9.Die U
マドーカンの皆様
どうか娘を助けてください。
あなた方がどういった取引を行なっているのかは存じ上げませんが、助けてくださるのなら、両腕でも両足でも、目でも、耳でも、心臓でも、どんなものでも差し上げます。
なので、どうか。
私の娘はある男の手によって、人形にされてしまいました。
連日、新聞記事に載っている、かの残虐な事件はご存知と思います。
彼女は……私の娘は、操られています。
あの男の手によって、操られているのです。
このままでは娘が捕まってしまう。
あの男が野放しにされてしまう。
どうか真相を公にしてください。
私の知っていることを以下に記しておきます。すべて真実であると、命をもって保証いたします。お役立てください。
…
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そうだ、人形が良いんじゃないか。
人形だったら、かたちはあまり、人と変わらないじゃないか。なんせ、人形だし。
蝋で作れば、材料費だって必要ない。
能力だって、十二分に活かせる。何よりこれは自分にしかできない仕業だ。
我ながら良い方法を思いついた。
これで彼と契約したらどうだろう?
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あの日、わたしはこいに落ちたのだ。
だいすきな彼の前でおまじないをした。
ずっといっしょにいられるという、有名なおまじないを。
いつも顔色ひとつ変えない彼の、ひどく狼狽した表情を覚えてる。彼は知っていたのだ。おまじないがどういう言い伝えだったのか。いいえ、彼だけじゃない。わたし以外の人たち、何も知らない赤んぼうでなければみんな、知っていたのだ。
「デューはね、特別な、高貴な存在なのよ。だからこうして、護られているのよ」
星座の彼は、生まれてから記念すべき3000回目の決まり文句を言った。記念すべき3000回目と思ったものの、これが喜ばしいことなのかは心底どうだっていい。それから、この決まり文句を言い続けたのは彼一人ではない。地面の模様の数が増える毎に、めだまやきの彼とクチナシの彼と、星座の彼は代わる代わるわたしの枕元に立つのだ。
初めは意味のないことばの羅列と判断して聞き流していたが、デューがわたしのことであり、何かからまもられているのだろうというところまで理解ったところで面倒くさくなって、いつしか考えることをやめていた。
星座の彼はこの日もわたしと目を合わせずに、自身の頬に浮かんだへびつかい座をなでた。この星たちは、めだまやきの彼とクチナシの彼の頬には浮かんでいないのだ。だからわたしは彼のことを星座の彼と呼んでいた。もっとも口に出すことはなかったけれど。
彼らから差し出されたものを口にし、体を拭かれ、箱の隅に寄せられたさまざまな「ずかん」やら「えほん」やらをいちばん明るい場所まで持ってきて眺める。それを繰り返すと地面の線が増えていくので、線の増えるその瞬間をこの目で見てやろうと、足の感覚がなくなっても微動だにせずただじっと待っていたことがある。でもわたしは、毎回ベッドの上で目を覚ます。結局、その間に地面の棒は増えてしまっているので、初めの検証から28回目にわたしの地面の模様への興味は、もはやあきらめに近いかたちで失くなったのだ。
わたしの興味はすぐに別のことに向いた。
暗い場所の、箱の向こう側のことだ。
箱の中は、明るい場所と暗い場所がある。
わたしはいつも明るい場所にいる。明るい場所にはベッドとずかんたちとテーブルがある。明るい場所はきいろだ。ずかんに載っていたきいろと同じ色をしている。暗い場所はくろだ。わたしがそれをめだまやきの彼に伝えたとき、彼は笑って頷いて「くろいのはね、そこには何も無いってことよ」と言った。だからわたしは「そんなことは知ってる。何も無いってことは見ればわかるよ」と少しムキになって言った。
くろは何も無いから、ベッドやずかんやテーブルが指の先に触れたときのように、それ以上は手を伸ばせないのだと思っていた。明るい場所と暗い場所の境目が、この箱の隅なのだと思っていた。
そして、わたしは転んだ。
箱の隅に寄せられていたずかんを取ろうとして、バランスを崩した。衝撃は思っていたよりも遅くて、立ち上がろうという考えが浮かばなかった。なぜならわたしは暗い場所という物にぶつかったのであって、地面に突っ伏したわけではないと思っていたからだ。
それから自分の顔や体を触ったり、手足をばたつかせたりしてようやく、転んだ先が暗い場所の中だということに気がついた。
明るい場所に目を向ける。眩しくてほとんど何も見えない。これじゃあ、きいろの場所にも何も無いってことになってしまう。
ああ、つまり、明るい場所にいれば暗い場所には何も無くて、暗い場所にいれば明るい場所には何も無いのだろうか? じゃあ、この先にはベッドやずかんたちやテーブルのように何かがある?
