19 今日までと明日から
ライラ領に戻ってきた。私の住んでいた家はそのまま残されていた。叔父に手を引かれ、私は実家と呼んでいいものか、とにかく元居た家へと向かった。私の後ろをお爺様が付いて歩く。
馬車から降りるとお爺様はワッと囲まれ、色々とお礼や挨拶を受けたけれど、「今日はただの付き添いなのでお構いなさらず」と断っていた。その顔には若干面倒そうな色が浮かんでいた。
当主を退いた身は気楽でいい、と以前言っていたのを聞いたことがある。その時は何も思わなかったけれど、先の姿を見て、本来の性格的にあまり恭しくされるのはお好きではないのかもしれない、と思った。
「実は、その……。結構いじってしまってなあ」
叔父は決まりの悪い様子でそう言いながら家のドアを開いた。どういう意味だろうと首を傾げたのは一瞬で、中に入って直ぐに事情が分かった。
「スッキリしましたね」
外観は知っているそのままだったが、中身はきれいさっぱり、日に日に増えていった派手でギラギラした調度品がなくなっていた。エントランスに飾ってあった大きな壺、巨大なクリスタルの彫像はその痕跡を床に残し、居なくなっている。
(他の部屋もそうかしら)
ちらと覗いた客間も、思った通り。踏んだら怒られた高級なマットも、宝石が飾ってあった棚もまるごと消えている。
私がしげしげと家の中を眺めている傍で、叔父は先の私の言葉をどう受け取ったらいいかと困った顔になっていた。
「ううん、あんなもの、あっても無駄だと先日処分してしまって。偽物も混ざっていたし。ベガがまさか戻ってきてくれるとは思いもよらず、その、欲しかったか?」
私は気まずそうな叔父に向かって素直に「いいえ」と首を横に振った。ここに居た時には掃除がし辛くて邪魔だと思っていた品々だった。しかも、いつも綺麗にしておかなくては義父・義母の機嫌は悪くなった、という嫌な思い出付き。
却って、そんな記憶を宿した物がなくなっていて有難く思った。
「そ、そうか……! 良かった……!」
叔父はホッとして胸を撫でおろした。
私もオメデタイもので、なくなったものが何か、全部は思い出せない。その方がいい。飾りっ気のない壁を見て、そう思った。
私の部屋は、前と変わらず。掃除の行き届いた状態で保存されていた。もう誰も使っていないというのに。
「ここがお前さんの部屋か」
「はい」
「物が少ないのう」
私は曖昧に笑って応えた。着の身着のまま、スピカ様に連れられて出ていったというのに、部屋の中は殆ど物がない。机、椅子、ベッド、小さなタンスがひとつ。タンスの中はくたびれた服が眠っていた。今見ると、何とみすぼらしいのだろう。
スピカ様がここに来た日、大事なお客様だからとマシな服を着させられたから、まだ良かったものの。普段着だったらと思うと、恥ずかしくて穴に入りたくなる。スピカ様の屋敷の皆の方が余程素敵な格好をしている。
「……」
お爺様の顔が僅かに陰る。
「お爺様、もう」
「分かっておるよ。お前さんが気を遣うな」
「……はい」
私のかつての扱いを想像して、また気を病まれたのかもしれないと思った。あれは、もう過去のこと。いちいちお互いに「気にしないで」と言うのも、いい加減にした方が良いのだろう。
「滞在中に必要な物は揃える。何でも言ってくれ」
叔父の申し出に、私は小さくお礼を言った。私が考える素振りを見せると、横に居たお爺様がにやりと笑う。
「お前さんはエプロンと農具が欲しかろう」
「……はい!」
「え? 農具?」と目を点にした叔父を前に、私とお爺さんは揃って笑みを浮かべた。
遅めの夕食を作ってくれたのは、最後まで辞めずにいてくれた料理人だった。今は叔父の家で働いているそうで、私を見て「ベガ様! 少しお太りになられましたね!」と涙を浮かべた。健康的になった自覚はある。ここに居た頃は、食も細く、常にストレスでやせっぽっちだった。太った、と言われたのに私も嬉しくて泣きそうになってしまった。
「成程、ライラは今ご子息が」
「そんな立派なもんじゃありません。な、ジェイド」
「ええ。本来ならベガの了承を得てから俺が継ぐべきでしたが……」
テーブルの向かいには、叔父とその息子、私にとっては従兄にあたるジェイドさんが座っている。四人で食事をしながら、これまでとこれからのことを語り合った。
ジェイドさんは私よりも二つ上のお兄さん。正直なところ、「初めまして」なので、不躾とは分かっているけれど、ジロジロと見てしまう。彼はいかにもしっかりした感じで、お爺様からの質問にもきちんと答えている。そんな人が「私の了承を」と言うので、危うく咽るところだった。
(わ、私の了承なんて!)
