3.ハブ バタフライ
怖かった。
ただ、死ぬのが怖かった。
サナギに閉じ籠もったまま身動きもできず、暗闇の中で、誰にも気づかれずに死ぬのが。
自分に気づいてほしい、最初はそれだけの願い。
空に輝いた星のように、縮こまった手をうんと伸ばそうとしたって動かなくって、届かなくって。いつも自分の中心で一番に、小さくたって一生懸命輝いていた一縷の望み。希望。
それは、叶ってしまって。
自分の中だけの小さな願いだったものが、ぶくぶくと醜く腫れ上がり、膨れ上がり、全身を支配していたのかもしれない。やっと、自分に気づいてくれた。じゃあ次は。
次? 次なんて、いらないのに。
きれいに輝いて見えていた星は、実はきれいなものなんかじゃ無くって。それは、手に取ってみるとドロドロで不細工な煩悩だった。
怖かったのは、死ぬことじゃない。だって最初から気づいてたんだ。
……ホントウは、助けてほしいだなんて、言っちゃいけなかったのに。
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時間が止められたら良いのに。そう思ったことはありませんか? 俺はあります。容姿端麗成績優秀、スポーツ万能の人気者…そんな俺の正体は、世界を救うヒーロー!─もちろん正体は隠している!─ピンチのときはカッコよく友だちを…救う……。普通に健全的な厨二病気味の俺にだって、妄想の中では友だちがいたっておかしく無いんだ…。でも、そんな妄想ももうできない。思い出してしまうのだ、アレを。第三者が意図せず時止めに巻き込まれてしまっては、非常に不可解であることを。…俺はただ、普通に妄想するだけで良かったのに。クスン。
どうしてこんなことに巻き込まれたのか、現在時刻は18時。いつになっても18時である。十二を指した秒針も、水平線に沈みゆく太陽も、1ミリだって動かない。ずっと朱いままの空に眠気さえ覚える。もしかして、時が止まっている─俺の妄想なのではないかと考えたが…
「ふゑ〜ぅあ」
奇っ怪なあくびをしているサンダーを見ると、一瞬にしてその考えは消え失せた。……これは果たして本当にあくびなのか? 未確認生物の鳴き声のようだ。
「おかしいな…船が動き出してから、少ししか経っていないはずなのに。どの方向に進んでも一向に景色が変わらないなんて………指令室でも現在位置、測定不可だなんて! あぁあ…! 父さん、オレはどうしたらッ!!」
サンダーの船酔いは、完全に船が動き出してから発症するらしく、それを参考にした場合の船の移動時間は5分ほど。仮に発症せずに動いていた場合、全員が乗船してから1時間と少しだろう。船の移動速度がめちゃくちゃに速かったとしても、動いた瞬間に口から漏れ出てしまうらしいのでそこまで離れてはいない…と思ったのだが。東西南北どの方向へ進んだところで全く景色が変わらない、その上現在位置を示す測位システムがぶっ壊れている。放心状態、完全に迷想中であったところ、サンダーの意識が再び戻ってきてしまった。吐く? 吐くのか?
「どうしたサンダー? いきなりデケー声出して。そんなに思い詰めてちゃあ、タノシク生きていけねーぜ!」
サンダーよりもデケー声を出しながら、びしょ、びしょと音を鳴らし、ゴーグルと浮き輪を身に着けたままのノワが階段を上ってきた。
「ノワ…お前は楽しそうでいいよな……あと拭いてくれ」
「オマエが枯れそうだから、持ってきてやったんだぜ、水! ほ〜らブラッドも!」
「うわッぶ、何すンだテメェ!! やめろ、オイ……ヤメロやッ!」
「コラァーーッ!!? ッぐ、ノォオワぁあ……」
ノワの手から巨大な水滴が弧を描くと、サンダーに当たって弾ける。あれもまたノワの発明道具なのか、別世界のチカラなのか…考える体力も無い。サンダーがノワの名前を呼びながら吐いているが…気にしている体力も無い。無念。
「なぁ〜にボーっとしてんだ〜? 自分が狙われないとでも…っ思ったか!」
「◎△$♪×¥●&%#?!」
何が起こったかわからなかった。顔の表面が包まれ、冷たくなった服が全身に張り付いた。勢いよく口に流れ込んだそれは、程よく冷たくて塩辛い。…水だ、海水だ。海水が服を通して肌を伝っていき、体温が下がっていくのを感じる。
「や…やったなあ?!」
