8.飽くまでお遊び
いつだって、貴方の目はくすんでた。
光を受け止めなければならない部分は、大気に多く含まれた灰や塵芥によって汚されたようだと感じた。
貴方が私の手を握るとき、私には無い柔らかさと温かさと、それからいつも、内に秘められた強さを感じた。きっとそれは、この世界で私だけしか知らない強さだった。
初めて貴方を見たとき、貴方を人形のようだと思った。
白くて、ほっそりとしていて……。人のかたちを模倣しただけの私なんかは、決して同じものに成れるはずなかった。
長く伸ばした前髪と、他人の垢なんかに塗れ、使い物にならなくなった眼鏡で隠された大きな双眸。小さく高い鼻。体温の低い白い身体に、うっすらと色づいた桃色の頬。
この顔に成りたい。
この顔に成れることができたらきっと、どんなことだって上手くいく気がする。
そう強く感じたから、私は奪った。この世で貴方だけが持つことを許された、たった一つの贈り物を。
……それでも、貴方には成れなかった。
ああ神様どうか。どんな犠牲も厭わないから、私の大切な人たちを連れ出して。
開け放たれたゴミ捨て場から、転がり逃げた先の教会に、私たちが救われる方法は存在した。
神様じゃ、いけなかった。
誰かがやらないと始まらなかった。
私が、私だけが、誰かに成れる最初の一人。
間違っているって、禁じられてることなんだって言われても、もう今更。もう手遅れ。
こうすれば、私の大切な人たちは救われる。
こうしなくちゃ、醜い。汚い。
こうする前のほうが、ずっと、ずっと、痛かった。
痛い思いをして、辛い思いをして、貴方たちが今まで普通にしてきたこととおんなじことをしたいだけ。
だから良いでしょ? 貴方たちは痛くないし、辛くない。何がダメなの?
今日も六つに割れた鏡の前で身支度をする。
醜くって、汚くって、必死になって生き急いだ人間たちが好んだお洋服を着て、かわいく髪を結んで、痛くないお化粧をする。
貴方の香りになりたくて、同じような甘い匂いの香水だって探した。
「見てよあの子、すごいカワイイ…!」
ええ、知ってる。当たり前でしょ──なんて、馬鹿みたい。
だってあの子の目はもっと大きくて、鼻はもっと小さくて、肌はもっともっと透き通るように白い。パーツの位置だって全っ然違う。あの子は、この服も髪も好まない。顔も匂いも全部ニセモノ。
今の私の姿を見たら、何て言う?
私の頬を一つ打って、『似合ってない』? ふふ、きっとそう。
きっとあの子なら、素敵な大人になったはずなのに。
私はあの子には成れない。
腕を絡めて、にこり。とろけるような笑みを与えれば、たちまちみんな消えていく。
もうすぐ。もうすぐ私たちは救われる。もうすぐ私は報われる。
神様なんていないわ。だってもう、本当は、あの子の顔を覚えていないんだもん。
────────────────────
「悪いな…わざわざ運んでもらって」
「いーえ」
放課後。定時で帰宅する職員が見え始めたこの時間に、勝手に保健室の鍵を開けてアタシたちを運び込んだ甘樂ふわりに素直に感心する。隣のベッドでピクリとも動かないのは、MDAに感染したアタシのせいで体力を消耗したファイア・ウエストロだった。自我が保てない状態だったことは言い訳にしかならず、実際心のどこかで思っていたことなんだろう。随分と酷い言葉を本人にブツケてしまった。…教師としてあるまじき行為だ。
「あーあ。退職すっかぁ? …ッダアっ!?」
思いきり伸びをしようと体を動かしたら、背中に激痛が走った。何? 背中に何か刺さってる? 痛い痛い痛いっ! 取って取って!!
「おっ、効いてます? 鳴聖画。いきなり動くと悪化しますよ。しばらくは動かないほうが良い」
「お、お前これっ…けっこー、イテーよ……」
ニヤニヤしながらこちらを見つめてくる甘樂ふわりの姿が、アイス・クリームへと変化して、保健室の扉をくぐり抜けていった。窓から注がれる日光が眩しい。ふと、いつもと違う光景に視線を奪われる。
「………Past dialogue、ねぇ…」
優しい魔力だった。
自らを犠牲にした炎で、過去に縛られた相手を開放する。その炎にあてられた者は後悔や、トラウマや、執着などの根強い衝動を、精神世界での対話といったごく身近な方法で、相手自ら乗り越えさせてしまう。過去は、ただの過去でしかなくなる。後悔や、トラウマや、執着が存在していた場所には、それらの代わりに気づくことのできた大切なものが芽を出すのだそうだ。
過去との対話を要しているのはコイツだろうに、皮肉なことに、自分自身に魔力開花を発動することはできない。
ファイア・ウエストロ──その瞳で何を見てきた?
