7.Just an 芥
むかしむかし或るところに、それはそれは、とてもきれいなおひめさまがいました。
そのおひめさまはうつくしいけれど、とてもわがままな人でした。
わがままだったので、ともだちはひとりもいません。
そんなとき はじめて声をかけてくれたのがおうじさまでした。
となりの領域である ゆきの領域のおうじさまです。
おひめさまは、おうじさまのことがすきでした。
けっこんしたいと おもっていました。
けれどそれは、むりでした。
かのじょのかぞくが治める領域…ほのおの領域は、ゆきの領域と戦争をしていたからです。
わるいのは、ほのおの領域でした。力の弱いゆきの領域の人たちにうそをついては、自分たちの罪をきせていました。
ふたりはにげました。
とおくに とおくに にげました。
おうさまや、おうじょさまは、おひめさまやおうじさまがいなくなったことに、たいへんかなしみました。
そしてふたつの領域は、きょうりょくしてふたりをさがしました。
ふたつの領域はなかなおりして、ひとつの領域になりました。
おひめさまはおうじさまとけっこんし ふたりで領域を治めながら、しあわせにくらしましたとさ。
❅ ❆ ❅
宝石たちが犇めき合う箱の中、色とりどりに…まるで我こそがと主張するかのごとく、咲き誇った華のような布を纏った大人たちが、手を取り合い、蝶のように舞った。
そんな大人たちを鼻で笑うと、ペラペラの真っ赤な布を得意げに揺らす小さな私が、淡い藍色の髪をした女に手を引かれて、蝶たちの間を通り抜けていく。どうせ、この女だって大した身分ではないのだ。この白と黒以外に色のない、味気ない服だって、この場に不相応なのだから、そこらへんの辺鄙な布で見繕ったに違いない。
こんなやつと手を繋いでいるなんて。変な噂が立ったら、どうしてくれるの?
はぁ、と隠す気のない大きなため息をつくと、彼女はこちらを振り返ってニッコリと笑った。細められた目の隙間から、じっとりとした青が覗いている。その瞳には間違いなく、嘲笑が混じっていた。それに気づいたとき、全身の皮膚が粟立つのがわかった。時が止まったみたいだった。それまで流れていた気取った音楽が、聞こえなくなった。
「こっちだよ」
音楽は再び流れ出す。力の強い大人の手は、非力な子供には振りほどけず、足はその方向へと動いてしまう。私にしか聞こえていないであろう彼女の言葉は、今までに聞いたことのないものだった。
その表情、繋がれた手のひんやりとした感触を私は、忘れない。
────────────────────
「レオ! レオ、合格よ! 合格したの。あなたはおひめさまなの! あ〜! 築くわよ…カンペキなハッピーエンドのために!」
深紅の絹に金の装飾が散りばめられた、派手なドレスをなびかせながら、夜空に輝く月ですら息を呑むほどに美しい女性が部屋に飛び込んでくる。あまりの迫力に、レオと呼ばれた少女は、お城の屋根にしようとしていた三角のつみきを持つ手を止めた。白一色しかないこの家の中で、真っ赤な彼女は強く目立った。白以外の布を身に纏った彼女の姿を、少女は生まれてから一度も見たことがなかった。ただ、そんなことより、彼女の口から発せられた言葉に惹かれたのだ。
「ママ…レオ、おひめさまなの?」
「そう、そうなの〜! ママがいつもおはなししてた、『ほのおの領域』の…………。ねぇレオ、今何て? ママ? …ハァ……」
ほのおの領域? それってきっと、あのお話だ。
少女は気がつかなかった、母親の態度が変わったことに。まだ自分で文字の読めない少女は思い出していた。母の読み聞かせてくれた、遠い日の『おとぎ話』を。
むかしむかし或るところに、それはそれは、とてもきれいなおひめさまがいました……
…ぐィ。
「ぃ゙だいっ!」
「お、か、あ、さ、ま。…でしょ?」
彼女は少女の耳を引っ張ると、耳元で倡えた。バランスを崩した体がつみきのお城の上に倒れて、崩れていく音がする。
「そんな顔でおひめさまになれるなんて、滅多に無いことだよ? これを逃したら、貴方にはもう役なんて付かないかもしれないの、わかってるよね? ……ハァ。ねぇ聞いてるの? 返事は?」
「…ぅん」