よくも俺の『真面目』を…! ノワの手に乗っている巨大な海水の球を奪い取り、真面目に仕返しを……と、水滴に手が触れた瞬間、海水は思い切り弾けて俺とノワを包んだ。まさか自分まで巻き込まれるとは思わずその場に座り込むと、少しの沈黙のあと、ノワはけらけらと笑っている。寒くなったのか、サンダーとブラッドはタオルでぐるぐる巻きになって隅で震えていた。
「しっかし…変な海だよな〜。海面がプヨプヨしてて泳げないなんて。初めて見たぜ、こんな素材! いや〜、変な空間ってイーな! ちょっともらってくゼ」
「…………へ? プヨプヨ? 泳げ…ない? …く、詳しくッ! 詳しく聞かせてくれ、ノワ!」
ノワが2つの巨大水滴でお手玉をしながら言う。サンダーがブラッドの分のタオルまで引っ剥がして飛び起きたせいで、ブラッドの振動が強になった。
「詳しくも、何も。それ以上の情報は無いぜ? 自分で確かめてみたら良い。ま、プヨプヨのポヤポヤだから、船より酔っちまうかもな!」
「……行こうッ、ヒカリ!」
「えっ、あ、ああ…!」
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「ユ、揺れる………ッゔ……止まらない……! どどど、どうしようヒカリ、オレの重心がッ、定まらない……せいで…ッ!」
波の音とともに動く不安定な足場、まさしくプヨプヨのポヤポヤ…ゼリーの上に立っているようである。
「と、ととと、とりあえず、この海水を……うわぁッ…ふ、船に持って帰ってみたらどう……ッかなっ?!」
二人でバランスを保ってふらふらしているだけで思うように動けない。サンダーは海面に足を下ろしてからずっと、吐くか、吐かないかの狭間をさ迷っている。……ココで吐いてしまったら、やはり海面はソレを弾くのだろうか…混ざるのだろうか。
やっとの思いで足元の海水をもぎ取ると、這いつくばって階段にしがみつく……なんとも滑稽な絵面が誕生してしまった。
階段を上りきると、既に水着から服に着替えているノワと鉢合わせた。…寒かったのかな。俺は今、猛烈に寒い。海に行くだなんてもってのほか。着替えを持ってきているわけがないのだ、普通に風邪をひく一歩手前である。
「遅かったな! 今見に行こうとしてたトコだぜ」
えへん!と言わんばかりに腕を組むと、ノワは俺たちの手に乗った不格好な海水の塊に気づいて、みにょ、と口元を歪ませた。
「ふぷ、オマエら……取るのヘタクソだなぁ。作ったことないのか? ピカピカ泥団子を…。キレイなまるだっただろ? オイラの泥団子…否っ! ピカピカ海水団子は! 少しはオイラを見倣うんだな!」
「え? あの球体、この海水だったのか? じゃあなんで弾けて…」
パシャンッ
「…ぇ?」
手から水が伝う感覚。見ると俺たちがやっとの思いで取ってきた海水の塊が、弾けて液体になり、手からこぼれ落ちていた。
「ああっ…! オレたちの海水がっ…!」
「オイラが持って帰ろうとしたヤツも弾けちまったぜ。オイラーズ分析によると、この海水は別の物質に当たるか、元あった場所から離れて時間が経つと弾けちまうみたいだな! 魔領域の海へ戻るには、プヨ→ヨプ!じゃないとムリだぜ」
「ハ? 意味わかんねェ、つまりどういう意味だよ」
「つまり! プヨプヨがオ〜ィポユ、なんだぜ」
「アァ?! もっと意味わかんねェよ!」
ブラッドがノワの肩を掴んで揺さぶると、ノワはこんにゃくのように震えて抜け出した。ノワってやっぱり変なやつだ。……いや、みんな変なやつだけど。身体の構造から変だ、ヘンタイだ。
「プヨ……ヨプ……はッ! …わかったぞ! 逆さまにするんだな、海面を!」
サンダーがドヤ顔をしながら前のめりになって言う。…多分、多分だけど、ドヤ顔なのは無意識なんだろうな…。
「ウ〜ン、正解だがハズレだな。優しいオイラが答えを教えてしんぜよう、オイラは優しいからな!いいか?逆さまになるのは海面じゃない、オイラたちだゼ!」
「……は…? 何を言っているんだ、ノワ? 船を逆さまに…だ、なんて…無理に決まってるじゃないかッ!」
俺の肩に手を置き、サンダーが前に出ようとする。ピリッ、バチッ…と音がして隣を見ると、サンダーの蛍光色のような金髪がさらに光を放っていた。……ン? これって、マズイんじゃ。気づいたときには遅かった。
バチチチチチチッ!