「……なあ、青ってこんな色だったんだなぁ」
アタシの瞳には、あの暗く赤い炎ではなく、遠く広がった青い空がはっきりと映っていた。
────────────────────
黒歴史。それは誰しもが持っている、恥ずかしい!隠したい!知られたくない!過去や秘密を示す言葉…。元は、とあるアニメ世界の歴史を示すものであったそうで、封印された歴史という意味を持つ。
俺は心底羨ましい。力ずくにでも封印したい黒歴史になるであろう、この恥ずかしい現在……本来の黒歴史の意味であったなら、封印された歴史。つまり、記憶の底に沈み、重い蓋がされ、これからは二度と話題に上がってこないはずなんだ!
ああ、今すぐにでもこの状態の俺に関するみんなの記憶を黒く塗りつぶして、テープやら紐やらでぐるぐる巻きにして、重石をたくさん詰めて、底なし沼にでも沈めたいっ!
「ノ、ノワ…もう終わりにしよう、こっ、こぉ…こんなことっ…!」
俺とノワは二人、中庭の物置の陰に息を潜めながら、渡り廊下を歩く生徒たちの笑い声や、追いかけっこをする下校中の小学生らが通り過ぎるのを待った。
「おいヒカリ…オイラ、本気なんだ。…っ頼むからそれ以上、動かないでくれ。じゃないと…」
ノワの指先が、白く分厚い手袋越しに俺の髪に触れる。ビー玉のような彼の瞳が、酷く汗ばんだ俺を捉えては、愉快そうに弧を描いた。
「ヒカリのこと、も〜っと…」
「や、やめ…」
ダメだっ、これ以上は…
「カワイクしちゃ〜うぞっ☆」
俺の、尊厳がッ!!
「ふんふふんふふ〜ん♪ ヒカリのヒ〜は、ひし形のヒ〜♪」
「関係ないだろ!」
頓珍漢な鼻歌を歌うノワによって、掬われた俺の短い髪は目を疑うスピードで三つ編みになされていく。慣れているのか、なんと使われた手は左手オンリー。右手は指揮者のように人差し指を持ち上げて、軽快に空をなぞっていた。さすがは発明家といったところだが、手先が器用にもほどがある。
ぶかぶかの白衣のポケットには、俺の惨状の元凶、ノワの発明道具である『コーディネートはコーデネート! 楽チン ぴったりサイズクン2号機』(…略して………チンぴたクン…)がこれまた愉快そうに揺れている。
その名の通り、対象者にぴったりサイズの服を見繕ってくれる、モザイクが貼っつけられた見た目の怪しすぎるステッキである。
フリフリの花柄ワンピースに、大きすぎる派手なリボン。ソイツのおかげで俺は見事に悲劇的な姿になっている。
「ヒカリのカ〜は、〇トちゃんケ〇ちゃんごきげんテレビのカ〜♪」
やめろっ、見たこともないくせに!?
「よぉし! ぷりぷりキューティーなヒカリチャンの完成だゼ。待ってろ、みんなを呼んでくるっ!」
そうこうしているうちに、三つ編みはエビのようなツインテールに変貌。完璧な不審者になってしまった。こんな姿で放置されるなんて、たまったもんじゃない。あの珍妙なステッキがないと、この服はピッタリくっついたまま脱げもしないのだ。
ちなみに、ヒカリのリは? 正解発表の前にチャンネルを変えられたみたいで、ちょっと続きが気になるんですけど…。
嵐の前の静けさならぬ、嵐のあとの静けさ。心地よい風と暖かい太陽を浴び、俺は立ち上がってワンピースに付いた土を払った。道行く子どもたちのドカ笑いをBGMに、「う〜ん」と伸びをする……俺のことを凝視してくる小学生数人と目が合ったので、不審に思いつつも軽く会釈を返すと、エビのような三つ編みツインテールが揺れたのが伝わってきた。
「ッはぁ゙っ…!!?」
そうだ、不審に思われるべきは俺のほうかッ!