少女は、自分の顔が人とは違うことを認識していた。正確には、認識せざるを得なかった。生まれて初めて母の顔を見たとき、生まれた子どもが世間に公表されたとき、友だちという存在を知ったとき。エメラルドに輝いた、この大きな瞳が…たった一つでなかったならば、どれほどに良かったのか。
「ハァ……ね、言ったよね。レオは『おひめさま』なんだってば。言ったそばから言葉遣いに気をつけないなんて、貴族として恥だよね? おひめさまなんだよ? しかも、私が子供の頃に落ちた役なんて……。貴方は将来、私みたいに綺麗な王女様になるの。ねぇ、成りたいって、レオずっと言ってたよね? 覚えてるよね? ねぇ、わかってるの?」
震えた指先をぼうっと見つめながら、言葉を続けるたびに大きくなっていく彼女の声は、先ほど引っ張られた耳の痛みが増していくのに似ていると、他人事のように感じた。
「…はい……おかあさま」
「そうそう、そうよ! じゃあ、未来の領域のためにも、私たちの住む『ほのおの領域』の歴史についてもおはなし、しなくちゃね!」
『おとぎ話』を本当にあったことのように話す御母様は酷く上機嫌で、少女は頭がクラクラと渦巻くのを無視して彼女の話を聞いた。右耳が熱を持っていることに気づいたとき、不意に部屋の扉が開いた。
「あら、おかえりなさい! あのね、レオは『おひめさま』になったの。貴方は『王様』、『ほのおの領域』を守るのよ! 私たち、立派な貴族なの!」
「…知ってる、ただいま」
白いスーツの男は二人を一瞥してから、一言も発さずに着ていたスーツをゴミ箱の中へと投げ捨てた。
「…おかえりなさい、おうさま……」
男は少女の言葉を聞かなかったことにした。これから始まる生活が、不幸せにならないために。
「おうさまじゃなくて、おとうさまでしょ? とが抜けてる。あなたって、ほんっとバカなんだから」
一所懸命に冗談めかしたように取り繕った母親の言葉を聞き流すには、少女はまだ幼すぎた。
そう言って、口の端を持ち上げただけのぎこちない笑みを作った、演技のヘタな王女様は、御父様にはどのように映っていただろうか。
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「おかあさま。ほのおの領域なのに、どうしてアタシは水の魔法が一番得意なの?」
赤一色しかないこの家の中、炎のように真っ赤なドレスをふわりと持ち上げてソファに座った姫の問いに、御母様は答えることもなくただにこりと微笑んだ。
空間に映し出されているスクリーンには、赤いスーツがよく似合ったトップ俳優とその家族が映し出されている。
[俳優一家、家族で堂々出演!? 誰もが知る名作オマージュ・実写映画化]
まだ半分の文字しか読めない少女は、文字に対しての関心が薄いのか、画面いっぱいに映し出された自分たちだけを認めていた。この領域の王なのだから当たり前だ、と少女は考える。
「今日は映画の打ち合わせはお家でするの。『おうじさま』が決まったのよ」
「決まった…って。生まれたってこと? アタシ、年下はイヤよ。そんなことより今日は外食にしない? 今夜はイタリアンの気分なの」
少女の問いを笑顔で了承するのは、『おひめさま』がわがままな人であったからだ。少女は正しく、わがままに育てられた。したいことは全部言いなさい。食べたいものは何でも言いなさい。──全部叶えてあげるから。でも魚はダメ。『おひめさま』は魚がキライだもの。あと、卵もダメ。アレルギーらしいの。外で遊ぶのもダメ。それから……。その趣味嗜好は、果たして少女のものだったのだろうか。幸い、『おうじさま』は年下ではない。レオにはともだちもいない。カンペキだ、今までずっと。
彼女にとって、家は舞台であり、少女にとって、家は世界であった。
次々と土足で家に上がっていく質素な身なりをした人たちを横目に、レオは机に広げられた参考書に取りかかった。この5冊が今日の課題なのだ。一冊たった三百ページ。一ページたった三十問。いずれこの領域の王女様になる私に必要なこと。このくらいの量、なんてことはない。見た目だけは高級そうなカップに注がれた、大層な名前の付けられた飲み物を口に運んだときだった。
「台本を変える?! なんでっ?! どうして!」
「おかあさま?」