「あどぅ゙ヮァババばべバばばババ」
「……あ、」
水─しかも海水─浸しの俺は瞬く間に感電。サンダーの手が置かれた肩は一段と熱く、ジリジリと焼かれているようだ。既に熱が生じて服に穴が空いてきた。マズイ…そろそろ発火するのでは? これでは変なやつらに囲まれて、黒こげになった状態で一生を終えてしまう…! 俺は普通に真面目に平穏を望む、ただの人間ですけど〜〜〜〜〜〜?!?!
「っご、ごめん! ヒカリ、わ、悪かった…! あぁあ……す、すまない……」
サンダーは数秒で我に返り手を退けてくれたのだが、俺の体からはプスプスと妙な擬音が鳴っている。おかげで服も乾いて寒くはなくなった。電気を受けたことはなかったので知らなかったが、俺は体力こそ無いくせに、電気耐性はあるらしい。知りたくなかった情報である。
「お〜! しぶとくて助かるゼ。髪が燃えないのが謎だが! ヒカリの服は耐熱性なのか、アンシンだな〜」
頭の後ろで腕を組み、爽やかな笑みでノワが言う。「アンシンだな〜」?! ハァ〜〜? 死ぬところだったんだぞ。服がアンシンでも俺がアンシンじゃない。人間の命を軽視している発明家、恐ろしい…。でも、もっと恐ろしいのは…
「さ、サンダー……今、何を……?」
涙目✕上目遣いで俺を見てくるいたいけなピュアボーイ、もといサンダー・ピュアボーイ・パーレン。コイツ、怒らせてはいけない…!
「す…すまない、ヒカリ……オレ、つい、放電を……怒ると、制御が難しい…というか、アツくなってしまって……。ヒカリを巻き込むつもりは無かったんだ、ホントウに!」
「いいい、イヤっ、大丈夫! むしろ服が乾いて暖かいって、言うか…?! 何とも無いよ!アハ、ギリ……」
ああ、やはり俺はこの男に弱い。くっそ、年上のくせに…! サンダーは俺の両手を握って食い気味に続ける。
「本当か!? 大丈夫なんだな?!」
「ぁ、ああ」
「何とも無いんだな?!」
「ああ…」
「オレのこと怖くないのか?!」
「ああ」
「依頼を受けてくれるか?!」
「ああ!」
「ありがとう!! 実はヒカリ宛の依頼が届いているんだ! 今度一緒に行こう!」
「…………………うん?」
アレ? 俺、勢いで何か重要なこと承諾しちゃいました?
「コイツ馬鹿かよ、サンダーの口車に乗せられやがった」
「クヒヒ、自分の発言には責任を持つんだな〜!」
子どものように無邪気な笑顔を浮かべて、一直線に伸びたアホ毛をどういう仕組みかクルクルと回しているサンダーと、視界の隅でコソコソとこちらを噂─完全に聞こえているが─しているブラッドとノワ。断りづらい、というかもう引き返せない。俺宛の依頼…? 契約してから数時間しか経っていないのに、もう"俺"宛? …普通に家庭教師とか! が、良いなあ……。
諦観している俺をよそに、「さっきの話だが…」とノワが話を戻していた。
「オマエは全方向に進んだと思うのか?」
「ああ、もちろんだ。方角の微調整もしたし、全方向進んだ!」
「いーや? まだ行っていない方向があるじゃないか!」
「…本気なのか?」
「本気なんて無いさ、いつだって本気じゃないね」
ぞくり…冷たい何かに背中をなぞられた気がした。く、と一つの笑い声。かかとで足元にある綺麗な木目をタップしながら、今度はノワがドヤ顔をする。
「上下左右……下、だよ。海の下さ!」
サンダーがキュッと口を結ぶ。木目を眺め、考え込んだサンダーと、確信しているような表情でサンダーをじっと見つめるノワ。どれだけノワが意見を出しても、選択するのはサンダーだ。船が動き出してからあれほど取り乱していたんだ、相当に大事な船なのだろう。下に行って沈みでもしたら……え? 下?