するとさっきのドカ笑いは、俺が原因で引き起こされたものだったのだ。
意味もなく両手を顔の横まで挙げて、何も持っていないことを証明して見せると、再びそそくさと物置の陰に身を隠す。幼い声たちは口々に何かを喋っていたが、頭が真っ白になった俺の耳は何の言葉も聞き取ることができなかった。……通報、されるだろうか。
今にも沸騰しそうな俺の脳内では、先ほどのノワとのやりとりが繰り返し放送されていた。嫌なことに気がつく。…ノワ、みんなを呼んでくるって言った? ……。隠れたい! 逃げたい! 消えたーいっ! こんな姿、誰にだって見られたいわけがない。特に、特にムーンには! アイツは絶対に「おっや〜あ? ヒカリちゅうん、今日はフリフリしてどうしたんですかあ? ダハハ!」とか言って笑い転げるに決まっている。うおおお! イヤだ、サイアクすぎる! 頼む、誰か俺を封印してくれーっ!
こんなことになったのも全部…
「花坂さん、どこに行ったんだろう…」
遡ること約30分。先生の枯骨を無事に取り払った俺たちは、この騒動を起こした元凶である花坂さん…花坂真理探しに苦戦していた。
校舎の裏のほうにすっ飛んで行ったと思うんだけどなぁ。もしかして、もう学校にはいないとか…十二分にあり得る。…明日も学校があるわけだし、今日はもう解散じゃあ駄目ですか?
「ヨウ、ヒカリ」
「ぅわあっ!? …ア、アイス…か……」
校舎に沿って並んだ木から、いきなり何かが降ってくる。薄紫のふわふわ髪に視界を遮られ、俺の思考は一時停止した。足を枝に引っ掛けたままのアイスは、固まった俺の顔を覗き込みながら可笑しそうに口元を歪める。
「センセー保健室に運んできたぜ。意識はあるけど、私の鳴聖画がまだ残ってるみたいで痛そうにしてたな…ハハ。それにしても、まだ花坂のヤロー見つけられてないわけ?」
冷めた瞳を向けられ、俺はドキリと身を強張らせた。
「こ、これでもずっと探してるけど、全然見つからないんだよ、花坂さん……ぁ、あの、もう、帰った、とか、は…」
俺はもごもごと言い訳をした。
倒れてしまったファイアさんと、ファイアさんを運んだブラッド、それから先生を運んだアイス以外…俺を含めて計5人。手分けして花坂さんを探しているのだが、探す場所が限られているくせして見つかる気配は無し。お手上げ状態だ。
「下駄箱に靴は?」
「無い…」
「ロッカーに荷物あるか確認したの?」
「まっ…まだ、です……」
「てか、アイツ人間じゃないんだから、そこらへんに溶け込んでる可能性だってあるわけでしょ」
「ご、ご尤もです……!」
一回転しながら木から飛び降りたアイスは俺に詰め寄ったあと、いかにもな呆れ顔で、さらに態とらしく肩をすくめた。顔に「やれやれ」と書いてある。
「ったく、あの█████████、█████████、█████がッ! …とりあえず私は、ヒカリが見落としたとこ探すから。まあ、明日も学校があるわけだし? 帰りたいなら帰れば? んじゃ」
「な゙……っ!」
アイスは指と指の間が閉ざされたピースをこめかみに当てると、チャッと俺のほうに向けながらウインクをした。
考えを読まれたようでまたまたドキリとする。そんなこと言われたら、帰りたいにも帰れない。やろうと思っていたことが、命令をされるとやる気がなくなる…まさにその現象だ。俺が見落としている前提なのも気に食わない! …それに、突然の『罵詈雑言、オトク!詰め合わせセット』の安売りが俺の神経をすり減らしてきた。あんな酷い言葉聞いちゃったら、怖くて逆らえない!(泣)
心の中で、見透かされた悔しさと不意打ち暴言の恐怖に震えながら地団駄を踏んでいると、前を歩いていたはずのアイスの視線は、訝しげに俺の後方…中庭のほうに向いていた。もしかして、そこに花坂さんが…!?
