2 運命の日
つまりは、アレだ。私はずっと「結婚したらこの家から逃げられる」と思ってきていたが、恐らくそう思っていたのは私だけだったのだ。
義父や義母はきっと以前から、いや、リリアが生まれたときから私と彼女をすげ変えようと目論んでいたのだろう。
「ははっ。そりゃそうね…」
私の口から乾いた笑いが漏れる。私がいなくなったら、この家の雑務は誰がやると言うのだ。何の用意もしていない私がどうやって良家に迎えられるのか。
義父の言う通り、私は愚かだったのだろう。鬼のような彼らが、私に情けなどかけるわけがない。逆らわないように躾けてきた奴隷を今更逃がすわけがない。
「―――っ!」
私は胸が苦しくなってしゃがみ込んだ。泣きたいのに、悲しいのに、涙は出て来なかった。何でも彼らは言う通りにしてきた。だから、今回もそうなるだろう。私からしたら彼らは強大で、絶対的な権力者だ。彼らの望まないことなど、起きはしないのだ。この家で。
「お暇申し上げます」
そして、ひと月前。最後のメイドが書置きを残して辞めた。私は怒りや悲しみよりも「やっぱりな」という気持ちの方が強かった。ここまでくると恨む気持ちはない。こんなに劣悪な環境で何年も良くやってくれた。どうか元気に暮らしてほしい。
そんな感傷もほんの一瞬。直ぐに頭を占めるのは、彼女と分担していた仕事の進め方だ。今まで午前中は私は食事の用意、彼女は掃除としていたが、そうできなくなった以上、効率を考える必要がある。
悲しいことに、新しい人材の募集をかけても人が集まらない。きっと業界では悪名高い家として有名なのだろうと思う。一度、料理人として雇われた青年が初日にして「うわあ噂通りだった…」と頭を抱えているところを目撃してしまった。
使用人がいない、家事が滞る、理想の生活が満たされない。
その全ての不満は当然私に降りかかった。もはや私として取れる策は、頑張ること。それ以外に取り柄も無い。残念ながら、教養も何もない私は他所に出て働ける自信も無く、「愚か」な故、ここ以外で生きてなどいけないだろう。
無意識に包丁を見つめることが多くなってきたと自覚した頃。日々の諦めきった忙しさの中でどうでもよくなっていた日がやってきた。
『娘が十八になったときに、ヴィルゴ家に迎え入れる』
実の父親が取り付けた約束の日、私の十八の誕生日。ヴィルゴ家から使いが来るとの書状が前もって届いていた。
その日、私は朝早くから義母に言われた通り、リリアを着飾っていた。リリアは最新式のドレスに袖を通し、綺麗に結った髪とキラキラと輝く宝石のアクセサリーを身に着けた。私が最後の仕上げに彼女の前髪を櫛で整えると、リリアは珍しく満面の笑みで私に「ありがとう」と礼を言った。
それが私に着飾ってもらったからなのか、私から結婚相手を貰うからなのか、彼女の意図は分からなかったが、私は無感動に「いいえ」とだけ返した。心底、どちらでも良かったのである。
リリアもリリアで私の反応には興味がないらしく、ルンルンと鏡の前で回った。能天気な彼女は、十五以上も離れた男性に嫁ぐことに何の不安もないのだろう。
午後を過ぎると、やたらと豪華な馬車が屋敷に到着した。私は外まで迎え出て、馬車から降りてきた使いだと言う人を屋敷に迎え入れた。流石十二星家に仕える人だけあって、至極立派な身なりだった。私は使用人でさえこんなに立派なのかと、内心恐れ入った。
そう思ったのは私だけでは無かったようで、義父も義母も、そしてリリアもパチパチと目を瞬き、恭しく彼を応接室へ通した。彼の装いを見て、自分達がヴィルゴ家から丁重な扱いを受けたと思っているに違いない。
私はため息を吐くと、お茶の支度をとりにキッチンへ下がった。
ティーセットを持って応接室へ行くと、皆ソファに座って当たり障りのない今日の天気などを話していた。どうやらお茶がやってくるのを待っていたようだ。
私はせっせと無言でテーブルにお茶の用意を整える。丁寧に蒸らした茶葉は良い頃合いで、カップに紅茶を注げばふくよかな香りが立ち上った。
使いの人は私に礼をすると、紅茶の香りに口元をわずかに緩ませた。