「さっすがノワ〜〜! その通り、下に行くべき!」
「ムーン…?」
今までどこにいたのか、やたらとテンションの高いムーンが船の柵の外側からひょこりと出てきた。
「おう、終わったか!」
「うん、やっぱりノワの言ってたことは正しい。海水、内側30センチのトコに、結界が張られていたから」
そう言ってアイスは、つまんでいた海水の塊を指で潰した。
「オイラの推測に、間違いは無かったようだな!」
「内側に、結界? …ど、ういう……ことだ…?」
じわり…その言葉を聞いて、乾いた額に汗が滲む。視界の隅でサンダーの汗が落ちたのが見えた、暑いから…だけではないだろう。空は変わらず、異様に朱い。最悪な正解が頭をよぎる。これって……そういうことだ。
「ファイアたちは意図的に、この空間に閉じ込められている…ということです」
静寂──。的中してほしくない想像が現実で言葉にされて、頭が真っ白になって……目眩がした。サンダーの呼吸音と、ぼんやりと遠のいていく波の音だけがやけに大きく聞こえる。熱中症? …ならば、この暑さはホンモノなのだろうか。
「は……。そ…んな。意図的だ、なんて……冗談だろ?」
足を引きずりながらサンダーがノワに近づく。思うように足が上がらないのか、今にも転んでしまいそうだ。
「どうでもいーだろ、ジョーダンかどうかなんて。問題なのは誰が…」
「下にッ!!」
サンダーが叫んだ。
「…下に行けば……良いんだろ…」
「………。ああ! イイ判断だ」
サンダーが嫌がっているのは、船が沈むことじゃなくて、むしろ……。
鼓膜がビリビリと震える。耳鳴りだろうか。上手く回らない頭は完全に麻痺しているらしく、瞳孔に入った光は入り乱れてノイズのように飛びまわる。暗闇…無音。五感をシャットダウンされたみたいで、変な気分だ。自分が立っているのかすらわからない。
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次に視界がひらけたのは、どこかの一室だろうか、簡素なベッドの上だった。ただ、簡素とは言っても目に付くものはどれも彩度の高い黄色。さっきは朱、次は黄色…目がおかしくなりそうだ。枕元に置かれたペットボトルに、ぷくぷくと浮かんでゆく泡の音…しっかり耳も機能している。……そうか、ここはパーレン号だ。
「夢じゃ……ないんだな…」
意味も無く手のひらを見つめては、拳を握ってみる。…大丈夫、ちゃんと現実だ。えぇっと…俺は十文寺ヒカリ! 三兎解のボス! 友だち100人! …記憶障害? ハハ、まさか。…馬鹿やってないで毛布を畳まないと、俺は真面目なので。
ベッドから降りて下を見ると、ボロボロだった服はいつの間にか元通り直っている。誰かが部屋まで運んで、服まで直してくれたのだ。毎度、ご迷惑を。
今は…何時だろうか。時間が変わらないことも忘れていつものクセで時計を見ると、短針は二を指していた。
「2時……14時?! 戻ってる!?」
ノワの言っていた通り、下に潜ったのだろうか。早くみんなのところに戻らないと。
机の上には、写真ボードいっぱいに貼り付けられたみんなの写真。どの写真にもサンダーが写っていることから、この部屋はサンダーのものだろう。
ふと、ポツンと置いてある本が気になって手に取る。小さめの本で、琥珀色の革のカバーが付いているのを、俺はつい開いてしまった。
はらり…。挟んであった紙の切れ端が床に落ちる。と同時に部屋の扉の開く音。
「あれ…ヒカリ、起きて……って、ッそ、それは…!!」
「ぁ…サンダー…。ごめん、勝手に……って、うわッ?!」
閃光。同時に、海へ続いていた扉を開けたときのような強風。反射的に目を瞑る。風に混じって鼻をかすめたのは……雨と自然のにおい?
──リン…チリン………チリーーーン………
この音……聞いたことがある。
風が止み、恐る恐る目を開くと…前後左右、すべて緑。海の青から朱、黄色、続いて緑……この色さえあれば何種類もの色が作れるな。
高く聳えた木々が空を覆い、木漏れ日がしっとり濡れた地面に反射している。地面に横たわる大木にはコケが生え、ふわ…と揺れては黄緑や黄色に光っていた。綺麗な樹海といったところだろうか、生き物の気配はまるでしない。壮麗で幻想的なその光景に、つい深呼吸をしてしまう。
「「すぅ〜………はぁ〜……」」
後ろで全く同じ深呼吸が聞こえた。
「さ、サンダー!」
「ヒカリ………はっ、ヒカリ! 今持ってた紙って、やっぱり依頼の…! じゃあココは魔領の……あぁあ…どうしよう、司令役がいない! 迷子か?! オレたち!」
数時間─どれほどの時間が経ったのかはわからないが─ぶりに見たサンダーの頬は赤く腫れていた。…叩かれたのだろうか。しかし…依頼? マレイ? シレイヤク? 何のことを言っているのか……え? 迷子? 迷子なのか?! 俺たち!?