暗い場所に目が慣れてきても、ほとんど何も見えなかったけれど、もう一度明るいほうを向こうとは思わなかった。だってすごく眩しいし、こっちのほうが気になるから。
しばらく歩いて、今度は後ろに転んだ。顔とおしりが痛い。何か大きな物にぶつかったようだった。何も無い場所にも何かがあるんだ。めだまやきの彼は暗い場所に入ったことが無いのかもしれない。
バン! バン!
2回ほど、思いきり手のひらで触ってみた。ツルツルとした表面の硬いものに当たった。
大きさを確認するために、手をくっつけたまま歩いてみた。けれどいくら歩いたところで、それは無くならなかった。なるほど、この何かは箱の端の部分なのだ。今までまるいかたちだと思っていた箱は、しかくだったのだ。そう判断して、明るい場所にもどろうと思った。暗い場所の正体がわかったので、もうここに用はなかったからだ。
箱の角から手を離して顔を背けると、別の色が視界をよぎった。
きいろ…いや、おれんじだ。
箱の外側がおれんじいろになっている。どういうこと? 箱の向こうに何かがある。
その姿を認めて、目を疑った。
心の底から信じていた。こうやって"生きている"のは普通。
でも、それじゃあ。星座の彼でも、めだまやきの彼でも、クチナシの彼でもない、箱の外にいるこのたくさんの人たちは、誰?
彼ら以外の、わたし以外の人って何?
どうしてそんなにわたしを見てるの?
手に持っているそれは何? 見たことのないその服は? その顔は?
どこから来たの? 何を考えているの?
誰? 何? どうして? なんで? 知りたい、知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい!
声を出していた。箱の外、初めて見た自分たち以外の人に向かって、耳まで熱くなりながら呼びかけていた。
"こんにちは"
文字が浮かぶ。
"ぼくはシンザ きみは? "
人の手によって浮かんでいく文字に、額をくっつけて見入った。
彼らとはまったくちがう服を着ていて、見たことのない顔には星座の彼とはちがう位置…右目の下に一つ星が浮かんでいる。一等星の彼と呼ぼうか、と考えたが文字のとおり、彼のことはシンザと呼べば良いらしい。
「わたし、わたしはデュー! ねえ、何をしているの? もしかして、その人たちは"生きている"の? シンザ、知りたい、教えて!」
シンザは文字を浮かべるために、おれんじの紙を自分のほうへ向けたけれど、シンザより大きい人に紙を取られてしまって、それからどこかに消えてしまった。
──ぐぉん。
左からくぐもった音が聞こえた。初めて聞く音に驚いたがそれもほんの一瞬で、驚きはすぐに興味に変わった。正体を確かめようと、右足を踏み出す。
ぐぉん、ぐぉん、ぐおん、ぐをん………ゴンッ。
ガン、ゴン! ガン! ゴン!
肌があわだつ。鼓膜が必要以上にふるえる、不快な音だった。前から、後ろから、右から左から…くぐもった音は硬質な音に変わり、箱中を飛び回って鳴り止まない。
何……何? なんの音? とまれ、とまれ、おわれ!