見ると、太陽ですら慄くほどに美しい顔を歪ませて、息を荒げた王女様が質素な男のうちの一人に、今にも掴みかかるところのようだった。
「こんなの、こんなの全然ハッピーエンドじゃないッ!! どうしていきなり台本変えるとかゆうの!? なんにもわからないッ! メイワク! 今すぐ帰ってよ!」
「あの、ですから、台本は変わっていなくてですね…。 私たちは元より『おとぎ話』のオマージュ作品を……」
ダイホン? オマージュ? 何を揉めているのかわからないけれど、面倒くさい庶民を家に上がらせてしまったものだ。
少女は参考書をまとめると、場所を上の階に移すために立ち上がった。
「うわっ!?」
「…あっ」
立ち上がって振り向いた瞬間、そこには顔があったのだ。驚いた拍子に参考書が床に落ち、尻もちをついた。身長は同じくらいだろうか。阿呆面をした私を物珍しげに見つめてきたその子どもは、家に上げてしまった騒がしい庶民たちとは違って、身なりが整っていた。肩ほどまで伸びた黒髪は結われて、ローズを反射する。細やかな縦のラインが入っている七分丈のブラウスに、シルクのような生地のベスト…上等な服を着ているみたいだけれど、一体誰なのだ。このお子様は。
「きみ、レオ?」
「……は?」
呼び捨てにするなんて、なんと、無礼な。
肯定するのも気に食わない少女が反応を示さないでいると、その"お子様"は眉間にシワを寄せてみせた。どうやら少女のマネをしているらしい。それでも少女が黙ったままでいると、「おかしいな」と呟きながら自らのバッグを漁り、一冊の本を取り出した。
「やっぱ、レオじゃん」
「………あのねぇ、アタシは」
『ほのおの領域のおひめさまなのよ』。敬意を表しなさい。少女が言葉を言い終わるより先に、"お子様"は『おひめさま』の前に跪いて言った。
『お目にかかれて光栄です、姫。わたくしは、ゆきの領域の第1おうじ。ルィミと申します』
「ッえ…?」
"おうじ"……その言葉は、少女の心を強く打った。
この人が、アタシの結婚相手…?
赤い瞳にまっすぐ見据えられて、頬に熱が集まっていくのがわかる。白い肌に伏し目がちな目、一直線に通った鼻筋、小さく尖った鼻と、きゅっと結ばれた薄い唇……言われてみれば、おうじさまっぽい…かも? いや、でもちょっと待て。ほのおの領域とゆきの領域は戦争しているから、ゆきの領域のおうじが家にいるわけないだろう。それに…
「アナタ……女の子じゃないの?」
だって、華奢だし。
「は?」
「ゆきの領域の"おうじ"って言い張る割には、髪の毛は黒いし、目は赤いし」
まあ、肌は白いけれど。
「はァ!?」
「それに、まだお子さまじゃないの」
6歳くらいかしら?
「はぁァああ!?」
「うるっさいわね、さっきから大きな声を出して。おうじさまはもっと上品な方なのよ。アタシは忙しいの、子どもはおうちにお帰り」
少女が手をひらひらと振ってその場を後にしようとすると、顔を赤くした(自称)おうじは、逃がすものかと少女の前に立ちふさがった。
「ジャマよ。退いて」
「…て……」
「何? 聞こえない。さよなら」
「お、お前だって『ほのおの領域』のヒメっつーわりには、髪は黒だし、目は緑じゃねーかよッ! どこが炎だ、どこがあっ!? 緑は草の色なんだぜっ、『ほのおの領域』なんかにいたら、すぐに燃えちまうぞ!」
「だっ、誰が"お前"ですって!? アナタの服は黒いけど、アタシはこの真っ赤なドレスを着ているじゃない! ふざけないでよ、このチンチクリン!」
「誰がチンチクリンじゃアッ!!」
結局、この口論が終わったのも、庶民たちが帰ったのも、日はとっくに沈みきった頃だった。
「怒っていないの…?」
ソファに座った少女が、呆けたようにスクリーンを見つめる御母様に聞く。少女は参考書を終わらせられなかったことを気にしていた。今までに終わらせられなかった日は片手で数えられるほどであったが、そんな日には暗い部屋で何時間も同じことを繰り返して怒鳴られ、丸一日閉じ込められるので憂鬱なのだ。
「ん〜? だって、プライベートでレオに『はじめて声をかけてくれたのがおうじさま』だったわけでしょ? なぁんにも心配いらないからね。御母様がハッピーエンドにするからね」
「え゙っ」
やっぱり、アレがおうじさまなの? あんな野蛮な人が…私の結婚相手?