「何のためのオデンさんだ! 全く、勝手に飛んだせいで全員に通知が来ちまったぜ」
「ノワ…! ああ…良かった、サツマーゲ! 依頼担当じゃなくても、お守り代わりに持ち歩いていて…!」
サンダーは、ビリビリに敗れたデニムズボンのポケットから、厚さのある花のような形─え? さつま揚げなの?─の小型の機械を取り出した。ノワの声はそこから聞こえる。
「聞こえる? 二人とも。はぁ…何やってんだか。こっちは一悶着あって大変だったっつーの。あとサンダー、ヒカリにも…おでん?渡しておいてね」
同じ小型機器からアイスの声がした。呆れられているようだ……当たり前だよな…昨日から失態しか犯していないのだ。
「違うぞアイス! 往古来今・迅速伝達三昧通信システム! 略して、オデンさんだぜ!」
「はぁ? コレそんな名前だったの…? …じゃあヒカリ、サンダー後でね」
オデンさんがプツッと鳴った。アイスとの通信が切れたみたいだ。
「ほら、ヒカリ。おでんのこんにゃくだ。今、手持ちがこれしか無くって…あとで好きなの選ばせてやるからな…ッ」
「あ、ああ…ありがとうサンダー…」
サンダーはもう片方のポケットから、二等辺三角形の小さなこんにゃくを取り出して渡してくれた。通信ができるなら何でも良い。だが強いて言うなら、俺はダイコンが好きだ。
「サンダーたちがいる場所はオデンさんで確認済みだ! 立ち入り禁止区域の森…また随分とヤな依頼だな。指示に従って歩けよ」
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母さん、俺は今、別世界の森を金髪の別世界人と歩いています。
「なあ…サンダー。俺たちは何をしたら良いんだ…? というか、どうやって元の場所に戻るんだ?」
木に巻き付いて垂れ下がっているツタを手で払いながら、足場の悪い道を進んでいく。
「依頼を達成したら、一定の時間のあと自動的に帰れることになっているんだ。依頼内容は……故骨の討伐」
「……ココツ?」
「住んでいる家が汚染されているらしい。早く討伐しないと、家ごと腐ってしまう」
「んなとこ早く引っ越しちまえば良いのにな〜。しっかし初依頼が枯骨討伐だなんて…あ、ソコ左だぜ」
虫とか、小動物の類だろうか。討伐…と聞いて、巨大なモンスターを想像してしまう。まぁ、俺宛…ってことは、何にしろ小さいんだろうケド。……小さくあってくれ、頼むから。
ノワの言う通り、南東の方向に進んで早5分。一軒の家が見えてくる。木製であろうその建物は、壁をツタが、地面をキノコが覆い隠し、歩く場所もなければ建物の全体がどんな形をしているのかもわからない。辺り一帯はジメッとして、地面はぬかるんでいる。草は生い茂り、荒れ果て、放置されて…まるで巨大な巣のようだ。晴れた空から太陽の光が届いているはずなのに、その建物の周りだけが暗く重く、沈んでいる。ココに人が住んでいるとは思いたくない…いや、思えない。
「なあ、サンダー………依頼された場所は、ココ…なのか?」
「あ、あぁ、間違いない。位置を見る限り…合っているハズだ」
二人で顔を合わせる。サンダーの眉間にシワが寄っていて、船の上ではないのに今にも吐きそうだ。俺もきっと同じ表情をしているだろう。
行こう、サンダーが小さく呟く。俺はできるだけキノコを避けて歩いた。
「す……すみませーん! 魔導館のヒカリです。…誰かいませんかー…?」
扉の前に立ってできる限り大きな声で呼びかけてみたが、返事はない。…「魔導館の」って、言っちゃった……いやまあ、もうそうなんだけどさ。
湿ってカビの生えたドアノブに手をかけると、不用心にも開いている。思い切って開けると、迎えるようにカビや埃のにおいが鼻に飛び込んで、むせ返ってしまった。
「さっ、サンダー…! ゲホッ…やっぱり、こんなんじゃ…人は住めない、よッ! ケホッ」
「ゴホッ…でも住んでないと、ココから依頼は来ないはずなんだ…コホッ、ノワ…ココで合ってる…んだよな?」
「もちろんだぜ。オデンさんによると、ソコで間違いない! 換気でもして待ったらどうだ?」
言われるまましぶしぶ家に入る。すると、今まさに開けて入ってきた薄く軽いはずの扉が、ズダンッと建物全体が揺れるほどの大きな音を立てて閉まった。
「さ、サンダーっ!!」
急いで開けようとするがびくともしない。再びカビや埃が舞う。
「だ、だ、大丈夫だッ声は聞こえる!! ほ、ほら、こんにゃクンを、あの、み、耳にあの、付けれるだろ?! そ……んなにびっくりすることじゃ、な……こ、ここ怖…怖い、怖いのかっ? ひ、ヒカル?!」
「………」
あからさまに怖がっているサンダーの声を聞いて恐怖心は完全に無くなった。おかしくて顔がニヤけてくる。サンダーは今どんな表情をしているのか、声だけしか聞こえないのを惜しく思う。苦手なホラーゲームもサンダーとならギャグ・コメディーだろう。あと俺はヒカリだ、サンダー。
「ううん…全く怖くないよ、サンダー…っ…」
こっちは笑いを堪えるのに必死である。
さて、家に上がってまず見えるのは、埃を被った小さなイスが2つ、それと小さな丸い机。机の上には花瓶があり、紫色をした綺麗な花が刺してある。咲いているということは、この花は最近のものということ。壁に一つある窓には、腐った木の板が打ち付けられている。
ギイ。背後から扉の開く音。
「サンダー、開いたの、か……」
「待ってたよ」
よく通る、落ち着いた声。そこに立っていたのは…6歳くらいだろうか、小さな男の子だった。なのに、何故? 思考が黒く塗りつぶされるような圧迫感。脳や内臓や器官やらの身体の機能がすべて止まってしまった気さえする。この子が──依頼人?
