雨上がりの出来事
突然、壁ドンされて顎クイされた。
「……目を閉じるとか、顔を赤らめるとか、何かリアクションは無いのか?」
いきなりこんなことをしておいて、身勝手な言い草だ。ご希望のリアクションはされた側がした相手に、好意を持っている場合だろう。
それにこういうときはどんな態度を取ったところで相手を喜ばせるだけだと、小説やらブログやら、漫画にだって書いてある。
ってか、これは立派なセクハラでパワハラでしょ?
「帰ります」
きっぱりと目を見て言った。壁ドン相手の上司の北原は、ふうっと音を立ててため息をついた。
「送るよ、もう遅い時間だ」
「お断りします」
「駄目だ!」
今度はこちらがため息をつく番。ほっといてくれればいいのに。
「その、……突然キスをしようとしたことは謝る。だが遅くまで残業をさせてしまったし、雨も降ってるし、バスも少ない時間だ。送らせてくれ」
「ご心配には及びません。妹に迎えに来て貰いますから」
こんな気まずいまま同じ車輌になど乗れる訳がない。それに、きっと何か弁明をしてくる気なのだろう。それを聞きたくない。
私は振り払うような態度で背中を向け、妹に電話をかけた。
「では、帰ります」
「そうか……」
尚も何か言いたげな北原に告げ、鞄を持ち背中を向ける。事務所を出ようとしてドアのガラス面に、彼がこちらを見ている姿が映っていることに気づいた。その表情ははっきりとは見えないが、悲し気に見えた。私は自分の考えを押しのけドアノブを掴むと、勢いよくドアを開けた。
とたんに体内に流れ込む、冷たい雨の匂いとアスファルトを叩く水の音。今の私の気分に似合っていた。
「お姉ちゃん、何かあった?」
忙しなく動くワイパーの向こうを見たまま、妹の沙耶が言う。
「あ〰️〰️っ! もうっ!!」
私は頭を掻きむしり、ダッシュボードを勢いよく叩いた。
「ちょっ、お姉ちゃん! そんなん隣でされたら事故るし!!」
「ごめん」
パジャマに1枚上掛けを引っかけた姿で迎えに来たのに、車を壊されたら、妹もふんだりけったりだろう。落ち着こう。
「……キスされそうになった」
「うぇええっ!! マジでっ!!!! ……お姉ちゃん初キス、……だよね?」
「悪かったなっ!」
「あ、ごめん。悪くない、悪くない! ……おめでとう」
「めでたくなんか、なーーーーいっ!!」
ほんと、めでたくなんかない。バックミラーに吊るされた、コケティッシュな蜂の人形がみょんみょん揺れてるのも腹が立つ。
「いや、でも、良かったじゃん。40歳で初キスなら」
「誕生日までまだ1ヶ月あるし。ってか、姉の誕生日を忘れたの!?」
「しょうがないじゃん、うちの一族、誕生日が似てるんだから。なんだかごっちゃになっちゃうのよ」
確かにうちの親類は、沙耶の子供たちといい、いとこたちといい、似たり寄ったりの誕生日が多い。
「そんなことより、どういうこと? 相手、誰? 前にかっこいいって言ってた北原さん? ……な訳ないかぁ。ライバル多そうだもんねぇ。それにお姉ちゃん、コミュ障だもんね」
「おうよ、筋金入りのコミュ障よ。悪い?」
「ごめんごめん、悪くない悪くない」
何度目かの角を曲がり、家に着き、沙耶は慎重に車庫入れする。ちゃんと今ここにはない、私のスクーターを停めるスペースを開けて。妹のこういうところは好きだ。
「お帰り、亜沙美」
「おねえさん、お帰りなさい。沙耶、お帰り」
手洗いうがいを済ませ着替えて居間に行くと、母と妹の旦那の健二くんがいた。
「ごはんは?」
「お腹ペコペコ。あ、健二くん、沙耶を借りちゃってごめんね」
「構いませんよ。お仕事、遅くまで大変ですね」
「月末は仕方ないねー、毎月のことだから諦めてる。……母さんいいよ、自分でやるから」
母がご飯を用意しようとしたのを慌てて止める。……もうアラフォーなんだし、自分でやるよ、というのもあるが、この時間にがっつりしたものは困る。ちょっとリッチなお茶漬けくらいで充分だ。自分のではない、少し大きめの来客用の茶碗にご飯をよそい、お茶漬けの素をかけ、明太子と鮭フレークとワサビを少量ずつ乗せた。あとは常備してる漬物ぐらいでいい。
最近、夜遅く飲み食いすると顔が浮腫むようになってきた。そんなお年頃だ。って、このメニューじゃ塩分摂取しすぎか……?
