17 芽吹き
風に香りが乗ってきた。王宮の一角を歩く一人の男は落ち着きなく、無意識に髪をいじっていた。
「もう王宮に出仕してしばらく経つのに……。あの方どころか、スピカ様にも会えないなんて。言わなくちゃいけないのに。お教えしないといけないのに。あの方——ベガ様は、この僕と結ばれることになっているって。その時が巡ってきたって」
男はひとり言を言いながらそのまま王宮を出た。馬車に乗る気分ではなく、自分を待っていた迎えを帰らせ、賑わう王都の街を進む。背後からガラガラと馬車が石畳を走る音を鳴らし、男を追い抜いていく。男は馬車に描かれている紋章を見て、気持ちを乱した。
「ヴィルゴ……!」
走り去る馬車を眺めても、中に乗る人間までは分からない。あと少し、王宮に留まっていたらスピカにまみえることができたかもしれない。
スピカの部屋、農林局の局長室への道は遠かった。
農林局の場所は勿論知っているのだが、局長スピカの周りを固める職員たちの守りが固い。仕事以外の用のない人間は決して取り次がない。初めて行った際に正直に用事を告げたが、「局長は忙しいから」と言って追い返された。
以来顔を覚えられたらしく、訪れても毎度門前払いを食らっている。許されているのはレグルスや上官くらいだ。
もどかしさに加え、そんな仕打ちを受けるとは。男は苛立って眉を寄せた。速足で通りを歩いていると、「占星術」と書かれた看板が並ぶ。
占星術。
星から運命を知るという彼ら。古くは自分の家も星の動きから自然を、世界の動きを知ることができた。しかし今に残っているのはその古い事実と、血だけ。いや。違う。自分は違う——自分は。
「もし。あなた様は、アクイラ家のアルタイル様ではございませんか」
気が付くと、目の前に見知らぬ男が立っていた。顔からは今までの苦労が窺い知れる。身なりは綺麗とは言い難かった。アルタイルは突然話しかけてきた中年の男を不審そうに見た。
「ベガ様はこのままでは不幸になる」
アルタイルはその言葉に数度目を瞬いた。
◇◇◇
朝。いつものように起きて窓を開けた。窓から入ってくる空気が変わった。新しい緑の匂いがする。かすかだけれど、芽吹きを感じた。ベッドに再び戻り、白いシーツのかかったふかふかの布団を深く被る。頭の上で揺れるカーテンを見ながら、得も言われぬ心地良さと幸福が私を満たした。今日はあと少しだけこうしていよう。
いつもより余計に十分程布団でゴロゴロし、着替えて部屋を出た。すれ違う使用人たちに挨拶をすると、今日は箒を持って外に出た。一昨日よりも昨日。昨日よりも今日。世界は段々と色を変えていく。
足元に咲いていた小さな花を見つけて、自然と頬が緩んだ。
屋敷の前に広がる畑。その横に続く道の先からお爺様が歩いてくる。私は待ちきれずにお爺様の方へと駆けた。
「おはようございます」
「うむ。おはよう」
お爺様は私の顔を見ると、次に畑へ目を向けた。
「今日は畑に付いてきなさい」
私は嬉しくなって「はい!」と良い返事をする。お爺様は「うむ」と頷いた。二人で屋敷に向かう。花が咲いていたことを報告すると、「そうだな。明日、ワシのとこのを持って来てやろう」と返される。
(ワシのとこの?)