耳をふさいでうずくまる。……しばらくして、ぴたり。止まって、またちがう音。今度は耳が痛くなるような、するどい音。それにまじって、硬い音。
キィィイイイン、ィイイイ゙イ゙イ゙イ゙イ゙。ミシ、ガリごり。ミシ、ガリごり……
生まれてから初めて聞くそれらの音は、わたしに不安をもたらした。この箱がこわれてしまうのではないか? わたしは、この音からまもられていたのではないか? だとするとわたしは、暗い場所に行ってはいけなかったのではないか?
うずくまったままそんなことを考えていると、今度こそ音はきえた。
よかった、おわった。
そう思ってすぐに顔を上げた。
……目が合っている、気がする。
彼らともシンザともちがう、背の高い彼と。
目を垂れさせて、口のはしを持ち上げている彼は、箱に開いた穴から、暗がりになってよく見えない顔だけをのぞかせていた。
耳をつんざくような高い音が聞こえて、それがわたしの声だと気づいたのは、星座の彼がわたしの手を引いたときだった。
星座の彼に怒られたのは、それが最初で最後だった。星座の彼が熱心にしゃべるたびに、いつもはきっちりとまとめられた髪のこぼれ落ちた部分があおいろに光っているのに夢中になった。彼はやはりわたしの目を見ようとしなかったので、注意散漫なわたしには気づいていなかった。
目に布を当てられて、わたしは別の明るい場所に運ばれた。しろい場所だった。真ん中に置かれたテーブルと、いすが4つ。そのうちの2つには、めだまやきの彼とクチナシの彼が座っている。ここでわたしの仮説が一つ、ひそかに消えた。星座の彼とめだまやきの彼とクチナシの彼は、全員同じ人なのではないか? という仮説だ。まあ、大きさもかなりちがっているのでその仮説は無いに等しいものだったが。
星座の彼が手前のいすに座ったのを見て、わたしも彼を真似しながら奥のいすに座った。彼らは知らなかったようなのでだまっていたが、わたしがいすに座るのはこれが初めてだった。
3000回目の決まり文句から始まったこの日は、わたしの普通の世界が変わる最初の一歩だったのだろう。わたしは初めて、箱の向こう側についての話を聞かされた。この箱から出たらたくさんの人が生きる「本当の世界」がある……その言葉を彼らの誰かが口にしてから、わたしがどういう挙動をしたのかまったく覚えていない。覚えているのはこころに浮かんだ唯一無二の感動、わたしはこの日のために育てられたのだ!
「本当に良いの? デュー。ここから出たって、デューであることには変わりないのよ」
彼のしろ目のないまっくろな瞳にわたしが映る。こうして正面から映ったのは初めてだ。どうしてわたしを見る気になったのかはわからない。ここから出れば、おそらくずっとわからないのだろう。漠然とそんな気がした。
「もちろん。わたしは決めたのよ」
星座の彼はくろぐろとしたまつ毛を伏せると、それっきりこちらを見なかった。
「準備が、できました」
いすから降りたわたしの横に、体に重そうな布をまきつけた人がやってきた。
その顔を、わたしは知っている。右目の下の一等星……シンザだ。だけど先ほど見た服とは別の服だし、めだまやきの彼と同じであった目の周りのわくが消えている。もしかしたら、顔が同じだけでシンザとはちがう人なのかもしれない。ちがうのだったら、この人のことは遠慮なく一等星の彼と呼ぼうと思う。それとも、服や目の周りのわくは取り外し可能なのであって、この人はシンザなのかもしれない。
「あなた、シンザ?」
わたしは後者にかけた。すると彼は笑って、重たそうな服の中から目の周りのわくを取り出してつけて見せた。どうやら当たりのようだ。
「やっぱりそうよね!」
仮説が当たってほこらしげに頬をそめたわたしを、シンザはふしぎそうに見つめていた。彼の目は星座の彼とは逆で、くろ目のないまっしろな瞳なのだと思っていたが、近くで見るとうっすらと灰色の瞳がわたしをのぞいていて、動揺してしまった。なるほど、心臓がはねるとはこういうことなのだと思う。
