1 地獄の日々
それは、三カ月前の事だった。夕食が終わり、私が『家族』たちの食器を我が家唯一のメイドと共に片付けている時。いつになく機嫌の良さそうな義父は珍しく私に笑いかけた。
「ベガ…お前の、例の婚姻だが。お前ではなく妹のリリアに変えることにした」
私は耳を疑い、思わず食器を取り落とした。幸い、銀製だったので割れはしなかったが大きな音が鳴り、義母は思い切り眉をしかめた。私は叱責が飛んでくる前に急いで「すみません」と謝り、食器を拾う。
しかし、頭の中では先の義父の言葉がぐるぐると渦巻いていた。
「これで我が家は安泰だ。長女のお前が他所に行ってしまっては、この家はどうするのかと心配でならなかった。リリアがいいと言ってくれて助かったよ」
「お家のお役に立つのなら」
リリアはまだあどけなさの残る顔で、謙虚に笑う。義父も義母も、実の娘に向かってにこにこと笑いかけた。
(そんなこと…それはあまりにも…)
大きな絶望が私を襲った。婚姻。それだけが、私の唯一の望みだったのだ。この地獄から脱出できる、唯一の正当な逃げ道。それすらも奪われては、私にはもう為す術がない。私は勇気を振り絞って、声を上げた。
「ですが、その、家にヴィルゴ家の血判の誓約書があるように、あちらにも私の血判の誓約書があるはずです。背くようなことは…」
「背く?」
義父は私の言葉を取り、怒りで顔を歪めた。私は言葉を誤ったことを悟った。
「背くのではない!我が家の重大な理由を以てヴィルゴ家に相手変更のご理解をいただくに決まっているだろうが!血判も新たに取る!本当に愚かな娘だな、お前は」
きつく睨まれ、体に寒気が走る。幾度となく同じことを経験しようとも、慣れるどころか、私の心身の反応は過敏になってゆくばかりだった。
「大体、教養もダンスも身についていないあなたが、ヴィルゴ家に行けるわけないでしょう?リリアはまだ十ですけれど、どうでしょうこの大人びた容姿は。この歳で教典が空で言え、優雅なステップが踏めるのよ?どう見てもリリアが適任だわ」
私は義母のその言葉に目の前が真っ暗になった。カタカタと震える手で食器を落とさないように抱え、悪魔のような彼らに一礼すると、覚束ない足取りでキッチンへ向かった。
「ベガ様!」
私の後を直ぐにメイドが追って来る。
「ベガ様、この家はもう駄目です。私たちも、逃げましょう」
彼女が言うように、我が家から大勢の人間が逃げて行った。幼い頃はあんなにたくさんいた使用人は今やひと役に一人。彼らも、最後のひとりになってしまったがために良心をすり減らしてここに残ってくれているが、正直いつまでいてくれるかも分からない。
(でも、こんなところ…居たくないわよね…分かるわ)
「貴女は、逃げてもいいわよ…」
「ベガ様!」
メイドが苛立たしく私を呼ぶ声から逃げるように、キッチンに食器を置くと足早に勝手場から出た。裏に広がるのは我がライラの領土。のどかな自然の広がる穏やかな地。
(どんな形であれ、私がここからいなくなっては…ここはどうなってしまうのだろう)
私は風に吹かれながら波打つ麦の穂を眺めた。
アストラ家を王家と崇めるこの国には八十八の家が貴族として認められている。私の生家、ライラ家もそのうちのひとつである。そして、国の政治の中枢を占めるのが十二星家と呼ばれる十二の大きな家だ。十二星家は古くから王家を支え、与えられた役割を果たしている立派な人々で、今日まで国民の憧れや尊敬の的であり続けている。と聞いている。
畏れ多くも契約上私が嫁ぐことになっているヴィルゴ家は、その十二星家のひとつだ。私が三つのとき、まだ存命だった父が婚約を取り付けた。言ってしまえば政略結婚。顔も知らない私の婚約者とは歳が十も離れていると聞いている。
幼い頃は不安でしかなかったこの婚約が、今や私の頼みの綱となっているとは、血判のために指の先を切られて泣いた当時の私がどうして予想できただろう。
あの頃は、実の両親も健在で、家にはたくさんの人がいて。叱られながら、褒められながら、当たり前に幸せに暮らしていたのだから。
生活が一変したのは、父が他界してから。私がまだ五つのときである。甘えただった私は、父親の居ない心細さを母に押し付けた。母は優しい人だった。今思えば自身も不安だったはずなのに、私によく構ってくれた。
