20 ライラ領
朝、目が覚めて驚いた。見知った天井が見えたこと。それに大きな感動も、大きな恐怖もなかったこと。ここで目を覚ますことが、こんなに何でもなかったなんて。私は普通に着替えて普通に部屋を出た。
あの人たちを起こさないようにという配慮はもうしなくていい。朝食の用意も、洗濯も。
(必要ないんだ……)
ぼんやりとそんなことを思いながら廊下を進み、ザニアお爺様の泊まった部屋を訪ねた。控え目なノックで来訪を知らせる。
お爺様こそ慣れないところだ。ベッドだってきっとご自身の方がいいものを使っているだろう。十分休めただろうか。
「…………」
ノックから数十秒。何も反応がない。もしかしたらまだ寝ているのだろうか。窓を見ると、もう朝日がしっかり差している。普段のお爺様なら確実に起きて活動されている頃だ。不思議に思ってもう一度、今度はしっかり目にドアを叩いてみた。
「……あら?」
やはり返事はない。これはいよいよ不審だ。もし体調を急に崩されて、部屋で倒れていたらとんでもないことだ。私は意を決し、ドアノブに手をかけた。
「お爺様? 失礼いたします……?」
ドアに鍵はかかっておらず、すんなりと開く。そして部屋を恐る恐る覗いてみる。しかし。
「いらっしゃらない……?」
部屋はもぬけの殻だった。どこに行ったのだろうか。ここは不案内の土地。お爺様がどこかへお出かけになるには、ライラの家の誰かが一緒について行った方がいい。私は部屋を後にして、まず家の中を探すことにした。
階段を降りると、居間の方から声が聞こえた。この家に住んでいる人は居ないけれど、コータス叔父さんや叔母さんは鍵を持っていて自由に出入りができる。私も是非好きにしてほしいと言った。
「叔父さん……?」
居間に顔を出すと、思った通りコータス叔父さんと叔母さんが居た。二人は私を見つけると「おはよう」と笑顔をくれる。
「あの、お爺様がお部屋にいらっしゃらなくて」
「ザニア様なら、一時間程前にもうご出発されたよ」
コータス叔父さんが眉を下げる。私は思わず「え!?」と大きな声を上げた。叔母さんが私に近付いて、両肩を優しく抱く。
「見送りは不要っておっしゃって。それはもう潔く」
「え? ええ……?」
驚きと戸惑いを隠せない。昨日の夜、「明日はお爺様を笑顔で送り出す」と決めていたのに。まさか顔も合わせずに行ってしまうなんて。昨夜の「元気でおやり」がお爺様の別れの挨拶だったのだ。
(お爺様らしいと言えば、そうだけど……)
途端に寂しさが押し寄せた。
「直ぐ会えるよ。そうだろう?」
叔父さんが私を元気づけるように言う。
(お爺様は最初からこうするおつもりだったのかもしれないわ。私がライラの人よりもお爺様と親しくしてしまうから……)
私は「はい」と自分を納得させながら頷いた。あの方はいつでも優しく、厳しい。
朝食を終えると、私は用意してもらったエプロンと丈夫な手袋を装着し、茶畑やその他の畑の散策に出かけた。案内はジェイドさんだ。ジェイドさんは私の格好を見て「やる気だね」と目を丸くした。
「領地の広さは勿論ヴィルゴには及ばないけど、うちには自慢のお茶がある」
「メロウ、ドロップ、ペールですね」
「そうそう。最近はドロップとペールの掛け合わせにも挑戦してるよ」
「あっちの方」とジェイドさんは東の方を指す。遠くからではよく分からなかったけれど、柵で囲まれた畑が見えた。
「あ! ベガ様ですか!? こんにちは!」
「本当だ! よくお帰りなさいました」
畑で仕事をしていた恰幅の好い女性とがっしりした体格の男性が私を見つけてこちらに向かってくる。彼らと面識があった覚えはないけれど、あちらは私のことをきちんと認識してくれているようだ。
そわそわし出した私に気が付いたジェイドさんはサッと小声で「ここの畑の管理をしてる。フィリップス夫妻だよ」と教えてくれた。