シンザはこの箱をまもっている人の一人であり、彼らとは別の箱で暮らしているらしかった。それからたいへん興味深いことに、地面の下からやってきたのだという。
「わたしも地面の下に行ってみたい…どうしたら行けるの? やっぱり、穴を開けるの? 今からここを掘ったら行ける?」
「ちょ、ちょっと落ち着いて…! きみは今からここを抜け出すんだから、あんまり大きな声を出したら他の人が来ちゃうよ」
「きみって何? わたしのこと? わたしはデューよ」
「きみは……自分の名前がデューだと思っているの?」
「名前? 名前って何?」
「名前…は……呼び方だよ、その人だけの」
「それじゃあ……わたしの名前はデューじゃないの?」
「ぇえっ、と……」
シンザが困ったように頬をかく。
くろく続いている長い道中、立ち止まって彼らのほうを振り向いて返事を待ってみた。星座の彼とめだまやきの彼とクチナシの彼は歩みを止めたが、口を開くことは無い。
「じゃあ、デューって何? わたしの名前は何? 教えて、シンザ!」
「…デュー、は……きみの、名前は……」
言い淀んでから、シンザは彼らと同じように口を閉ざしてしまった。暗いこの道ではどんな顔をしているのかわからない。…わからない? そうか、シンザはデューが何か、私の名前が何かわからないのか。
「それじゃあ、次。シンザって本当にシンザの名前なの? 一等星の彼じゃなく、あなたがシンザなのはどうして?」
「い、一等星? 誰…?」
「あなたよ」
「え…えっ? おれっ!?」
心の中でつけた呼び名を本人に言ったのは初めてだったが、シンザが驚いているのを見てなぜだかうれしくなってしまった。いっそ、後ろについて来ている彼らにも公表してしまおうか。
再び歩きながら、咳払いをひとつしたシンザはわたしに言い聞かせるように話し始める。
「良いかい、人っていうものはね。名前と一緒に生まれてくるものなんだ。だから、生まれてきたときには自分の名前が何ていうのかを自分で教えなきゃいけない。名前は一番初めから覚えている、たった一つの記憶なんだ。……って言っても、おれの小さい頃の記憶は曖昧で、本当におれの名前がシンザなのかは…正直わからないし、証明できる人もいない。まあ、なんていうかその……おれは、きみと同じようなものなんだ」
「ふうん。じゃあ、わたしとのちがいは外に出たことがあるか、無いか…ってことね」
そのちがいはずいぶん羨ましいことだし、そもそも顔も声も服もちがうのだけれど。心の中でそうつけ足して、昔の記憶をたどってみる。
わたしの本当の名前は何だったのだろう? どうして彼らは、わたしをデューと呼ぶ?
どう頑張っても、この箱の中で目覚めてからの記憶以外は出てこない。
回数も忘れるくらいに質問を繰り返して、暗い道はやがて、うすいみどりいろの小さな箱にたどりついた。
その箱の中には、髪も顔もなければ服も着ていない、動かない人たちがたくさん積み重なって倒れていた。その光景はひどく奇妙に思えた。
その中で比較的小さめの人の腕をつかんで持ち上げると、シンザはわたしに言った。
「これをきみに見立てる」
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新しい人形が彼の手に渡った。
彼はすぐに実行するだろう。
明日には、いや、今日には! また魂を繋げることができる。
今回こそ、今日こそ成功だ! 蝋燭は確実に永くなっている。
これで、19人目。
明日には最後の蝋燭を作りたい。
そしてきっとそれが作れたときには、目的は完遂されるだろう。
彼との契約は、これで終わり。
しあわせになるんだ、必ず……
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わたしが箱の外に出るためには、わたしの代わりが必要なのだとシンザは言った。
