、あなたなら分かっているでしょうけど……」
自分が取り乱していたことに気が付いたのか、叔母さまは少し恥ずかしそうに頬に手をやった。
「ご到着の時にバタバタしていたら恥ずかしいですよ。今日は畑はお休みにして、準備してお家で待っていなさいな」
「叔母さま、そこなのですけれど。私、スピカ様にはいつも通りの私でお会いしたいのです」
私の発言に叔母さまはぎょっとし、次に私の頭のてっぺんからつま先までをじっと眺めた。
「……その格好で?」
「は、はい」
眉を顰められるのは分かる。何せ、今の私の装いといったら、ところどころ枝にひっかけてちょっとほつれた作業用のシャツに、裾に土の付いたスカート、そしてポケットにハサミを常備した丈夫なエプロンというものだからだ。身ぎれいとはとても言いかねる。
「……」
「…………」
しばし、私と叔母さまの見つめ合いが続いた。私が折れないと見て取ると、叔母さまはふっと肩から力を抜く。
「あなたがそれでいいと言うのなら」
「叔母さま!」
眉を下げ、叔母さまは少し呆れた様子で微笑んだ。そして、「たまには休憩を取るのですよ」といつもと同じことを言って私たちに背を向ける。
その背に「ありがとうございます!」と叫ぶと、叔母さまは一度だけ振り返って手を振った。
「嬉しい……」
「はは」
「どうされましたか」
不意に聞こえた笑い声に首をかしげると、ジェイドさんはやはり笑いながら「ごめんよ」と言って謝った。
「失礼、存外緊張していないものだなと思って。リラックスしているなあと」
「……緊張していないわけではありませんが」
「うん」
「嬉しい方がいくらも勝るものですから」
自然と浮かぶ微笑みをそのままに、正直に告げる。スピカ様に会えると思うと、胸の中がほこほことし、ふくふくとした笑みが零れる。そのままこみ上げる幸せに浸っていると、また隣から「ははは」と聞こえた。
「どうしましたか」と再び問えば、ジェイドさんはさっきよりもずっと笑みを深めて「ベガのが移ったんだよ」と言った。
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