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「ここならきっと、誰にもバレない。大丈夫…僕しか、知らない場所なんだ。他の人がここに来たことは、一度も無い」
彼──生華の手を握ってたどり着いたのは、森の奥にひっそりと建てられた一軒の小さなログハウスだった。誰がいつ、何のために建てたのかもわからない。新築にも古屋にも見て取れるその建物は、僕しか知らない秘密基地のような特別で安全な場所だった。
「ありがとう■■…でも、ぼくだけじゃなくて、早くキミも中に入って。ぼくよりも■■のほうが、雨には弱いんだろう? こんなに土砂降りじゃあ、体調を崩してしまうかもしれない」
いきなり降ってきた雨によって、すっかりずぶ濡れになってしまった白い着物を絞る。不健康そうな薄い肌は、いつになく青白く見えた。
家の中に入って、棚にしまっておいたタオルを渡した。この場所に来るようになって約1年、こっそりと拝借した色々なものを、元々置かれてあった収納家具に詰めていたので、物が少ない我が家よりもずっと生活感が漂っている。
「はい。これで、髪と体を拭いて。風邪を引かないにしても、見ていて寒そうだよ」
家を出ようとした僕を、生華の病人のような腕が引き留める。
「どうしたの? …もしかして、使い方がわからない…とか?」
さらり。首を振ると、灰色の髪が黄緑色に揺れる。
「どこに行くの? ■■。さっきも言ったように、外は土砂降り。ここにいれば、キミだって雨を凌ぐことができる」
長い前髪の奥で、長いまつげを持ち上げて、黄緑色の瞳が光る。
─ドㇰン
身体の奥に植え付けられた熱が、彼の視線を受け止めるたびに強く締め付けられている。生華が僕を疑っているのだ。
…ちがうんだよ、生華。ぼくはキミをここに置いて、別の人間を呼んだりしない。■■■の人間を連れてきたりなんかしない。キミたちと僕たちは同じなんだ。きっと、話せば分かり合える。だからしばらくの間だけ、僕しか知らないこの場所でおとなしくしていてほしいだけなんだ。
「…うん。少し待ってて。僕、周りに人が来ていないか見てくるよ。それと、食べるものも少し。…大丈夫、ここにいる限りは安全だから…信じてほしい」
「……わかった」
掴んでいた手を引っ込める。
小柄な僕よりも二回りほど体の小さな生華の瞳に先ほどまでの疑心は無く、心配そうにこちらを見やった。
「気をつけてね」と彼は言った。
「…うん。行ってくるね」
それは外の世界に対して、不安を覚えているということ。
彼は初めて会ったとき、この世界のことを大雑把に知っているのだと言っていた。…どうやって知った? 教えてくれるようなものが存在したのか、他の人間が話しているのを聞いたのか、それとも……自らをもって体験したのか。考えたくない可能性だった。人々を守るための■■■が、生華のような小さな子どもまで? …そんな、まさか。
「…■■? どうして、こんなところに?」
聞き馴染んだ声がして、嫌な想像が掻き消えていく。
「え…■、■■? キミこそ何でこんな、森なんて、変なところに…」
服の裾や靴を泥まみれにした僕の前で、一つの乱れもない艶やかな長髪に雨粒を光らせて、大きな瞳を瞬かせる。彼女は見たことのない服を着て、大きな赤い傘を差していた。
「私ももう12だから、同行が許可されたの。さっきまでこの森に緊急要請がかかっていて、私たちが派遣された。■■もそう? …って、びしゃびしゃじゃん! 傘は、持ってないの!?」駆け寄ってくる■■に、頭が真っ白になった。何よりも先に浮かんだのは、この森に隠した生華のことだ。
「この森に、緊急要請…? 何、それ…聞いてない。何かあったの? 他の人たちは今、どこ?」
心臓が早鐘を打つ。首筋を伝うのは雨か、汗か。
「数ヶ月前に逃がした凶悪な枯骨がこの森にいるんだって。しかも■■■家当主様からのご通達。驚いたよ。みんなして、絶対に逃がすものかーって、大騒ぎ。
上の人たちは、この森で仕留めた枯骨たちの身元を調べてる。送られてきた破片と一致するかどうか…ねぇ■■、どうしたの?」
目眩がした。熱を訴えている身体のこころの部分を握りしめて踵を返す。背中に投げかけられる声を無視して走った。
■■■家当主からのご通達? 今までに一度だって、連絡を寄越したことなんて無いくせに。凶悪な枯骨だって? 巫山戯るな! 生華は悪いことなんて一つもしていない!
「生華ッ!!」
小さな家の扉を開く。
そこに生華の姿は無い。
代わりに、湿気を帯びた木の壁や、床や、家具なんかに、じっとりと広がった黒い…いや、赤い………。
喉元に熱いものが込み上げる。今ここで戻してしまったら片付けが面倒だ…この場所に帰ってくることを当たり前に考えてしまっているのを、我ながら変だと思った。息を切らして扉に手をつくと、自分が床にぶち撒けていることに気づいた。
殺したのか? …僕への見せしめにするために? 二度と僕が、一族に逆らわないようにするために?
頭と内臓と手足といった違った役割の感覚も、今は一緒になって目眩を起こしていた。全部が溶けてしまったくらいに熱く、多種多様な気持ち悪さが自分という器の中で忙しなく回転している。枯骨は血を出さないんだよな、なんて心のどこかで思いながら、僕は気を失った。