やがて母は再婚した。それが今の私の「父親」であるが、私は困惑した。父とは全く異なる人物だったからである。穏やかな父とは反対に、新しい義父は気性の激しい人だった。裕福ではあるらしく、身なりは父親よりも立派だったが、私はこの人物のことを尊敬できなかった。
そんな私の胸中を知ってか、母は厳しい顔で「お父様」を敬いなさいと諭した。私がその意味を知るのは、彼に些細な口ごたえをして頬を腫らした時だった。人に打たれたことの無かった私の心には、その痛みが深く残った。
どうしてこんな人と結婚なんかしたのか。その理由を母の口から聞く前に、心身を煩った母は病の床に伏し、そのまま帰らぬ人となってしまった。私は後悔した。母に支えてもらうのではなく、私が母を支えなくてはならなかったのだ、と。この時、私は七つになったばかりだった。
本当の地獄が始まったのは、それから。義父はすぐに新しい妻を迎えた。私にとってはどちらも血の繋がりの無い人。どうして私はこの人たちと暮らさなくてはならないのだろう。幼い私は純粋にそう思った。
「あの子は私の子だ!誰にも渡さん!」
一度、義父が大声で誰かと話しているのが聞こえた。私は義父が誰かから私を守ってくれたのだと思った。少しだけ、ほんの少しだけでも私のことを大事に思ってくれるのならば、私も「父」と思わなくては。いずれにせよ、一人では生きていけない。
私は気が付けば、「両親」の言うことを聞くいい子になっていた。そうすれば、頬を腫らすことも無く、とりあえずは無事に暮らしていけたからだ。
「掃除をしなさい」
「食事の準備をしなさい」
義母の言いつけは日に日に増えた。いつの間にか、前までたくさんいた使用人が減っていた。新たに人が来る様子もなく、私は仕事量に対して減った人間の埋め合わせのために働いた。「ハイ」以外の返事をすれば怒られたし、逃げればどうなるか分からないという恐怖で従うしかなかった。
そうしているうちに、私に妹が生まれた。勿論血の繋がりは無い。しかし「姉なのだから面倒をみるように」と言いつけられ、私は義妹の世話をした。実際のところ、辛い暮らしの中で彼女は私の唯一の癒しであり、無垢に笑う姿は可愛らしかった。
義父と義母は実の子を可愛がった。私への興味は反比例するように薄くなり、彼らの八つ当たりの的になることが減った。私はそれだけでも生まれてきてくれた彼女に感謝したものだった。
少々歪んだ形ではあったものの、大事に可愛がってきた義妹から突き放されたのは、彼女が四つの時。
「わたしにおねえさまがいるの?」
彼女は初めて聞いた顔で、驚きの声を上げた。そして、メイドにそれが私であると聞いた彼女は、屈辱で顔を歪めた。子供であるが故の純粋な反応は、私を傷つけるには十分過ぎた。彼女は私のことを「自分の世話をする人」としか思っていなかったのである。それだけでも私はびっくりしたし、ショックを受けた。
義妹リリアは義父や義母と同じように私を扱った。私が家のことを使用人と共にやるのが当たり前だと思っているようだった。甘えた声で「あれやって」「これやって」とお願いにみせかけた命令をしてくる。背けば私が叱責されることを分かっているのだ。
日々を無事に過ごすことに必死になっている内に、私はすっかり彼らに支配されており、この支配から逃れる術が分からなくなっていた。
「もはや血の繋がりのない貴様らに、ベガを任せておくことはできん!返せ!そして出て行け!ライラの領地から!」
十五の時。数度しか会わせてもらったことのない、実の父の弟にあたる叔父が怒鳴り込んできた。私はこの時には完全に人の怒鳴り声恐怖症になっており、よく知らない叔父のその声が怖かった。
激昂している叔父に対して、義父はいつになく穏やかに言った。
「この子を育てたのは誰だと思っている。なあ、ベガ。酷い人たちだ。お前から家族を奪い取り、追放しようと言うのだぞ。そんなこと、お前は望むか?」
私は冷たい唇を引き締め、ゆるりと首を振った。背中に添えられた義父の温かい手が、私の背筋を凍らせていた。叔父は私を見て、酷く悲しそうに顔を歪めた。義父は私の答えに満足し、叔父を追い返した。
(あの時、叔父さんの手を取っていれば…)
私はあの時よりも一回り大きくなり、荒れてカサカサになった手をにぎにぎと動かした。
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