思い出して、ぷるぷると身震いをした。そんなはず無い! 御母様が言っていたおうじさまは、もっと品が良いはずで…。
ふと、視界に映った彼女の手元…目に留まったソレを、少女はつい見つめてしまっていた。
「ん? どうしたの、レオ?」
「…それは何?」
彼女の手元には、薄い赤と白のなんだかおめでたい表紙の本。ソレはおうじが持っていたものと同じものだったので、好奇心が湧いたのだ。
「レオには関係ないものよ。ほら、もう寝なさい」
半ば強引に寝室へ移動させると、不服そうな少女に布団をかぶせる。歩いている間も姫はしつこく聞き続けたが、彼女が答えようとしないので、仕方なく諦めることにした。
その日、彼女がパタンと表紙を閉じたっきり、二度とその本が少女の前に現れることはなかった。
────────────────────
そう。それから、私たちはたくさん映画の練習をした。撮影する日まで、何度も繰り返した。
だけど当日、今までに聞いたことのなかった、あの言葉を聞いた。
私に台本が渡されなかったのは、私が御母様の言う「カンペキ」だったから。子役のレオとしてじゃなく、ほのおの領域の わがままでひとりぼっちなおひめさまとして、育てられたから。
だから、私が舞台から消えたあの日。いや、もっと前、おひめさま役に決まったあの日から、私は。人生が敷かれたレールを走るだけではないと知ったとき、この撮影が終わってしまったとき、アタシは。
ゆきの領域のおうじさまは、本当はおうじさまじゃない。御母様も御父様も、本当は王女様でも王様でもない。みんな、ただの俳優、ただの女優、ただの子役。そして、私も……
「アタシは、このあと………」
「気分はどうですか? 先生」
背後から声がして、振り返る。真っ黒な空間にたった一人、蝋燭のように浮かび上がってきたのは、予想通りの人物だった。
「ファイア・ウエストロ…」
「……」
両手で丁寧にフードを脱ぐと、エメラルドをしたその瞳が静かに揺れているのがわかった。温かく照らされたその表情に、胸が締め付けられる。赤く染まっている黒髪は、あと半分も無い。
「その、アタシ……」
「そんなことより、今は続きですよ。ちゃんと話し合ってきてください…時間も無いですし」
隣にゆっくりと腰をかけると、私の瞼をそっと閉ざした。
────────────────────
このあとは、私とおうじさまが舞踏会を抜け出すはずなのに。二人きりで遠くに逃げて、みんなが私たちを探して、世界に平和が訪れるって決まっているのに。
淡い藍色の髪をした女に手を引かれて、蝶たちの間を通り抜けていく。この場に不相応な服を着た彼女は、こちらを振り返ってニッコリと笑った。細められた目の隙間から、じっとりとした青が覗く。嘲笑が混じっていた。そう気づいたとき、全身の皮膚が粟立っていくのがわかった。時が止まったみたいだった。それまで流れていた気取った音楽が、聞こえなくなった。
「こっちだよ」
誰? 誰なの? 「こっちだよ」って何? だって今までそんなこと言わなかったじゃない。おかしい、ちがう。私はこんな言動を知らない。私はおうじさまのいる場所に向かわなきゃいけないのに、この女は私を逆の方向へ連れて行く。私は今、何をしているの? 言わなきゃ。離してって。
「っ、……っ!」
…でも、本当に言って良いの?
だって、そんな言葉、言ったことないよ?
嫌な汗が輪郭をなぞる。意思とは反してカタカタと動く顎、彼女の体温が伝わって冷たくなった指先、熱くなってしまった頭。自分の体の何もかもが言うことを聞かない。小さく開いた唇の隙間から、僅かに息が漏れていくだけ。
イヤだ、どうして。おうじさまは、どこに行ったの? 私のところに来てくれるんじゃ、なかったの? なんでいないの、おうじさま、おうじさま、ルィミ………リベラ。
ガチャ、と扉を開ける音がして、繋いでいた手を離された。部屋の空気が異様なほど冷たいけど、私の右手のほうがずっと冷たいみたいだった。否応なしに頭が冷やされていく。今のうちに…逃げないと。
「おつかれ………って、は!? お前、何泣いて…!」
「……ぇ…?」
誰よりも望んだ声がした。机とソファ、観葉植物しかない殺風景な部屋には、あの日におかあさまを怒らせた庶民たち数人が談笑している。それから、おうじさま…いや、リベラがこちらに駆け寄っているところで。
彼の冷たい指先がまだ熱を持っているおでこに触れると、冷静さが取り戻されていく気がした。
「リベラ……どうして、こんなところに!? 私、ずっと待ってたのに!」
震えた声すらも気にせずにまくし立てると、リベラは怪訝な顔をした。
「…は? なんでオレを待ってんだよ。台本にはそんなこと書いてなかっただろ?」
「だい、ほん………?」
「お前、疲れてんだよ。最近ずっと練習してたみてーだし。…お、見ろよ。ちょうどお前の父さんと母さんの場面だ」
そう言ってリベラは、いつの間にか映し出されていたスクリーンを指差す。
私は、その状況を飲み込めないでいた。
あり得ない、信じられない。だって、あまりにも非現実的。
『…よって、私たちは、降伏を宣言致します。ゆきの領域の皆様、そして、ほのおの領域の皆様に、多大なるご迷惑を……』
…どうしておとうさまと庶民が、同じ場所に立っているの?