と、声に出しそうになり、私は咄嗟に口を押さえた。一体何のために私はここに戻ってきたのか。自分はライラの娘だと、長の娘だと自覚したのではなかったのか。喩え、領地のことを何も知らなくても。いや、知らないからこそ、至らないからこそここに帰ってきたのではないか。
ぐっと息を吸い、ジェイドさんを真っ直ぐ見る。
「遅ればせながら、申し上げます。どうぞ、ライラの領地をよろしくお願いいたします」
言えた。緊張したけれど、噛まずに言えた。隣のお爺様から、温かい視線を感じる。
「心得ました」
ジェイドさんは、嫌な顔も、馬鹿にもせず、きちんと私の言葉を受け止め、頷いて応えてくれる。何だか胸がいっぱいになってしまい、その後、私は碌にお話しすることができなかった。
食事が終わると、お爺様はそのまま私の生家に泊まるよう案内された。明日にはもう帰るとおっしゃるので、心許ないし、寂しい。
「元気でおやり」
「はい」
お休みの挨拶までしてしまうと、明日まであっという間だ。数か月、一緒に暮らしてきた頼りになるお爺様としばらく会えなくなってしまう。離れることを願ったのは私なのに、こんなに心細い気持ちになるとは。
「そのうちスピカを迎えに寄越すから」
「……」
声が詰まって、私は頷くことしかできなくなってしまった。お爺様は私の頭を撫で、宥めるように優しく「大丈夫」と言った。
「大丈夫。お前さんは家に帰ってきただけだ。忘れものを取りに来たんだよ」
コクコクと、何度も頷いた。
「もうお休み。体に障る」
離れがたく、私が自分から立ち去れないことがお爺様には容易に分かったのだろう。お爺様のその言葉をきっかけに、私は「おやすみなさい」と部屋を後にした。
◇◇◇
「待たせたね」
「ザニア様」
ベガを部屋に行かせた後、ザニアはジェイドと約束していた通り、夜の庭へと向かった。ジェイドは既に待っていて、一人で夜空を見上げていた。ザニアに気が付くと、深く頭を下げる。
「ベガは?」
「休ませた」
ジェイドは「そうですか」と息を吐き、ベガの部屋の窓を見る。灯りは点いていなかった。
「寝られるでしょうか。あの部屋で」
「ここがあの子の家だ。安心して朝を迎えられることを明日の朝に実感するだろう」
「成程」
「さて、本題だが」
ザニアがそう呟くと、ジェイドは視線を戻す。
「家へ持参金代わりに貰えるという畑だが、約束通り貰って平気か」
「……お恥ずかしいことです」
「よくご存じで」とジェイドは眉を下げた。
一度他人の手に売られた特級畑を買い戻すのに、ライラが費やした労力と財産は多大なものだった。領地運営をまともにしなかったカガシの爪痕は今もライラ領に深く残っている。
ベガの家の財産を売ったと聞いた時、ザニアはライラの状況を理解した。豪華な調度を処分したのは決してベガの嫌な思い出を捨てるため、或いは家の整理のためだけではなかったのだろう。
「ご心配をおかけして申し訳ございません。ベガの婚姻の用意と、ヴィルゴ家へお渡しする畑は、確保できております。今後は……今よりも酷いことにはなりますまい。ですが、こんな現状の当家との婚姻を、まだ利としていただけますか」
「いつでも政治は先を見据えて利となるかを判断するものよ」
未来に、ジェイドに期待をかけようというザニアに、若い当主は気を引き締めた。
「それに、あの子を手放すことはもうできん。あの子は、ヴィルゴに必要な子だ」
「……そうですか」
ザニアは空を見上げ、一際輝く星を眺めた。遠く光る、あの星を。
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