フィリップス夫妻は帽子を取ると、私に恭しく頭を下げる。私は二人の行動にギョッとした。
「あ、あの……!? どうぞお顔をお上げになってください」
「……」
「ベガ様……」
顔を上げた二人の目に涙が浮かんでいた。
「ど、どうかなさいましたか!?」
「ッ、すみません……!」
「うぅっ」
口元を押さえ、目頭を擦り、言葉を詰まらせてしまったフィリップス夫妻。私は弱ってジェイドさんを見た。
「フィリップスさん。ベガが驚いていますよ」
ジェイドさんが朗らかに話しかけると、二人は「分かっている」という風に頭を振って応えた。奥さんの方がごしごしと目元を拭い、パッと笑顔を咲かせる。
「よく大きくなられました。こんな小さい頃は本当に可愛らしくて…!」
「俺たちは働くしかできねえもんですから。あの家の中でどうされているのかと……」
(何てこと……)
頭を下げるのは私の方だ。さっきの二人よりも深く腰を折る。胸が潰れそうになる。皆が動揺する気配がしたが構わない。
「……機能しない当主の間、よく支えてくださいました」
「やだベガ様! お顔を上げてください!」
「そうですよ、あなたにそんなことされちゃ」
慌てる声が聞こえる。けれど、私はまだ頭を上げる訳にはいかない。できることなら、こうして領地の人々一人ずつに頭を下げて回りたいくらいだ。
「……畑の、買い戻しも。ご苦労をおかけいたしました」
「ベガ……」
ジェイドさんが「どこで聞いたんだい」と続けた。
「昨夜、話している声が聞こえてしまいました」
辛い思いをしていたのは、私だけではなかった。私のために、皆が苦労をしてくれた。正直なところ「やっぱりそうだったのか」と思った。胸が貫かれるような思いがしたけれど、大きな驚きはなかった。
あの人たちのことだ。私以外にだって横暴に振舞っていたに違いないのだ。
今になっても直接教えられていないのだから、ジェイドさんやお爺様は私には伏せておきたかったのかもしれない。
「私のために皆さんがしてくれたこと、知らないままでは恥知らずでした。盗み聞きしたことはお許しください」
畑の買い戻しで、ここが決して裕福でない状態になっていることも知ってしまった。
(……ごめんなさい)
「ありがとうございました」
それだけ言い切ると、私は姿勢を戻した。フィリップス夫妻も、ジェイドさんも、悲しみを湛えた笑顔を浮かべていた。
「ベガ様の辛さに比べたら、私達のしたことなんて、大した苦労ではありませんよ」
私は両親や先祖に感謝した。私がこうして大事にしてもらえるのは、彼らのおかげだと思った。
夫妻と別れると、ジェイドさんとまた畑の間を歩く。時折出会う人々は皆挨拶をしてくれた。初めて接する領地の人々を見て気が付いた。
(領地というのは、土地だけではない。人のことだわ)
人々がいてこその自治領。思い知らなくてはならない。私たちは、統治する側ではあるけれど、彼らに支えられているということを。
「ようやく、私は自分の故郷が見えました」
広がる茶畑。遠く近くで動く小さな人の影。風が吹けば子供が笑う。空の高い所を鳥が旋回していた。
ここが、ライラ領。息を吸えば畑の好い匂いがする。ヴィルゴとは違った空気だった。
「ベガ」
ジェイドさんが静かに私を呼ぶ。
「特級畑を見に行くかい」
「はい!」
元気に返事をすると、ジェイドさんは柔らかく笑った。私がスピカ様と結婚したら、彼のものになる畑。是非この目で見ておきたい。叶うことなら、私も世話をしたい。流石ライラの畑、と言ってもらいたい。
それがライラの皆と、スピカ様への恩返しの足しになればいい。
ピカピカに光る葉を茂らせた茶畑は、まるで笑っているかのようだった。
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