下を向いたまま顔を上げない母、我先にと群がる庶民たち…その表情は怒りを孕んでいるようにも見えた。
あとに続く長い長い釈明と庶民に対して向けられた謝罪を、少女は聞こうとしなかった。鼓膜が膨張していく感覚に苛まれる中、少女は二人が…誰よりも高貴で崇高で、誰からも愛されるべき二人が───深々と、頭を下げる光景を見た。
鈍器で頭を殴られたようだった。胃がふつふつと煮えくり返ってしまって、そのまま熱を吐き出してしまいそうだった。荒くなっていく呼吸音だけを聞きながら、汗の滲んだ手を握りしめて、下を向いて、長い長い時が過ぎるのを待った。
少女は、恥ずかしかった。
「ごめんね」と泣きわめく母親の声も無視をした。
白一色に変わった家の中、深紅のドレスを身に纏ったレオは膝の上で拳を握りしめる。白一色しかないこの家の中で、真っ赤な少女は強く目立った。
私の…アタシの『ハッピーエンド』は? 立派な王女様になるための、勉強は? どうしてそんな表情で私を見るの。『おとぎ話』じゃない、アタシの『人生』よ! ……そう。全部あの女がめちゃくちゃにしたの。あの女さえ、出てこなければ! 思い出すだけでゾッとする、アタシを嘲るあの瞳、冷え切った手から伝わる悪意。
「…そうだ」
ハッとして、ソファから飛び降りる。
決めた……アタシがほのおの領域を復活させる。これはきっと、立派な王女様になるための試練なんだ。やらなきゃ、アタシが。この領域のために!
これからの未来を想像して、幼い姫の表情は嬉しそうに歪んでいた。
────────────────────
「レオ! 冷静になれ。自分が何をしているのか、本当に理解っているのか?!」
炎に照らされた白いスーツが、ゆらゆらと赤く染まっている。ゆきの領域に降伏する前に着ていた服みたいで、少女は心底嬉しそうに笑った。自分の行動で世界はきっと変わってくれると思うと、頬が紅潮し、鼓動が高鳴る。
「おとうさま、アタシ頑張ったの! 今から領域のために、わるものをやっつけるのよ。アタシの魔法で! 見てて、アタシ、変えるから。前みたいに、幸せに成るのよ!」
手に浮かべられた炎は、少女の顔ほどの大きさであった。エメラルドの瞳は炎を反射して、より一層爛々と輝いた。
「やめろ、レオ!!」
興奮からか、別の何かからなのか。少女の指先は、震えながら空を切った。
男は既のところで少女の手を掴んだ──と、思われた。
彼は止められなかった。こんなにも思い詰めていたことに、気づくことができなかった。不幸せを回避するためだと言い聞かせて、責任から逃れていた。自分の娘と向き合うことが、できなかった。
頭の悪い母親に、育児を押しつけたのは間違いだった。彼女は人との接し方を知らなかったのに。いや、そもそも自分の仕事が忙しくなければ、彼女に負担をかけることもなかった。そもそもレオに仕事を与えなければよかった。世間に公表しなければよかった。そもそも、自分が俳優にならなければ………我が子は、人殺しなど、しなかっただろうに。
化学物質の少し腐った臭いが、あたりに充満する。傾いていく視界は燃え広がった美しい赤をとらえている。一軒の小さな家であったもの。金色の一等星がてっぺんに輝くさまは、まるで黄金のクリスマスツリーだった。
ほのおの領域の復活を祝すように、妖精たちの高く綺麗な歌声が聞こえる。
パチパチボウボウ。めらめらぼうぼう。
自然の楽器は鳴り止まない。
少女は、真っ赤なドレスが黒く汚れるのも気にせずに、その光景に魅入った。すべてが少女を祝福していた。
「おとうさま! アタシ、やったのよ! これで、ハッピーエンドができるわね!」
声を震わせて、叫びだす。
「綺麗ね、御父様!」
祝福は繰り返され、止まることを知らない。
男は泣いていた。何も言わずにただ、少女を抱きしめて。永遠にも思われるこの時間で、父親越しに見たソレは、頭上に輝く王冠のようだと姫は思った。誰よりも王に相応しい男のために、自分は正しいことをしたのだと思えた。
ある冬の夜のこと。ハッピーエンドのためのその瞬間を、少女は一生忘れることはない。
────────────────────
照らし出された映像が煙とともに消え、辺りは再び暗闇に包まれた。