これから30分─時間というものの仕組みをシンザが説明してくれた。もちろん質問攻めにしたが─の間だけは、箱の外の人たちがいなくなるらしい。その間にシンザが小さな人─生きていないらしいので物なのだろうか─をわたしそっくりに変える。そうすれば、箱の外から観ている人たちはわたしがいなくなったことには気づかないので外に出ても問題ないのだと言う。
「わたしそっくりにって、顔も髪も無いのにどうやって?」
「こうやって」
シンザは体にまきついていた布で小さな人を隠してから、二、三回、左右に振った。
「じゃじゃあん!」
息を呑むとはこういったことを言うのだろう。今までのわたしの常識では想像もつかないあり得ないことを見せつけられてしまった。
布から現れた小さな人を目にした瞬間の、わたしの表情の変わりようといったら、天地がひっくり返るほどだったろう。目の前に現れたのは、誰がどう見たってわたしだったのだから。
10分ほどで、入れ替わり作戦は完了した。
わたしの入っていた箱の中に、先ほど生まれたわたしの偽物を寝かせるだけだったので、何も大変なことは無かった。
そうしてわたしは、箱の中でまもられていたのがウソのように、簡単に外に出てしまえたのだ。
星座の彼はいつの間にかいなくなっていた。めだまやきの彼とクチナシの彼に声をかけてから、外へと飛び出す。彼のことは少し気がかりであったけれど、外に出たという事実に興奮してそれどころではなくなっていた。そのときのわたしは誰の手にも負えないものだっただろう。
外はとても眩しくて、箱の中よりもずっと鮮やかな色が多く飛び交っている。その鮮やかさに目がチカチカして、頭の中にいろんな新しいものが浮かんでおかしくなるのも嬉しかった。息が上がるのにも気づかず走り回る。あれは何? あれはどうして動いているの? この匂いは何? あれは? あっちは? 視界いっぱいに広がる知らない世界の中に知っている色が見えて、感極まっていたわたしは気づいたときには飛びついていた。
「ありがとう! シンザ、ありがとう! わたし今、世界で一番しあわせ!」
「ちょ、危ないから…うわあっ!?」
わたしの重さでバランスを崩したシンザは、わたしもろとも地面に倒れた。
初めてハッキリと見えたシンザは、間抜けた表情をしていた。思わず笑ってしまう。灰色の重めの髪がふわりと揺れて、心地よい匂いが鼻をくすぐった。
ずかんでしか見たことのなかった花はずっと鮮やかに、えほんでしか描かれなかった空はやさしく暖かい。わたしを祝福するように世界が揺れ、えほんの文字じゃない風が頬を撫で、草花が舞い上がる。
わたしがこれまで生きてきた世界は、わたしの体中で表すとたったの髪の毛一本……いいや、まつ毛一本の存在だったのだ。
箱の中で全部じゃなかった。ずかんに載っていたものも、えほんに描かれていたものもすべて、実際にあるものだった。
やっぱり、自分の目で確かめたい。
「ねえシンザ、わたし、次はケーキを見てみたい」
「えっ、ケーキ? 何だっていきなり、ケーキ?」
「だってかわいかったから。ずかんで見たの。しろくて、イチゴっていうあかいまるが8つ並んでるの……知ってる?」
そう言ってシンザのほうを見ると、薄い灰色の瞳がわたしを見つめていた。シンザのせいで心臓がはねるのはこれで2回目だ。
「もちろん。きみの記念すべき日だからね」
にやりと笑って、シンザはわたしの手を引いた。
「これをこうして食べるんだよ」
みずいろのしかくい箱の中へ入ったわたしたちは、ずかんで見た「ケーキ」とはかたちのちがったケーキを前に、やわらかいいすに座らされていた。
わたしの目の前に座ったシンザは、ぎんいろのフォークで三角形に似たかたちのケーキを切り取ると、わたしの口元へと運んできた。
しろいと思っていたケーキの中はきいろいしま模様になっていて、甘く華やかな香りがわたしのお腹を空かせた。
じっと見つめていると、しびれを切らしたシンザが「いただきます」と言う前にわたしの口の中にケーキを突っ込んでしまった。まだ心の準備ができていなかったというのに!