考えるより先に、俺の視線は体ごとそちらを向いた。白いペンキで塗装されたばかりの新しい鉄製ベンチ。…その上に、まんまと座ってしまったであろうバカが一人。そして、他人を座らせることに成功したであろうバカが一人。
「おおッ! これはスゴイな。確かにぴったりだ!」
「そうだろ〜? しかも! コイツは靴だけじゃなく、服も思・い・の・ま・ま! コーディネートできるんだゼ!」
満面の笑み─きっとこの笑顔は、サンダーが道具を褒めていることに対してではないだろう─で、新しい発明道具の説明を終えたノワの顔に、アイスの鉄拳が飛んだ。
「ぶっ!」
「オマエら、何やってんの?! フザケてないで花坂のヤロー探せや!」
「や〜、ちょうど良いベンチがあったからつい、な! アイスも試してみないか?」
そう言ってへらりと笑うノワの顔には、真っ赤な拳の跡が浮かんでいた。
「試すわけねーだろうがっ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてくれよアイス! このノワの発明道具は…って、アレ? なんだッ!? 取れないぞ!」
「あらら〜。乾いちまったみてえだなぁ」
サンダーのズボンは、既にベンチにくっついてしまっていた。『ペンキ塗りたて』の看板を支えに立ち上がろうとしているので、苦笑いをしながら見物していた俺は、ノワに騙された憐れなサンダーをベンチから引き剥がすことにした。
「しっ、知ってたのかッ、ノワ!?」
「いや〜ぁ、まさか、『ペンキ塗りたて』だったなんてな〜! 参ったゼ」
「ウソつけっ」
白衣を翻して逃げようとしていたノワは、アイスに足を踏んづけられ、ぺしゃん!と転んだ。俺はというと、一向にサンダーをベンチから引き剥がせずにいる。この塗料、驚くほどに強力なのだ。
「さ、サンダー……ズボンを見捨てるとか、どうかな…」
「えッ?」
言葉の意味を理解するのに時間がかかったようで、少しの間俺の顔を見つめていたのだが、だんだんと赤くなっていく顔をごまかすように首を振った。
「ええい! ここで脱がなきゃ漢が廃る…ッ!」
ベンチにくっついてしまった部分を切り取ろうかと思っただけで、まさかズボンごと脱ぐとは思ってなかったんだけど…!?
「さっ、サンダー!公共の場! ちょっと!?俺の声聞こえてる!?」
完全に聞こえていない。顔を真っ赤にして地面の芝生を睨んでいる。
「ふんッ」
遂に覚悟を決めてしまったのか、少し汗ばんだ手をズボンにかけたとき。
「みんな〜っ! 花坂さん見つかったぁ? …って、何してるの…?」
「ぬ、脱ぐわけないだろッ!? なッ!」
「ぬぐ? …何の話?」
「ぁ、ハハ…何でもないと思うよ…」
全くわかりやすい漢である。動揺が隠しきれていないが、こんな変な絵面─転んだ体勢のまま地面を這いずり回るノワに、転んだ際に脱げたノワの靴を片手に、芋虫のようなノワを追いかけるアイス、『ペンキ塗りたて』のベンチにどっしりと腰を下ろしてズボンに手をかけているサンダーに、それを目の前でただ見つめているだけの俺…どう説明しようとしても、『サンダーがズボンを脱ごうとしました。以上』にはならないだろうから。
「サンダーがズボンを脱ごうとしてるだけだぜ! なっ!」
「『なっ!』じゃねえよンなわけねーだろマヌケえッ!」
「ドヮっ……!? み、ミュー、俺が説明しますので…っ!」
サンダーが暴れ出すたびに、ベンチが地面から抜け出てしまいそうになっていたので、慌ててミューに見たものだけを説明した。
「ふんふん。なるほどっ! つまりサンダーは、公共の場でズボンを脱ごうとしてたわけだ」
「ミ゜ッ」
空気が凍った。場の空気ではなく、俺とサンダーを取り囲む空気だけが。
どうしよう。このままではベンチが地面から引き剥がされてしまう。ベンチの危機だ。
数秒の沈黙のあと、背後からミシミシと音が鳴り始め、ベンチは引き剥がされるどころか、その命もろとも木っ端微塵になってしまうのか…と諦めたところだったのだが。
「ていうのはジョーダンなんだけど…! とっ、とりあえず、ノワのその新しい発明道具を使えばカイケツ!と思うよっ!?」
間一髪、ミューの一言でベンチの命運は良い方向へと傾いたらしい。粉砕直前の音はピタリと止んだ。
────────────────────
「その…なんというか、その…」
無事、ベンチから解放されたサンダーは、またもや地面の芝生と見つめ合っていた。