「今日は、何してくれる? ねぇ、待ってたよ。おれずっと待ってた、待ってたよ」
ぐにゃり…視界が歪んだ。下を向いたままゆったりと喋る男の子は、長い前髪で顔が隠れて表情が見えない。……嫌な予感がした。自然と肌が粟立っていく、嫌にじっとりとした汗が流れていく。目を逸らしたいけど、逸らせない。
「待ってた、待ッてた? ずっと、おれ、おレ! ずっと、待って、ま゙ってた、待ってタよ? ねぇ、待って。マっ゙てた」
「っひ、」
今にも崩れ落ちそうな首が、ガタガタと音を立てている。…気味が悪い。落ち着いていたはずの声は裏返り、雑音が混ざり、不安定になっている。嫌な予感が頂点に達した──逃げなければ。…何処に? 後ろに伸びた階段に意識が向く。俺が後ずさりした途端、不快な金属音を発してソレは叫んだ。
『ま゙ッでぃ゙ダ丿に゙イッ゙!!』
「ゔっ……!」
空気がビリリと振動して痛いくらいの風が斬りつける。臓物がズキンと痛んだ。鼓膜が千切れてしまいそうだ。
黒ぐろと鈍く光る泥が足枷のように引きずられ、ぺたり…ズズッ、と跡を残していく。焦点の合わない目、脳髄が飛び出た頭を抱えて不協和音を口から垂れ流す。だらり、伸びた首が、一回転、二回転、三、四、五……捻れていく。
──ぐダゃり
鈍い、錆びた金属が無理やり曲げられたような音。体の何倍もある、紙に描かれたクシャクシャの蝶の羽が部屋を覆う。ああそうか、コレが枯骨──。
俺はまだ、夢だという可能性を捨てきれていなかったらしい。別世界人がいるならもっと、別の存在も疑うべきだった。第一、今俺がいるのは魔領じゃないか。
「ノワ、サンダー……聞こえるか…?」
小声で問いかけるが応答は無し、聞こえるのはプツプツという電子音だけ。目の前の枯骨は背中の羽が重いのか、地面に膝を擦り付けていた。何度も、何度も。…今しか無い。背後の手すりを掴み、俺史上最高スピードで駆け上がる。足を動かすたびにミシと木の朽ちる音。短い階段で助かった。今倒れてしまっては、今度こそどうなるのか。
「ひゅッ…かひゅッ……は、ゲホッ」
息が吸いづらいのは埃のせいか、この状況のせいか、体を動かしたせいか。壁に手をつく。真正面にある扉は小さく開いていて、びっしりとコケが生えている。迷わず部屋へ入る。元は天井の一部だったのであろう木の板をつっかえ棒に、扉を固定した。やはり行き止まりである。窓から飛び降りる? 木の板で戦う? ……無理だ、俺なんかには…!