ただ、そのときのわたしは何が起こったのか全く理解していなかった。舌の上に広がっていく濃厚な甘さは想像以上で、しばらくの間わたしは動けなかった。「あれ? ごめん、痛かった?」と焦った様子のシンザを無視してしまっていたが、わたしは痛かったのでも、怒っていたのでもなく、ケーキというもののおいしさに感動していたのだ。
何のことばも発さずにフォークを奪い取ると、気づけば無我夢中でケーキを平らげていた。
呆気にとられたような表情でわたしを見ていたシンザに気がついて、なぜか急に逃げ出したくなったわたしはゆっくりとフォークを置いた。
「あ…お、おいしかったわ。シンザは食べないの?」
「え…? あ、いや、おれは良いんだ。それより……」
「あら。シンザは食べなかったの? 食べたほうが良いわよ、ここのケーキはカクベツなんだから。もちろんお金は私が払うわ」
シンザのいすの後ろから、綺麗な顔がひょこりと出てきた。カールしたきいろの髪を一つに結んでいる。
「あ、いえ。おれのことは、気になさらず」
「良いのよ、良いのよ。ウェイター、イチゴのショートケーキをホールでくださる?」
通りかかった人にそう告げると、くるくる髪の彼は立ち上がって、シンザの隣に座った。
「誰なの?」
「この人は、きみの…」
「私、オリビアよ。今日からあなたの家族になるの。これからよろしくね、娘ができて嬉しいわ」
淡いあおみどりいろの目がやさしく揺れる。なるほど、くるくる髪の彼はオリビアというのか。
はにかむように微笑んだその顔に、記憶の隅が刺激される。どこかで見たことがあるような…ほんの少しだけそう思ったが、目の悪いわたしのことだ。思い違いだろうと、考えを振り払う。
「かぞく? むすめって? ええ、こちらこそよろしく」
「きみは、これからこの人…オリビアさんと一緒に住むんだよ」
「あなたの部屋も用意してあるわ。園……箱の人ともおはなしはしてあったのだけれど、聞いていなかったかしら」
「ええと、ごめんなさい。わたし、これから外の世界を全部見るの、だから…」
くろい服に身を包んだ人が、ずかんで見た通りのケーキをテーブルの上に乗せる。するとナイフを手にしたオリビアが、すかさず先ほどの三角形に似たケーキと同じかたちに切っていた。シンザに2つ、わたしに4つ分けてくれる。
「ありがとう。だから、オリビアと一緒にすむことはできないわ」
自分の皿にケーキを2つ乗せていたオリビアは、手を止めて少し考える素振りを見せると、フォークにイチゴを刺してわたしに向けた。
「毎日ケーキ、食べ放題よ」
「……………えっ!!?」
驚いて、持っていたフォークを離してしまった。毎日、ケーキ、食べ、ほうだい? その魔法のことばを聞いて、いつの間にか身を乗り出していた。
わたしに向けられたイチゴをぱくりと口に入れると、丁寧に咀嚼してから頷いた。
「なるわ、かぞく」
イチゴのショートケーキを平らげたわたしたちは、オリの中にいるたくさんの動物を見て周っていた。ずかんに載っているのと顔がちがった。
「そういえばあなた、名前はなんていうの?」
動物の説明が書かれた看板を見てから、オリビアが訊ねる。
そんなこと聞かれても、わたしの名前が何だったのか全く覚えていないのだから答えようがない。
わたしは離れたところで別の動物を眺めているシンザに向かって言った。
「シンザ、私に名前を付けてちょうだい」
「なっ……え、おれが!?」
「シンザ以外いないわよ」
「そんなの、ありなの……?」
「おおありよ!」
地面にしゃがみ込んでいたシンザは立ち上がって、手袋をした手でそっとオリに触れた。
「……………シルヴィ」
「シルヴィ……?」
その発音が舌に、耳に、よくなじんだ気がした。自然と頬がほころんでいく。
「シルヴィ! わたしの名前は、今日からシルヴィよ!」
自分が名前をもらったという事実が嬉しくてたまらなくて、気づけば大きな声で叫んでいた。
『デューはね、特別な、高貴な存在なのよ』。そう、わたしは特別。だってシンザに名前をつけてもらったんだもの。外の世界の素晴らしさを、誰よりも実感した自信があるわ。二人いっしょならきっとどこまでも行ける。高貴かはわからないけれど。
『だからこうして、護られているのよ』。………何から?