「サンダー似合ってるよ〜っ!」
「馬鹿にも衣装、だな!」
「馬子にも、でしょ。まあ良いんじゃないの」
サンダーと目が合ったので、俺は目一杯頷いてみせた。
白いジャケットに金の装飾、胸に付けられた薔薇のような花のコサージュ。ジャケットと同じ装飾のズボンに、編み上げブーツ。肩から掛けられた高級そうな素材の青い布は、下に行くにつれて水色のグラデーションになっている。その姿はまるで…
「白馬に乗った王子サマみたいじゃ〜ん」
(笑)が語尾に付いていそうな喋り方に振り向くと案の定、上空から面白そうにサンダーのことを眺めているムーンがいた。今までどこにいたのやら、見たことのないブランドロゴのレモネードを片手に。
「そっ…そそ、そうだよなッ!? やっぱオレには、こういう服、似合わないよなッ…!」
「は? 誰も似合わないなんて言ってないんだけど?」
地面に下りたムーンが腕を組みながら言う。
「そうだよ〜っ! 堂々としてなよ! あっ、その格好のまま、魔領に新しくできた観光スポットでも行く!?」
「ちょっ、堂々とサボろうとするな! 花坂探しっ!」
詰め寄ってくるアイスに、ああ、と思い出したように手を叩くと、ミューは人差し指を立てた。
「じゃあ、堂々と花坂さんを探そうっ! みんなから話しかけてもらえるかも! 情報提供に有利に働くこと、間違いなしっ!」
「確かに…い〜っぱい人に見てもらえば、オンナノコからキャアキャア言われちゃうカモなっ!」
萌え袖を作ったノワが、上目遣いにきゅるりとポーズを決める。小首を傾げて手を顔の前に、足を内側に曲げた、体勢だけを見れば愛嬌のあるものだったが、その表情はサンダーのことを冷やかしているようにしか見えない。いつの間に撮影されていたのか、ムーンのカメラには、本人のそれとは似ても似つかない、ぶりっ子顔のノワが写っていた。シャッターを切った瞬間だけ、可愛い顔をする特技でもあるのだろうか。
「あの、スミマセン…」
「ん?」
愛嬌のあるポーズをしたまま声の主のほうを向いたノワに、相手はかなりたじろいでいる。声をかけてきたのは、顔も知らない女生徒数名だった。
「そこの、キンパツの方…」
「…え。お、オレッ?!」
女生徒たちは一斉にコクコクと頷く。サンダーの知り合い…ではないみたいだが。
「さっき、渡り廊下から見かけて…えっと、カッコいいと、思って…」
「お名前、何ていうんですか!?」
「良ければ連絡先、教えてくださいっ!」
「エ゙ッ!? …っァ、いやッ、あの…ぅッ!?」
口々に褒めそやし始めたオンナノコたちに圧倒されて茹でタコのようになったサンダーは、いつの間にか包囲されていた。数名だった女生徒たちが、中庭を埋め尽くすほどの人だかりになっている。隠れて見ていた人たちが出てきたのだろうか。
「ホントに、キャアキャア言われるなんて…想定外ダゼ」
さすがのノワも面食らったようで、人だかりから数メートル離れたところで冷や汗をかいていた。
「放課後だってゆーのに、よくもまぁこんだけの人が集まったわね。ヒマジンなわけ?」
レモネードの最後の一口を飲みながらムーンが言う。女生徒が話しかけてきたときから、一人で草むらに逃げ込んでいたのだ。
「ホーント。クソ花坂もこんくらい簡単に飛び出してくりゃあ良いのに……ん?」
「それだあっ!」
「アイス、それ良い考え! よぉ〜し。そうと決まれば話がはやーいっ!」
ノワとミューがキラキラとした目でこちらを見てくる。何かを訴えているらしいが、気づかないふりをするのが得策だ。そう踏んで、目を逸らしてみたものの…逃げられるわけがない。なぜならコイツらは未知の魔領人であって、俺は普通の人間だから。ヘタクソな苦笑いがさらに引き攣る。逸らした目の先にいたアイスは、「ご愁傷さま」と言わんばかりに首を横に振っていた。
────────────────────
「で……。なぁんで! 普通に中途ハンパな女装なんだよっ!!」
心の中で…ではなく、俺は実際に地団駄を踏んだ。
物置の中に自らを封印したところまでは良かったのだが、結局、ノワの呼びに行ったみんなに見つかり、太陽の下に引きずり出されてしまった。
「どぉだ、ぷりぷりキューティーなヒカリチャンは!」
「どぉだ、じゃないよ! やめろその無駄に長い呼び方ぁっ!」
せめて男物の服であれば…いや、もっと顔や骨格なんかも変えて、十文寺ヒカリの原形をなくしてくれたら…っ!