私はどういうことかよく分からなかったので、曖昧に笑っておいた。
その日、お爺様と一緒に畑に出た。久しぶりの畑スタイルに嬉しくなる。エプロンを新調しましょうかとメイドに訊かれたけれど、この土の跡はいつどこで付いたもの等々、愛着がある。
ただの汚れと言われてはその通りではあるが、思い出としてしまって捨てられない。メイドにそう伝えると、彼女は眉を下げて笑っていた。
「そろそろ種まきですか」
「種はあと三週間後。昨夜ようやく星が来た。耕さねばならんからな。皆に知らせに行くぞ」
お爺様と畑を回り、土の様子を確認した後。領地の皆のまとめ役の人のところへ足を運ぶ。まとめ役は「畏まりました」と慣れた様子で胸に手を当てて一礼した。お爺様は細かいことは何も言わず、その後は振舞われたお茶を飲みながら世間話に興じていた。
私が初めてのことに緊張して縮こまっていると察した二人は時折私に同意を求めたり、感想を求めたりして、話の輪に入れようとしてくれる。
「麦の穂が風に一斉に揺れるのは圧巻ですよ。ご覧になったことはおありですか」
「あ、は、はい! ライラには茶畑以外もあったので」
私が茶畑という単語を出すとお爺様とまとめ役は「そうそう」と表情を変えた。
「そういえば、お前さんとこの茶畑をあやつに一部貰えるそうじゃな」
「メロウの特級畑と伺っておりますな」
「……」
二人の笑顔に対して、私は言葉が出なかった。だって。
(そ、そうなんだ)
情報を徹底的に遮断されていた私は、あそこで何が起こり、何がどう決められていたのかを知らない。当時健在だったお父様がどういう取り決めをしたのか。
(知りたい)
あそこには、私だけが知らないことが多すぎる。
「ライラ」
「……」
お爺様が私の頭をぐいと撫でた。
「私の領地は、いえ、私たちの土地は……どういうところなのでしょう……」
湧き上がってきた惨めさに耐えられなくなった私は俯いた。お爺様が私をもう一度呼ぶ。イヤイヤと子供の様に頭を振れば、自身へのさもしさに苛まれた。
気まずい空気になったことでお爺様は場を切り上げ、適当に挨拶をしてまとめ役の家を出た。やってしまった。私は空気を悪くしたことを申し訳なく思った。
先を歩くお爺様の背中を見ながら私はとぼとぼと歩いた。やがてお爺様が不意に足を止める。どうしたのだろうと思って隣に立つと、お爺様は辺りに広がる畑の向こうを見ながら言った。
「……私たち、と言えるのか」
お爺様は私を見た。珍しく浮かない顔のお爺様と目が合った。私は酷く悪いことをした気になって、慌てて謝ろうとしたけれど、先にお爺様に制されてしまう。
「まだお前さんはライラの一員だと思えるか。ここに居て育った心はここに根付いてはおらんのか」
「お爺様……?」
決して、私を咎めるような言い方ではなかった。むしろ責めているのは自分自身であるかのような。
「辛い思いをしただろう」
だから忘れていい。そう示唆されているのだと分かった。厳しいお爺様にしては甘いことを言うと思った。
「確かに婚姻はライラ家とヴィルゴ家によるものだ。だがそんなもの紙の上の物。政治は勝手に進んでいく。紙の上の決め事が、お前という子に指を切る以上の……大きな傷を作ってしまったことは贖えない」
お爺様も、スピカ様と同じ。知らなかったこと、何もできなかったことを悔いているのだ。
(やだ……そんなの……そんなのは)
私はお爺様の手を取った。言葉が見つからず、ただただギュッとその手を包む。喋らなくてもこうして想いが伝わるといいのに。
「健やかに暮らして欲しい。十二星家と威張っておきながらこの体たらく。お前にも、シェリアクにも——お前の父にも顔向けができん」
「そんなこと!」
普段よりも大きく出た声に驚いたのか、お爺様は目を見張った。けれどそんなことに構っていられない程、私の心は乱れている。何をどう言ったらいいのか。よく考える前に口は動く。
「思っていただかなくても大丈夫です! 私は、私の人生は私のものですから! 確かに私を傷つけた人はいました。けれど私の身に起こったことをヴィルゴに押し付けるつもりは一切ありません」
「……」
「だって、そんなこと、もう必要ないのです。終わったのですもの! 私は終わりのない苦しみが辛かった。でもそれをスピカ様が終わらせてくださった。私にあるのはそのことへの感謝だけです」
そう。全てが辛い中で一体何が最も苦しかったのか。それはいつ終わるか分からない辛苦が続くこと。妹が代わりになると聞かされた時、あの生活が終わらないと思った。怒声を聞く瞬間よりも。蔑まれる一時よりも。それらが終わらないことに絶望したのだ。
「私がこんなことを言えるようになったのはここに来てから。皆さんのおかげです。生きることを楽しいと思いました。次の日目を覚ますことがこんなに待ち遠しいことってあるかしらと」
どうしよう。目からボロボロと涙が零れている。拭う手はお爺様の手を握りしめていて動かない。私は体のかしこに自由が利かなくなっていた。
「で、でも! それはそれとしても、私にも、何もできない私にも、ライラの人間だという矜持は捨てられないのです。だ、だって、あそこは! ほんの少しだけでも、お父様と、お母様と暮らした土地ですもの……っ!」
ザアザアと風が吹いた。泣きじゃくる私の頭をお爺様が自由な方の手で撫でる。まるで子供をあやすような手つきだった。
「帰るか」
どのくらい経ったか分からなかったが、ようやく私が泣き止むとお爺様はポツリと言った。
居た堪れなさにもじもじしながら私は「はい」と返事をした。お爺様は苦笑しながら「違う」と言った。
「ライラに」
「え」
「ライラに、帰るか」
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