不意に、音の記憶が呼び起こされる。耳が痛くなるような、するどい音。それにまじって硬い音……
キィィイイイン、ィイイイ゙イ゙イ゙イ゙イ゙。ミシ、ガリごり。ミシ、ガリごり……
わたしはやっぱり、戻ったほうが良いんじゃないか? 外にいると、この音が襲ってくるのではないか? こわい、こわい、たすけて、まもって!
「ィ……シルヴィ!」
「…っ!」
本物のたいようが光っている。
わたしを見下ろすシンザとオリビアの顔はよく見えない。
「ぁ、あああっ……!」
「落ち着いて! 息を吸って、吐いて…」
声をかけてくれているのが誰なのか、わからない。背中をさすってくれているのが誰なのか、わからない。
ぼやけた視界の中、生ぬるい体温を感じながら意識は途絶えた。
次に見た光景は、みずいろの空だった。
それが、えほんのように描かれたものだと気づいて周囲を見回してみると、大きな木や花がやはりえほんのように描かれている。ふしぎに思いながら体を起こして、ようやく自分がベッドの上に寝かされていたのだと気づいた。めだまやきの彼がいない。見たことのない物たちが几帳面にずらりと並んでいる。そうだ、わたしは箱の外に出たんだった。それで、一等星の彼と……
「シンザ?」
呼びかけてみても、自分の声が小さくこだまするだけだった。
重い体を動かして、置いてあるものを押してみる。もしかしたらこの奥にいるかもしれない。
ギギ…という音を立てながら3つほど動かしたところで、端についていた板から探し求めていた色が顔を出す。
「シルヴィ、起きたの? ……何してるの、模様替え?」
「シンザ!」
すらりと長い手足にかけ寄り飛びつこうとすると肩を押して戻された。体に巻きついていた重い布はここでは取れていて、初めて会った─といってもそれも数時間前のことなのだが─ときと同じ格好をしていた。
「それやめてよ。おれ、体幹ないんだ。また転んじゃうよ」
肩をすくめるシンザの顔にはめだまやきの彼とはかたちのちがうわくがついている。まただ。いったいこれはどこから出てくるのだろう。わたしはシンザの顔についたくろいわくを見つめながら言う。
「ねえシンザ、ここはどこなの?」
「オリビアさんの家。きみの部屋だよ。きみ、いきなり倒れんだもん」
「わたし? ……確かに、倒れた気もするわ。でも、どうやってここに来たの? わたし、歩いてないよ」
「気絶したきみを、おれが運んだんだ。幸い、きみは重くなかったよ。それで、瞬間移動術でここまで……地領域まで来た」
「しゅんかんいどーじゅつ? じりょういき? それは、初めて聞くことばだわ」
「瞬間移動術。領域から領域に移動するには公共交通機関を乗り継がないといけないんだけど、同じ領域内でなら、瞬間移動術を使って即座に移動することができるんだ。体が宙に浮く感じがして、おれはニガテ。」
「何言ってるのか、さっぱりだわ」
「まあ、とにかく。きみは今日からここで暮らすんだ」
「ここ、って……」
箱からは遠いの? シンザもいっしょだよね? そう聞いてみたかったけれど、なぜかその答えをシンザの口から聞くのが怖くてそこから先は出てこなかった。
「あのさ」
部屋の中に数歩入ってきたシンザがわたしと同じ高さにかがみこむ。
細く長い指の先でわたしの前髪を払うと、パチンという音とともに額の端に小さな衝撃が走った。
「な、何したの!?」
「ん〜? それ、あげる」
衝撃が残った部分に触れると、前髪とはちがった硬い感触が指に伝わる。ふちに沿ってなぞってみる。どうやら星のかたちのようだった。
部屋の外へ出ていこうとするシンザの後ろ姿に、わたしのこころは不安でいっぱいになって心臓が早くなる。どうにかここにいてほしいと、必死になる。
「わ、わたし、オリビアと暮らすよりもずっと……」
「シルヴィ」
振り返ったシンザの目がわたしを見ている。