「良いじゃんヒカリ! 思ったよりかわいいよっ! あ、違うんだっけ…キューティーだよっ!」
グサッ。
「あー、ホラ。あの〜…良いんじゃない、三つ編みも上手にできてるし…」
ズタッ。
「オレには似合ってるとかはわからないけど、かわいいリボンだと思うぞ! レースがふりふ…じゃなかった。ぷりぷりでッ!」
ボロ…。
「今回、オイラがヒカリをぷりぷりキューティーなヒカリチャンに仕立て上げたのはほかでもない! それは、自分と同じくらい全身ピンク、&全身ぷりぷりのヤツがいたら、対抗心を燃やして出てくるに違いないという確かな根拠があったからだーっ!」
「確かな根拠って…! こんな格好のヤツに対抗心なんか湧かないだろ!」
ノワがこの作戦を思いついたのはきっと、確かな根拠があったからじゃなくて単に面白そうだからだ。
「なっ…わかんないだろ、やってみなきゃあ! 意外と『なんなのそのフザケた服装は! 私のほうが一千兆倍カワイイわっ!』とか言って、姿を表すかもしれないぜ〜?」
「そうよそうよっ! 大体、ピンク色の服を着るのは私以外に許してないわよっ!」
「い、い、今っ、どさくさに紛れて『フザケた服装』って言ったな?! やっぱりノワもそう思ってるんじゃないか!」
あと裏声ヘタだな!? …って、ん?
「おっ?」
「え?」
ノワと俺の間にひょこりと顔を出した、俺ではないピンク色、まさか……
「花坂真理!?」
「で、出た〜〜〜っ!?」
「マジ!?」
「あらっ! 皆さんさっきぶりねっ、うふっ♡ …ウソでしょ、ちょっと待って?」
呆然と立ち尽くしている俺たちの横をすり抜け、花坂さんが足を止めたのは──サンダーの前だった。
「カイトくん…? カイトくんなの? …とってもステキ。似合ってるわ♡ ホンモノの王子様みたいっ!」
「え゙ッ」
花坂さんが腕を絡ませて抱きつくと、サンダーは人間はこんな色になるのか?と心配になるほど赤くなって、そのまま動かなくなってしまった。…まあ、魔領人だし、大丈夫…なのか?
「きっと、王子様になるために生まれてきたのね。金色の髪に大きな青い瞳…奥二重の瞼に凛々しいま・ゆ・げ。うふっ♡ スラリとして見えるのに、たくましい筋肉も魅力的…ねぇカイトくん。これから私と…」
「ハッ…! ちょっとアンタら、なよっちいサンダーなんか眺めてないで、はやく捕まえなさいよ!」
ようやく我に返って叫んだのはムーンだった。これ以上見ていたら頭がおかしくなる気がして、慌ててノワのほうに目を向ける。
「まかせろ!」
そう言うよりも早く、どうやって白衣に入っていたのかわからない大きさのソレを白衣の中(?)から取り出していた。いつも持ち歩いているのだろうか。
「でやっ!」
バサッ
「捕まえたぜ! やっぱ、夏と言えばコイツだよな!」
こちらに見せびらかせるようにして向けられた、ノワの右手に蠢くその生き物は花坂さん…ではなく。
「ギラリと光るツノがカッコイイんだゼ」
「今カブトムシはいいから!!」
「そうか? じゃあヒカリにやる」
「あ、ああ……」
カブトムシを俺の背中にくっつけると、左手に持ったソレ…虫取り網をところ構わず振り回し始めた。
「キャア!」
「ちょっと!」
「なんなのっ!?」
小さな悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、風を切る音とともに消え、虫取り網はたちまち大きく膨らんだ。ノワの体の数倍…いや、数十倍まで……。
「なっ、何だこれ!? 網…なのか!?」
「ただの虫取り網なんかじゃないぜ! これはオイラによって魔改造された、トンデモウルトラスーパー虫取り網なんだ!」
「うおおッ! かっけぇッ!」
見るからに自分の体重の数倍しそうな網を軽々と左右に往復させると、中身の質量はどんどん増えていく。細かい網と素早い動きのせいか、網の中に何が捕らえられているのかがわからない。