ズドンッ゙
『マっ゙テた、よ、ㇶカリ、ㇶヵリ』
扉に体当たりされている、天井からパラパラと土が落ちてくる。どうして俺の名前を知っている? いや、今はそんなことどうでもいい。
部屋にあるのは机と棚、それと花瓶。窓には腐った木の板が打ち付けられている。
ドシン、ズドン。この建物はいつ壊れてもおかしくない。
「ハっ、ハァっ……ッヒュ、」
寒気がする、脳みそが爆発しそうだ。
今更腰が抜けたのか、倒れ込んでしまう──と、床一面に広がった…赤茶色のシミ。
「……ハ……うっ…ぅオぇ…ッ゙…っは…」
嗚咽が込み上げて、熱を吐き出してしまって、視界がぼやける。心臓の鼓動が速くなる。……俺、死ぬのかな。
『ㇶヵリ、ㇶヵㇼ、ヒカㇼ、ヒカリ』
ああ、もう、どうだって良いか。
「ぅ……ウルセェ〜〜〜ッ!! 何なんだよオマエ! 誰だよ俺なんかに依頼したのは! どうせやンならイージーモードが良かったッつー…のッ!」
ガシャン! バキッ、ミシッ! 頭に血が上るとはまさにこのことなのだろう。人は恐怖を前にするとオカシクなる、そうだな、その通りだ。机、棚、花瓶……部屋にあるものが全て、壊れていく。枯骨ではなく、俺のせいで。
夢中で壊して、ハッと我に返る。音が…止んでいる。
…ドクン。思考の裏に、拭えない不安がベッタリと張り付いた。感じる、ナニカの気配。
張り詰めた空気に、息を殺す。指先が震えて、視界が霞んで…俺は床に手をついてしまった。
「い゙ッ……て」
じわり…手のひらが熱くなって、血が腕を伝う。花瓶を壊したときに飛び散った破片が、右の手のひらに深く刺さってしまった。火傷したようにじくじくと痛む。ガラスに付着していた黒い液体が、焦燥感を煽った。
『出来損ナ゙いダね』
ミシッ……パラ…ッバラ…
耳元で聞こえる声。木片の落ちる音、視界の横で蠢くのは…落書きのような蝶の羽──。
呼吸の仕方を忘れる。グチャグチャになった脳が、再び沸騰し始めた。
『ねぇ………サナギ丿中身はね、ドロドろ゙なんだよ』
「あ゙ァ゙ッ…!」
ジクリ、じくりと枯骨がガラスを押し込んでいく。あまりの痛さに涙が滲む。恐怖心よりも痛さが上回った。歯を食いしばって枯骨の腕を力いっぱい引き離すと…ベチャ。掴んだソレは、泥になって地面に落ちた。
泥…? いや違う、コレは…。
「……サナギの、中身は」
『…!』
枯骨の動きが停止した。……イケる。怒りも、恐怖も、痛みも、寒気も熱さも、何もかもが収まらない。八つ当たり? いいや、全部コイツのせいだね。こんなのに負けて人生終わるとか、マジで無い。
「ダァあァぁあぁアァあ!!」
ぐチゃり…木の板が枯骨の顔にめり込んでいく。熱で溶けた金属のように、ゆっくり、ドロドロに……。
裂けた部分から紫色の液体がこぼれ落ちる。溶けている最中にもかかわらず、その口は動き続けた。
『依頼ㇱた丿は、おれだよ…ヒカリ』
「…は……?」
上手く頭が回らない。にこりと嬉しそうに笑ったソレは、年相応の男の子に見えた。でも、どれだけ普通に振る舞おうとしても首は捻れていて、顔は裂けていて……。
「おそろい、おそろいだね」
依頼人が、この子? なら、倒すべき枯骨は…。
床に落ちている泥─枯骨の腕が、手のひらに触れようとするので慌てて立ち上がる。枯骨の羽は消え、声が戻っていく。
「ねえ。もし来世があるなら、蝶になれるのかな…」
肉はドロドロに溶け落ち、それから乾いて"骨"になっていく。古くなりすぎた骨は……枯骨は、俺の前で灰になり、空気に溶けて消えた。……枯骨が消えた。
「ぉ、終わった……のか…?」
壊れた机、棚、花瓶…それ以外は何もない。床にこびり付いた枯骨も、跡形もなく消えている。
「ヒカリ、大丈夫か! 生きてるか?!」
「さ、サンダー! っ……はぁぁあ……」
耳馴染みの良い声に、ドッと疲れが押し寄せる。バタバタと足音が聞こえ、勢いよく開いた扉からコケが舞う。見覚えのある蛍光黄色にふつん…と緊張の糸が切れ、へなへなと床に倒れ込んだ。
「なっ…! 倒れるほどしんどいのか?!」
「いや、なんか安心して……って、サンダー…吐いた?」
一回吐いただろう、ゲッソリとしていて顔色が悪い。そうだ、扉が閉まって、オデンさんが繋がらなくなって…あの後どうしたのだろうか。
「サンダー……別の、別の枯骨が…来たのか…?」
「……ん? 何の話だ?」
「さっき…俺が倒してしまったのは、依頼人の枯骨だった。俺は…俺は、間違えて…」
あの子を殺してしまった?