「お姉ちゃん、ちょっと」
お風呂上がりに台所でミネラルウォーターを飲んでいると、隣の居間にいた沙耶に呼び止められる。
「お姉ちゃん、前に足の踵がガサガサになってきたって言ってたじゃない?」
「うん」
「それ、水虫だよ」
「うぇっ! マジ!?」
「マジ、マジ」
ずいっ、と目の前に薬を突き出される。パッケージに踵のイラスト。その、ひび割れ具合が私の足にそっくりだ。
「……ほんとだ。ただの加齢に依るものだと思ってた」
「たまたまドラッグストアで見つけたから買っといた」
ありがたく使わせて頂こう。使い捨てのビニール手袋を装着し塗り塗りする。薬は嫌な臭いじゃなくて、どこか懐かしい香りだった。
「ごめん、靴下取ってくれる?」
「毎日、お仕事お疲れ様です」
沙耶が恭しく両手で靴下を捧げ、頭を下げる。
「何よ、それ? マンガかドラマの真似?」
「本気で思ってるんだよ、感謝してる」
「ふうん? こっちだって、結婚して二人で住みたかっただろうに同居してくれて、家事もしてくれて助かってる。感謝してるわよ」
「そうじゃなくて。……お姉ちゃん、さっきのことだけど、お姉ちゃんだって幸せになる権利はあるんだからね」
5歳下の、朗らかな妹が真剣な顔をする。
「うちはそんなに裕福じゃなかったから、お姉ちゃんが高卒で就職が決まって、でも、その矢先にお祖母ちゃんが倒れちゃって。お姉ちゃん、お父さんとお母さんに頼まれて就職を辞退して、お祖母ちゃんの介護をしてたじゃない?」
「お父さんもお母さんも仕事があったからね、私が介護をするのが当然の成り行きだったもの。お祖母ちゃんは共働きの両親に代わって、私たちの面倒をずっとみててくれたんだし」
私の話に沙耶は深く頷いた。
「お祖母ちゃん、私たちのこと可愛がってくれたよね。学校で何かあると、いつもお祖母ちゃんが世話してくれた」
沙耶の言葉に思い起こされる。遠足や運動会の日は、朝早く祖母がお弁当をこしらえてくれた。夏休みなどの長い休みはお手伝いをしながら、祖母にいろんな家事を教えて貰ったっけ。
「……でもさ、お祖母ちゃんの介護が長かったじゃない? 何だかお姉ちゃんの人生が無くなっちゃったみたいで……」
祖母が病院へ入院出来たのは、倒れてから何年もたってからだった。その間私は就職もせず、ずっと家に籠りきりで、同年代の子達のようにおしゃれして出かけることもなく、勿論彼氏など作る余裕もなく。
それでも親の仕事が休みのときは友人と出かけたりしていたけど、彼女たちも忙しいようで、だんだん誘われることも無くなっていった。
「やあね、沙耶も手伝ってくれたじゃない」
「だけど私は、高校卒業してすぐに結婚しちゃったから」
沙耶は中学の頃から健二くんと付き合っていて、高校を卒業するとすぐに入籍したのだった。それは沙耶に新しい命が宿ったからだった。
「子供も産まれて、自分のことだけで精一杯だった。お祖母ちゃんが旅立って、やっとお姉ちゃんがゆっくり出来ると思ったら、今度は急にお父さんが亡くなってしまって……。お姉ちゃん、最初は『今更人の集まりの中に入っていくのが恐い』って言ってたのに、『家計の為に』って直ぐに仕事を見つけてきて」
父が亡くなったときは、大きな壁が降ってきたかのようだった。とりわけ母の落ち込みようが酷く、仕事を休みがちになったので、私は金銭面を安定させようと必死だった。まさか、年下の健二くん1人に、家族5人の生活を被せることは出来ない。