息がとまりそうになる。
やめて。
何も言わないで。
あんなに引きとめたかったのに、もっと話したかったのに、こころは別のことを思い始める。
おねがいだから、その先のことばをわたしに聞かせないで。
彼はにこりともしないで、目を伏せた。
「しあわせに、なってほしいんだ」
「な、何……?」
「お願い」
それから一度もわたしを見ようとしなかった彼は、再び歩き出してしまう。
「ま、待って…」
ああ、こんなときでさえ、己の知識欲に勝てないなんて、それ以外の考えが及ばないなんて。
とっさに口から飛び出したのは、箱の中で読んだずかんにも、えほんにも答えの載っていなかったことばへの問いだった。
「しあわせって、何……?」
彼は部屋の向こう側で、何よりも小さな声を出した。
「……おれたちが、生きていること」
彼が出ていってから、39分が経過していた。
地面に描かれた草は生い茂って花が咲き、そこら中に描かれた木からはりんごが生まれている。けれどそれらは決して柔らかくはない。ほんとうは、地面は転んだら痛そうな石で、そこら中にあるりんごはザラザラとしていて食べられない。
なぜシンザは、いっしょに暮らしてくれないのだろう? 知らない場所で会ったばかりの人と暮らすのだったら、箱の中でシンザと暮らしているほうがずっと、良かったかもしれない。欲を言うなら、外の世界でシンザと暮らしたい。うん、それが一番だ。まあ、シンザとも出会ったばかりなのだけれど、なぜだか彼は会ったばかりな気がしないのだ。
こつん、こつん、と音がした。
聞き慣れない音に耳をすませていると、今度は板が開いた。
「シンザ!?」
驚いて立ち上がると、シンザともオリビアともちがう人がそこにいた。シンザともめだまやきの彼ともちがったわく……いや、もはやそれはわくとは呼べない、2つのまるが、本来目がある部分についている。もしかしたら、あれが彼の目なのかもしれない。そうだとしたら、ぜひ近くで見たいものだ。
「あー、ごめんね。シンザじゃなくって」
そう言って彼の顔3つ分の大きさのにもつを床に下ろすと、彼の後ろからオリビアが覗いた。ずいぶんと久しぶりに見た気持ちがする。
「おはよう、シルヴィ! ちょうど今来てくれたところなのよ」
わたしが起きたのはちょうど今では無かったけれど、そんなことは知らないオリビアは大きな目の彼の肩に手を置きながら部屋に入ってきた。
「この子はほたる。あなたのかかりつけ医になる人よ。仲良くしてちょうだいね」
「ほたるです、これからよろしく」
数歩先まで近づいてきた彼は、わたしの背の高さとあまり変わらない大きさだった。くろいと思っていた髪は、きらりと光るとあおいろになる。
「かかりつけいって何? わたしはシルヴィよ」
「シルヴィが健康になるためのお手伝いをしてくれる人なの。年はあなたよりも下だけれど、とっても優秀なお医者さんよ」
ほたるはわたしの手をぎゅっとにぎって、顔を近づけた。
「シルヴィ、きみは知らないかもしれないけれど、この世界には病気というものがある。病気は苦しいものでね、治さないと、死んじゃうんだ。死んじゃうっていうのは、きみの考えていること、感じていること、好きな人やこの世界が、全部なくなっちゃうことだよ」
「そんなのイヤだわ」
「そうだよね。シルヴィ、僕が今から言うことをよく聞いて。……きみは、もうじき死ぬ」
「………え…?」
「もしかすると、明日にでも死んでしまうかもしれない。……でも大丈夫! 僕が必ず助けてあげるからね! 僕なら助けられる、そのために医者である僕が来たんだけど、時間がないんだ! だからね」
考えている間も無く、ほたるは床に置いていたにもつをすばやく引き寄せると、中に入っていたものをずるりと取り出した。
「生きるという決断を、してほしい」