「カワイ〜っ! すご〜い! ノワ、力持ち〜っ!」
あんなに大きな網を振り回しているというのに、聞こえる音は後方のシャッター音と僅かな風の音だけ……一体、どんな魔改造をしたらこんなトンデモ道具になるというのだ。
「ホントはあれ、網をデカくしただけのただの虫取り網なんだよ〜」
髪に付いた葉っぱも気にせずに、ミューが笑う。
「えっ、網をデカくした、だけ…? 重さ軽減とか、音量調節とか、設定した生き物だけ捕まえられる機能とか搭載されてないの!?」
「おー、コイツはトンデモウルトラスーパー取れる…つまり、網をデカくした虫取り網なんだぜ! スゲーだろ!」
一仕事終えたノワが網を引きずりながらこちらへ戻ってきた。
それって魔改造って言える?! というより、こんな重そうなものを軽々と振り回せて、瞬く間に何かを捕まえることができるノワがトンデモウルトラスーパースゲー…。
「ウンウン! メッチャスゴいよ〜! 大量捕獲記念に一枚! キャーー!カワイ〜っ!」
ノワが虫取り網を地面に放り投げると、デカすぎる虫取り網は背景の半分以上を奪い……騒ぎ出した。
「ここから出してえ!」
「助けて誰かーっ!!」
「痛いっ! やめてよ!」
ぎゃあぎゃあとけたたましく叫ぶ声たちに、思わず耳を塞ぐ。
「こッ、今度は何だッ?!」
「うるせ〜! こんなにうるさくなるとは思わなかったゼ」
顔をしわしわに顰めたノワが再び虫取り網を手にすると、さっきまでの喧騒が嘘のように消えた。
「今出してやるからな〜」
網の端を持って引っ張り上げると、網の中で積み上げられていたのであろう、折り重なった三兎解高校の女生徒たちが姿を現した。
「こ……これは…っ…!?」
「ちょっ! ノワ、こんなに大勢どこから…いや、逃がしてあげなさいっ! 私、カブトムシ捕まえてるのかと思ったのに…!」
「大量のカブトムシが出てきたら、さすがに私、逃げるわよ。
ノワは花坂捕まえようとしただけだよね〜っ!」
全員を網から出し終えたノワは、手をぱっぱと払ってから虫取り網を白衣の中(?)にしまった。
「どいつが花坂かわかんなくてよお。サンダーを追っかけてきてるやつらもたくさんいたから、とりあえず、そこら辺にいたやつ全員捕まえてみたぜ!」
そう言って地面の上に山積みにされた女生徒たちをぽむぽむと叩くので、ミューが慌てて一人ずつ救出し始めた。
「アンタ…クソ花坂がどんな格好してるか覚えてなかったの…? あんな全身ピンクヤローを…?」
「ん〜? ああ、悪いな! 全身ピンクっつーと……コイツか?」
ノワは女生徒たちの山に手を突っ込むと、探していた感触を掴んだのか、勢いよく引っこ抜いてこちらへ差し出してきた。
頭のてっぺんから爪先までピンクのソレは少し…いや、大分土で汚れている。二つに結ばれたピンク色の髪は、たった今引き抜かれたばかりの─実際その通りなのだが─雑草、または野菜よろしく頭上で一つに鷲掴みにされ、噴水のようにも見えた。……花坂さんだ…。
「あらっ、カイトくん! さっきぶりね! 何か用かしら? うふっ♡」
雑草または野菜状態で持ち上げられたまま、それを気にも留めずに喋る花坂さんに笑いが込み上げてきた。…どうしよう、今は笑うタイミングじゃない。
「…っく……ㇷ、フフフ…」
「どうしたんだヒカリ? どこか痛いのか…?」
サンダーが俺の肩に手を置いたときだった。老婆の魔女を想像させる、背中がぞわりとするほどに奇妙な笑い声があたりに広がった。
「ウッひっひッㇶイ……ひっ、うひっ……うっㇶㇶㇶひい」
「なっ、な、何だ?! て、ててて、敵かっ?!」
飛び上がった俺はサンダーを盾にするようにして笑い声のほうを振り返ると、地面に突っ伏したムーンが芝生を蹴散らし暴れていた。……ホントに何?