サンダーは俺の手を引き、階段を降りながら言う。
「す…凄いじゃないか!」
「へ? す、凄い……?」
「ああ! 情報によるとこの枯骨はたくさんの人を殺している。依頼人もそいつに…。でも、倒したのか?! まさか、この一瞬で…!」
「……そう…なのか?」
「ああ! しかし……10秒あったか? さすが、オレが見込んだ通り! 強いなあ、ヒカリは!」
「…え? 10秒? ……いやいや、20分は絶対にかかって…」
建物から出て、すっかり軽くなった扉を閉めようとしたときだった。
パラ……
「……ん?」
ドアノブを掴むはずだった俺の手は、スカ…と空振った。
「た、建物が、消えてく…!」
コケが剥がれ、現れたのは元の姿だろうか。ただそれも一瞬で…枯骨の散り際のように、灰になってひらひらと空に昇っていく。
「す、すげぇ…」
サンダーがほう…と呟く。日の光が差し、辺りのジメッとした雰囲気は消えていた。
──リン…チリン………チリーーーン………
「アレ? ココって…」
主張するビビットイエロー。窓から聞こえる波の音、差し込む光は…朱くない。パーレン号、サンダーの部屋だ。
「戻ってきてる……そうか、依頼が終わったから…って、どうした?!」
「アッっっくぅっ…………」
変な顔。じゃなかった、目を見張ったままダラダラと汗を流しているサンダーは、俺の後ろで硬直していた。その目線は机に置いてある写真ボードに向けられているようだ。
「な、ナンデモ、ナイ。ココにいてもつまらないだろう! ホラ、みんなのトコに…」
「…コレがどうかしたのか?」
カタコトに話すサンダーに写真ボードを指さして見せると、片足と片手だけ前に伸ばすという変なポーズを取り始めた。顔が赤い。
「ドゥワーーーーッ!! ………なんだ?ソレは。知らん、行こう」
「ぶふっ……ク」
笑っちゃ駄目だ、この子は必死なんだから。グイ、とサンダーに腕を引っ張られたまま部屋を出た。
すると、すっかりいつもの調子を取り戻したのか、俺の右手を眺めている。また上下に振るのか…?なんて思っていると、手の傷のことだった。
「あぁ、それ…ガラスの破片が刺さっちゃって。もう痛くないよ」
痛みがすっかり引いているなあ、なんて呑気なことを考えながら手を見ると、六角形の辺が凹んだマークが、焼印を押し付けられたようにくっきりと残っている。
「な、なんだこれ?!」
「今気づいたのか?!」
サンダーは俺の手のひらを指でなぞりながら言う。
「これは黒喰夭星、ウカ。枯骨を憑依することのできる一種の能力、悪く言えば呪い……オレもホンモノは初めて見たッ!」
「黒喰夭星、ウカ…」
うず…。カッコイイ。何かとんでもないものを手に入れてしまった気がするが、そんなことよりも、カッコイイ。いでよ、俺の右手に宿りし黒喰夭星、ウカ! ……なんつって。
「どうしたヒカリ。変な顔して、キモいぞ」
「ノワ!」
廊下の向こう側からノワが歩いてくる。幼い顔をしていて気づかなかったが、遠くから見ると身長がとても高い。…アレ? 今シンプルにキモいって言った?
「なあ、10秒無かったよな! ヒカリの枯骨討伐スピード!」
「えっ? い、いや…20分はあったって…」
サンダーがノワに詰め寄ると、ノワは怪訝そうな表情をした。
「枯骨を倒した? イマ? ……サンダーがヒカリを起こしに行ってから10分も経ってないゼ。二人して寝ぼけてんのか、顔洗ってこいよ〜!」
「「え? ……えェ〜〜〜ッッ?!」」
二人で顔を見合わせては同時に叫ぶ。じゃあ、俺たちは今まで何を……。
夢じゃない、黒喰夭星ウカがその存在を示している。…母さん、俺、ホントウに時が止まったところに遭遇してしまいました。これからは、人の迷惑にならないように妄想しようと思います。
ザザァーーーン。大騒ぎする俺たちを横目に、海がいつも通り笑っていた。
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ピコピコと規則的に鳴り続ける電子音、凍てついた空気。明かりのつかないこの場所では、無数に映し出されたモニターの光だけが頼りだ。
「ハア、楽勝」
キーボードをなぞると、一つの映像がモニターに流れる。
深い緑色をした髪に、爛々と輝いた瞳。小さいその鼻、その口から…右の手のひらの、黒喰夭星。馬鹿みたい。そうやって呑気に遊んでいると、すぐ利用されちゃうよ。
「キミには大切な役割を課そう、ヒカリ」
ああ、気味が悪いな。彼の嬉しそうな笑顔が映り、プツンと音を立ててモニターの電源が一斉に落とされる。
この時間が好きだ。世界が闇に包まれ、誰ひとりいなくなったように思えるから。
ポケットの中に時計を入れる。……また、時間が進んでしまう。
冷たい肌に触れて息を吐くと、暗闇の中へと姿を消した。