御父様がいなくなったのは、ゆきの領域が…あの家の生き残りが、復讐をしてきたからじゃなかった。
御父様は、私の代わりに罪を被った。いつも御父様がいた暗い場所は、刑務所以外の何物でもなかったのだ。
ほのおの領域なんて、本当は無かった。ゆきの領域なんて、無かった。戦争も、結婚も、お城も、全部ニセモノの『おとぎ話』。でも、私には…この世界の中で、私だけにはその世界がすべてで、ホンモノだった。パパは王様で、ママは王女様。私はおひめさまで、おうじさまがすきで、ふたりはけっこんする。そんな安っぽいフィクションが私たちなのだと、信じて疑わなかった。
こんな過去が世間に広まったら、私はなんと言われるのだろうか。そんなもののためにと、嘲笑われるだろうか。非難されるだろうか。実際私は、そんなもののために人を殺したのだ。ただの『おとぎ話』を真実と思い込み、恨み、家に火を放って、関係ないの子どもまで。許されるはずが無い。許されようとも思わない。ただ小さな私にとって、それは正しい行いだったのだ。
父が捕まったあと、当然私たちが表世界に出ることは無かった。母は憔悴しきって、何をするにも手伝いが必要になった。お金も底をつきそうだったので、家を売って、古くて安いアパートに引っ越しもした。
有名な俳優の娘だから、お金を持っていたから、これまでハッキリ言われてこなかったのだろう。ネットでも学校でも、私についてかたる人は見た目への批判で溢れかえった。
『そぉゆうのはレオがやったに決まってんだよ〜っ!』
当時、私が通う学校にはいじめがあった。対象は私ではなかった。
『ほら〜ぁ、持ってるんだろ? ■■■の財布〜!』
お金を持っていない生徒に対して、物を捨てたり、壊したり、気づかれないよう髪を切ったり…そういう陰湿ないじめ。
『おい、聞いてんの? やっぱ目しか付いてないから聞こえないのかな〜ぁ。ギャハハハッ!』
そしてその加害者は、アタシ。そういう悪質ないじめ。
不意に耳を引っ張られる。神経がちぎれるような鋭い痛みに、思わず声を上げた。
「ぃ゙だいっ!!」
『えっ。ヤッバ! 聞いた? 今の! 必死すぎてウケるんだけど』
「……っ、は…?」
私しか存在しないはずの暗闇に、蝋燭のように浮かび上がったのは、かつての加害者たちだった。
『早く認めろよ〜、は〜やぁく〜う!』
『ちょっと待ってっ!? みんな〜ぁ! 見てよこれえ、重要な証拠品じゃないですか〜っ?』
そのうちの一人は、私の持っていたものを奪い取ると、汚いものを触るようにつまみ上げた。
赤い布に縫われたヘタクソな文字、あの夜を彷彿とさせる金色の装飾……それは、父が私に残したお守りだった。思えば、あれが最期だったのかもしれない。
『やめて! 返してよ!!』
『うわっ。こっち来るなよ、気持ち悪いなあっ!』
焦って近づいていく私を、他の子どもが蹴飛ばしていく。それでも私は、そのお守りを取り返そうと必死に手を伸ばし続けた。
ギチッ……ビリ、ビリ、ブチッ…。思考が停止する。だって、目の前で引き裂かれていくソレは。
『きったないから、ゴミ箱に捨ててあげなくちゃね〜!!』
『…ぁ………あ、あぁあッ…!!』
半狂乱になりながら、無我夢中でゴミ箱を漁る私には、周りの目なんか見えていなかった。
切れ端をすべて見つけないと、元通りにできない。なのに、どうしても最後の一つ、てっぺんの星だけが見つからない。
『…ない……ないよ……どこ…なの?』
そのとき、教室の扉が開いた。
『おいお前ら座れ〜…って、お前またゴミ箱に顔突っ込んでるのか? どれだけソコが好きなんだよ……バカの娘はやっぱりバカなんだなぁ』
ドッと笑いが沸き起こる。腑抜けた声にフケだらけの髪、濡れた手をズボンで拭きながら人を馬鹿にするその神経に、恥ずかしさと怒りが込み上げる。こんな低俗なやつら、ほのおの領域が復活したらすぐに……
「先生」
目の前の光景が、ジュっと音を立てて消えていった。辺りは煙が立ちこめたように白く靄がかかっている。
「今はその場面、必要ないです。ちゃんと話すべき過去は、ヤツらじゃない」
「話すべき……過去…」