そんな対応をされたのは初めてで、私は物珍しさにギョッとした。うちの『家族』など、銘柄さえ有名なところであれば、あとはそれが持つ味や香りについてはあまり興味が無いらしく、私が明らかな失敗(零す、お茶の色が悪い等)さえしなければ、何を飲んでも同じ反応をするというのに。
「ああ、美味しい。これはライラの特産の…」
「メロウですわ!今年の新茶は、出来が良くて!ほほほ!」
使いの人の言葉尻を捕まえて、義母はにっこりと得意げに笑った。使いの人はそれを聞いて「ほう」と一瞬不思議そうな顔をしたものの、直ぐに柔らかく笑みを湛え「美味しいですね」と言った。
(それはファーストフラッシュじゃないんですけど…セカンドフラッシュなんですけど…)
私は恥ずかしさでいたたまれなくなった。恐らく、使いの人は違いを分かっている。余所様に分かって、本場の人間が間違うとは、何と滑稽なのだろうか。
私が気まずい思いで部屋の隅に移動すると、使いの人は「さて」と改まった。
「あまり急いては失礼かもしれませんが、ベガ様はどちらに?」
『家族』はその問いかけに、少々前のめりになった。義母とリリアはいよいよこの時が来た、と期待に満ちた目を輝かせた。リリアは目に見えていつもよりもお行儀よくしている。
私は何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。
(ここで何も言わずに立っている私自身も含めて)
義父はわざとらしく困り顔を作った。
「それがですね、そのことでご相談がありまして…」
「相談、ですか…」
ヴィルゴ家の使いは、わずかに顔を曇らせた。そして、上着の内側から綺麗な模様の入った筒を取り出し、その中から一枚の上質な紙を出した。それは、『ヴィルゴ家のスピカとライラ家のベガは結婚するものとする』と書かれ、私の血判が押された婚約の誓約書だった。
(すごく丁寧に保管してある…)
作られたのが十五年も前であるにも関わらず、紙はさっきおろされたばかりのように綺麗だった。私は自分と関わりのある物が大事にされてきたという感動でその誓約書を凝視した。
対して、我が家の誓約書と言えば、『ベガ』という名前が入っているため後から作り直す気満々だった義父の雑な保管のせいで経年劣化が激しく、日焼けで紙の色が変わっている。確か、書斎の本棚の上の粗末な額に入れられているはずだ。
私は感動で震える一方、絶対にヴィルゴ家がもってきたものと、我が家のそれを並べてはならないと別の意味でも震えた。
「我が家は、ここに誓った通りベガ嬢をもらい受けるつもりでこれまで準備を整えてきました。それが、今になってどうというのですか」
使いは厳しい声で、咎めるに近い雰囲気を醸しながら義父に鋭い視線を向けた。義父はわずかに鼻白んだようだったが、『我が家の人々』は厚かましさでは他の追随を許さない。めげずに応戦した。
「あの子は本当に、あまり出来が良くなくて。ヴィルゴ家に嫁がせるにはあまりにも申し訳ないのです」
「教育不足ということですか。こちらでも勿論力添えをいたしますから、ご心配なく」
「一般教養はおろか、ダンスもろくに…」
「教典くらいは読んだでしょう」
「いや、どうでしょう…」
「基本のステップは?」
「それも…うーん…多分、出来ないのでは…?」
私は義父と使いの人のやり取りに、胃が痛くなった。使いの人は明らかに「今まで何をしていたんだこの人」という顔をしていた。私もそう思う。いくら娘の出来が良くないからと言って、いずれ嫁がせる娘に何の対策もしてこなかったのかと聞きたくなるような反応だった。
(もう少しましな言い訳も用意していなかったのかしら…)
こんな家なら、例え代わりに妹をよろしくと言われても、不安と疑いしか抱かないだろう。私は恐る恐る、使いの人の表情を窺った。
(こ、こわい…)
使いの人は、眉間に皺を寄せて非常に厳めしい面持ちになっていた。
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