「介護の為とはいえ、流石に十年近く家にこもってたらね、人の輪の中に入って行くのは勇気がいったよ」
「私も子育ての為とはいえ、数年だけど集団から離れてたから、あのときのお姉ちゃんの気持ちは分かるつもり。だから、感謝してるし尊敬もしてる。……あのね、お姉ちゃんに幸せになって欲しいの」
沙耶の目が潤み、頬が上気している。妹のこんな顔を見るのは久しぶりだ。こんな、熱い想いがこもった顔を見るのは。
「幸せってさ、人によって様々だよね。私は別に幸せだよ? 可愛い甥っ子姪っ子もいるし。好きなもの買えてるし」
私は沙耶の気持ちがこそばゆくて、そう言ったが、それは本当の気持ちだった。
「幸せの形が人それぞれなのは分かってる。でも失った若い頃の、キラキラした時間を取り戻して欲しいの」
なるほど。なんか分かんないけど、何かが心にすとんと落ちてきた。けれど妹相手に素直に返事をするには、私はもう、お姉ちゃんとして生き過ぎてしまっていた。
「はいはい、考えときます。もう寝るわ。夜更かしはお肌の大敵だもんね。沙耶ももう寝たら?」
「あ、もう0時? ……お姉ちゃん、本当にちゃんと考えてよね? じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
自分の部屋へ行き電気をつけ、雨音がしなくなっていることに気づいた。雨の具合を確かめようと窓へ近づく。
私の部屋の窓は通りに面している。わりと近所にコンビニがあるので、寝るときは豆電球を消しても程よく明るい。
遮光カーテンとレースのカーテンを開け外に目をやると、先程の豪雨とは違い、ポツリポツリと、優しい雨が降っていた。
良かった。この分なら夜の間に止むだろう。明日、沙耶か健二くんに頼んで会社へ送ってもらい、スクーターを取って来なくちゃ。
「あれ?」
コンビニの駐車場のこちら寄りの端に、見覚えのあるセダンが停まっていた。もしかして、と思い、スマホを起動する。目当ての人物に電話をかける。
……出ない。
………………あーっ、もうっ!!
カーテンを勢いよく閉め、慌てて着替える。全く、こんな時間にお化粧をするなんて、どうかしてる! こんな気持ちにさせるなんて、どうしてくれるのよ!!!!
カギとスマホを掴み、出来るだけ急いで、けれど出来るだけ音を立てずに家を抜け出す。
走り出した気持ちと、冷静に自分を見つめる気持ちがある。だって、こんな家の抜け出し方をするなんて、まるで10代の子供みたいだ。そう思って笑ってしまう。けれど、顔が勝手に笑うのは、それだけの理由だろうか。
10代の恋愛を心配するのは、親にしてみれば理由があるからだろう。家族にとっては40代の恋愛だって、それはそれは心配なものだ。きっと、恋をしても、しなくても……。
いろんなことを考えすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。近いからって傘もささずに飛び出してきたから、せっかくお風呂に入ったのに髪も服も湿ってしまった。けれど、そんな自分が嫌じゃないと思った。
コンビニについて車を覗く。……いない。車は確かに彼のものだと思うんだけど。……お店の中?
そう思って店内に目を向けると、雑誌コーナーの向こう側で、こちらを見ている人物と目が合った。
!
どんな顔をしていいか分からない。ってか、逆に今の私の行動を、思いっきり見られてた!?