乱れていた呼吸はいつの間にか落ち着いていた。少しずつ息を吸って、吐く。もう二度と、話すことのできない人。アタシがちゃんと、向き合わないといけない人。
目を閉じて、思い浮かぶのはいつもあの景色。脳裏に焼きついたあの光景が消えることは無くて、膿んで腐って放置されたまま、アタシの感覚を蝕んでいる。私の体はずっとあの夜にあって、ごちゃ混ぜになった化学物質の、少し腐った空気が今も変わらず肺を満たしている。祝福の歌声が鼓膜を震わせ続ける。映る世界はいつも赤い。
もうアタシが『おひめさま』だった頃に戻ることはできない。仕組まれた台本なんてない。配役なんて決まっていない。馬鹿げたハッピーエンドに取り憑かれた憐れな母子は、貴方の目にはどう映っていましたか。
「御父様」
熱風が巻き起こって、現れた。
ワックスで固められた黒い髪、ぱっちりとした二重の焦げ茶の目はどこか淋しげで、彫りの深い顔立ちとは裏腹に、今にも崩れそうな力ない表情。炎に照らされた白のスーツは、酷く煤けている。男はあの頃と変わらない姿で、そこにあった。
少女は歩みを進めた。一歩、一歩と近づいていく。
「…ごめんなさい」
一定の距離になったとき、少女は頭を下げた。ほのおの領域の王が、庶民に対して下げたときと同じくらいに、深々と。
「アタシのせいで、…アタシの、代わりに……っ…人を、殺してしまって…っ、ごめんなさい、御父様ぁっ…!」
定まらない思考で精一杯に言葉を絞り出す。目頭から溢れた熱が、とめどなく頬を伝う。
「良い子でいられなくてごめんなさいっ、ホントウの、役なんて関係ない、その人自身を見ることができなくてごめんなさいっ…わがまま言ってごめんなさいっ、こんな、顔で…」
どういう気持ちだったろうか。生まれた子どもは批判されるような容姿で、自分の娘としてではなく、『ほのおの領域のおひめさま』として育てることになって、『おとぎ話』の通りにならなかったというくだらない理由で人を殺め、その場に居合わせてしまったために娘の罪を被って、世間から非難されながら、一生を終えて…どうしようもなく許されないことだろう。
この男が幻覚だろうが、自身の記憶だろうが、魔法によるものだろうが、少女はどうでもよかった。何だって良いから、父に謝りたかった。
「レオ」
八年ぶりに聞く、低いトーンの温かい声。降ってきたのは、予想していなかった言葉だった。
「ごめん」
「どうして……っ! 御父様が謝ることなんて一つも…」
「ない、と…思うのか。本当に」
悲しそうに笑いながら、少し浮かせた腕をぎこちなく下ろす。彼は変わらず、不器用な男だった。
少女は男の意図するところがわからなかった。だから小さく頷いた。男は先の少女のように、深々と頭を下げる。
「レオに、そんなことを言わせてしまった」
「御父様、アタシは…」
「周りの人間は、レオが役の通りに育てられてきたなんて思わない。あれは、洗脳と呼んでいいものだった。犯罪だ。止められるのは、俺しかいなかったのに……怖かったんだ。何もかも、壊してしまうような気がして。最初に罪を犯したのは、俺だ。誰に、どんなに責められても、言い返せない」
男はゆっくりと顔を上げて、重くなった空気を入れ換えるように、模範的な笑顔を作った。いつかの人気俳優の表情だった。
「レオは良い子だった。俺たちの言ったことを全部聞き入れて、全部乗り越えた。役をホントウのことだと思い込んだのも、俺たちのせい。無理やりわがまま言わせたのも、俺たち。その顔も、俺たちのせいだ。…レオが謝ることのほうが、一つもないだろ?」
「アタシ……この顔のせいで侮蔑されてきたの。醜くさの象徴。魔力異常にしては、奇形で不気味だって。でもアタシ、自分の顔は嫌いじゃない。嫌いなのは、人と違うだけで差別しようとする、周りのクズどもよ」
苛立たしげに腕を組んだ娘に、男は少し声を出して笑った。
「あのね、御父様。アタシこれから、どうしたら良いのかな。…裁判所に行って、罰を受ければ、あの家の生き残り…アタシが殺してしまった人たちの遺族は、しあわせになるのかな」
ぱちぱちと爆ぜる火の粉の音だけが二人を囲む。
「俺には、どうしてお前たちが『ハッピーエンド』に固執していたのか、わからない」
そう言って、過去に思いを馳せるように目を閉じる。長いまつげは震えていた。もし男が少女と同じく単眼だったならば、それはゆうに15センチメートルを超えていただろう。
どうして、ハッピーエンドにこだわっているのか? それはきっと、他の誰でもない自分が幸せに成りたいからだ。人生の最後を、『しあわせにくらしましたとさ。』で終わらせたいからだ。
「御父様は…幸せに成りたいと思わないの?」
その問いが意外だったのか、御父様は目を丸くしてこちらを見遣った。
「なりたいよ、誰だって…。でも、『ハッピーエンド』じゃない話はたくさんある。物語が『バッドエンド』を迎えたとしても、本人たちにとって、次のページが無いわけじゃない。別の物語が始まるかもしれない」
「『バッドエンド』の、続き…?」
彼は再び目を閉じた。少女がおひめさま役に決まったその日を、白いスーツをゴミ箱に投げ入れた日を…思い出していた。
「どこで物語を終わりにするのか、考えるのは俺たちじゃない。……今までのレオは、どこで区切られても『バッドエンド』だらけだったかもしれない。でも、それで終わりじゃない。レオは今生きているだろう? 決められるのを待つんじゃない。レオは、どうしたい?
自分勝手だけど、俺の人生は幸せだった。自分の人生なんだから、自分勝手で結構。自分勝手、最高!」
少女は勢いよく立ち上がる。そんなわけ無い、そう言いたいのに上手く声が出ない。男はわかっていると言わんばかりに続けた。
「俺たちのせいで奪ってしまった、レオが幸せになれる未来を、俺は守ることができた。俺にとって、王様よりよっぽど名誉あることだった。…それ以外に何もできなかったけど、こういう解釈もあるんだよ」
「…パパって、綺麗事ばっかりなんだね」
少女が口をとがらせて言うと、父は片方の口角を持ち上げる。
「ホンモノのお姫様になりたいなら、これからそうしたら良い。何が幸せなのかは、自分で決めるんだ。自分にしか決められない」
娘に対して満足そうに向けたその表情は、忘れかけていた父の笑顔だった。撮影のために彼女に付けられた白粉は、既に落とされていた。
「あの記憶をどうするのかは、レオが決めることだ」
「え…」
消えかかった父はぎこちなく娘を抱きしめたあと、彼女の後ろを指差した。ちゃんと、温かかった。
「大丈夫、消えることはない」
化学物質の腐ったような臭いが強くなる。パチパチと音を奏でるクリスマスツリーは、変わらずソコに聳えていた。
その美しい景色は、レオの視覚を奪った。立ちこめる臭いが、レオの嗅覚を奪った。忘れられない祝福が、レオの聴覚を奪った。その景色に、クリスマスツリーに込められたような永遠の意味なんて無い。その臭いは、幸せに成るための喜ばしいものではない。その音楽は、妖精たちの歌声なんかではない。
ある冬の夜のこと。燃え盛る炎が罪のない命を奪い、むせ返るような燃料の臭いには、歪んだ思想が重く溶け込んでいる。ゴウゴウと激しい音に混じって、微かに聞こえた、甲高く、悲痛に助けを求める叫び声。永遠にも思える時が、終わろうとしている。
地面に転がったティアラを踏みつけて、額の上で両手をかざす。塗りたくられた白粉の落とされた彼女に、迷いなんて無かった。
目を閉じたって逃げられない。忘れられない夜のこと。それは、自分が選んだ紛れもない『バッドエンド』。この火が、罪が、叫び声が、一生消えることは無い。だからこれから私は。
「──水よ」
この火を終わらせるまでに、どれほどの時間がかかったか。炎が消えて骨組みだけになった小さな家は、芥となって少しずつ星になっていく。
逃げ場のない中、炎に囲まれて亡くなった人たち。大きな炭の塊となった家の前で泣きわめく子どもの人生は、変わるわけがない。
これから先の人生に、父の姿はない。私はただ、私の人生にけじめをつけただけにすぎなくて、生きている限り、いや、たとえ死んだとしても私は、繰り返しこの日を思い出す。
私は被害者だった。そしてそれ以上に、加害者だった。この煙が見えなくなったら、彼に会いに行くと決めている。どんな言葉をぶつけられても構わない。どれだけ殴られても構わない。ただの役者であった私はもう、ティアラをかぶっていないのだから。