思わず帰ろうとして、ここで逃げ出すわけにはいかないと、踏みとどまった。とりあえずお店に私も入ろう。と思ったら、体中に力が入る。ロボットになったみたいに、ぎくしゃくとしてしまう。ああ、お店の入り口が遠く感じる……。
多分雨に濡れたのと、汗と、急な体温の上昇で慌てて付けたファンデーションが酷いことになっていそうだ。けど、装着することが癖になってるマスクのおかげで、分からない筈だと思っておこう。
入り口で除菌を済ませ、カゴを持つ。雑誌コーナーにはもう彼はいなかった。適当にぐるりと回りながら、コーヒーや紅茶のペットボトルとお菓子をカゴに入れ、レジ待ちの列へ並びに行くと、見覚えのある背中へ追いついた。
「あっ!」
しまった! 財布、置いてきた。エコバッグも忘れてる。スマホで決済が出来るからと、慌ててアプリを開く私に、手が差しのべられた。
?と思い顔を上げ、ぽかんとしている間に、当たり前のように私の手からカゴが抜き取られていく。
そしてそのまま、これまた当たり前のように、彼は自分の分と私の分の会計を済ませた。
「お手数ですが、こっちのカゴの分は別の袋に入れて下さい」
「かしこまりました」
びっくりしたままの私は促され、彼の車の助手席に乗った。
「北原さん、おいくらでした? ちゃんと払います!」
「あれくらい、構わない。それに財布、無いんだろう?」
バレてたか。いや。でも。
「来週、会社に持って行きます」
彼は私の膝に私の分の荷物を置くと、車を発進させた。静かなエンジン音を立てながら、滑るように車が動く。雨に洗われた見慣れた町を、ヘッドライトの光がきらめかせていく。
町から少し離れた小高い公園の駐車場で停車した。
「あの、質問いいですか?」
彼は頷き、缶コーヒーを開けた。車内にカフェインの香りが広がり、私は深呼吸をして気を落ち着かせる。
「どうしてあのコンビニにいたんですか」
「……べつに」
そうしてコーヒーを飲む。のど仏が動くさまを見ていた。
「どうして、キスをしようと思ったのですか」
「それは、したかったからです」
"です"!? 何故に丁寧語? 驚いて彼を見ると、彼の耳は真っ赤だった。ずるい。反則だ。こっちまで胸がドキドキする。
私は見なかった振りをして、紅茶のペットボトルを開けた。火照ったからだに冷たい紅茶が落ちていく。
「……どうして、したかったんですか」
彼はドリンクホルダーにコーヒーを置き、上半身をこちらに向けた。その表情は、さっきの沙耶の顔を思い出させる。本気の想いが、こもった目だ。
「君が入社したとき、僕は君に一目惚れしました。けれどそのとき僕は結婚していたし、きっと君にも彼氏くらいいるだろうと、僕は心に蓋をしました」
彼は、北原さんは5年前、奥さんの浮気により離婚している。
「えっと、私、年齢=彼氏いない歴なんですが」
「知ってます」
知ってるのかよ。
「以前、君と他の女性社員が話しているのが聞こえてしまったから。僕はそれを聞いて、嬉しかった」
"僕はそれを聞いて、嬉しかった"
昔、女はクリスマスケーキだと言われた。今はセクハラになるし、女性の社会進出もあって、そんなことを面と向かって言う人も減ったけど、親戚のおじさんには「まだ結婚しないのか」とか、「彼氏も作れないのか」等とお酒の席でからかわれた。(そのおじさんは母と妹に、「祖母の介護をこちらに任せきりだった癖に何を言う!」と締め上げられた)
「最初は仕事への不慣れさと、対人へのびびり具合から、こちらもぶっきらぼうな態度を取ってしまった。一度そんな風に接してしまうと、なかなかそれを崩せなくて、嫌な思いをさせたかもしれない。……君の生きてきた道程を知ったとき、家族想いの素晴らしい人だと思った。そんなこんなで、君の笑顔、しぐさに釘付けだった」
胸に温かさが広がる。何だか泣きたいような気持ちになる。
「家族を支えようと奮闘する君を、守りたいと思った」
ああ! 私は本当はずっと、こんな風に誰かに言われたかった、誰かに気づいて欲しかったのだと、今、自分の心を知った。
俯き、泣き出した私の手を、彼の手が包み込む。
「いきなりキスをしようとしたことは謝る。友達からと言うのなら、それでもいい。俺に君を、守らせてくれないか」
涙で声が出ない。私は手を包み込まれたまま、ただただ、首を何度も縦に振るのだった。
おしまい