「あははッ! 気にするなヒカリ! ムーンはこういう気色悪い笑い方なんだ。オレも初めて聞いたときはビックリしたけど、すぐに慣れア゙ッ!?」
「気色ワリィっつったかあっ!」
ドヤ顔で俺を諭していたサンダーは、正気を取り戻したらしいムーンの飛び蹴りを食らっていた。
今の笑い声に慣れるの、ちょっと怖いんだけど。
「なあ、結局コイツは花坂か? 逃がしていいやつか?」
返答を待ちかねたノワが花坂さんをブンブンと回し始めるのを見て、ムーンはまた地面に突っ伏してしまった。
「ちょっと! 何が起こってるの!? 誰か私を止めなさいよう!」
「そ、そう! その人が花坂さんだよっ! だから、この子たち起こすの手伝って…!」
ムーンの笑い声をBGMに、観覧車のごとく回り散らかす花坂さんと、ムーンに蹴られた脇腹を押さえる顔面蒼白なサンダー、山積みになった女生徒たちに、それを引っ張るミュー…ああ、アイスはというと、花坂さんが差し出された時点から罵詈雑言・不適切ワードのオンパレードを繰り返しているため、ノイズキャンセリングをオンにしてお送りしております。……ホント、頭がおかしくなりそうだ。
────────────────────
「まさかこんな作戦で本当に出てくるとは…オイラ、ビックリだゼ!」
中庭のペンキ塗りたてベンチに縛り付けられた花坂さんを横目に、ノワは綺麗に片付いた芝生の上に座り込んだ。
「こんな作戦…って、やっぱり俺に変な格好をさせたかっただけ……ハッ!?」
思い…出した…。俺、フリフリワンピースに変な三つ編みちょんまげ頭で、今までずっと…? 山積みになっていた人たちの中に普通に、同じクラスの人いたよな? ………あゝ。
「オイラの最高傑作、ぷりぷりキュウチィなヒカリちゅわんをみんなに見てもらえたみたいで良かったゼ〜」
「いっ、今すぐ、戻して! 今すぐッ!!」
頭部に集まった熱で沸騰しそうな脳内に、こんなのが最高傑作で良いのか、なんて他人事が流れていく。
必死で詰め寄った結果、「わかったわかった! まあ、もう撮ったし、しょうがね〜から返してやるぜ」とやむなしといった様子で、はい、と元々着ていた服を手渡ししてきた。
「え゙っ……普通に着替えるの? 文明の利器は…?」
「ン? もう解除してやったから、フツーに脱げるだろ?」
例のモザイクのかけられたステッキを左右に揺らしながら、今の状況に似つかわしくない優しい微笑みを向けてくる。
ちょっと! 取れてるから!? まあまあな速度で左右に揺らされると、タイムラグだかなんだか知らんが、モザイクが取れてるからッ!?
「見せられないよ!!」
「何が?」
「ノワ…あの、オレも解除してもらっていいか? とても良い衣装だとは思うんだが…やっぱり、その、落ち着かないんだ」
「お〜っす、おらよ。コダワって破いた服、返すゼ」
「や、破いてねェしッ!? 勝手に破けたんだしッ!?」
「うるさいわね、ぱぱっと物置の中ででも着替えてきなさいよ。誰も見ないんだから……多分」
普通に恥ずかしがり屋な俺は迷いに迷ったが、着替えを見られるよりも、この不審な格好でこれ以上外界に存在するほうが嫌だったので腹を決めた。
「ノワ、着替え終わったんだが、この服はどこに置いておけばいいんだ?」
「あ〜、やるよ。あげる。要らんし」
「俺だってフリフリ花柄ワンピースは、要らん…」
不審者から脱却した俺は、背中にカブトムシの付いたままのフリフリ花柄ワンピースのやり場に困っていた。妹にでもあげるか…? 決して兄が袖を通したものだとは悟られてはいけないけど。少しクセのついた横髪を手で引き伸ばしながら、物置の机に置いておく。それにしてもこのカブトムシ、いつまでここにいるつもりなんだよ。
「あらっ? ヒカリくんじゃない! まだ学校に残ってたのね! それとも、私に会いに来てくれたの? うふっ♡」
「は、花坂…さん……」
二人して着替えるのに手間取って、数十分は経っているはずだが、花坂さんは依然としてベンチの上でおとなしくしていた。異常に粘着性のあるペンキのせいでサンダーはベンチにくっついていたわけだし、花坂さんもくっついているのだろうか。
「やばっ、手がくっついた! と、取れないよ〜っ!」
「アンタはなんで触っちゃうの」
ペンキの粘着性は未だに健在のようだ。ミューの手がベンチから引き剥がされる瞬間を想像して、何もくっついていない自分の手をバタバタと振り払った。
「あっ! そういえばさっきのこと、忘れてないじゃない! もぅっ! あの一ツ目暴君が校庭に隔離したせいで、外しちゃったんだったわ!」
イヤイヤ!と足や顔を動かしているけれど、縛られたままでは数センチ暴れることしかできない。
花坂さんは成績が良くて運動もできる。みんなに平等に優しくて、心配りも完璧。外見の良さだけではなく、性格の良さからみんなに好かれていると思っていた。…だけど本当は、どんな人なんだろう。いつもこうやって、都合の悪いことだけ忘れさせているのかな……俺も何か忘れてる? そう考えるだけで寒気がした。
「忘却術っ!」
聞こえたときにはもう遅い。俺の目には、いつの間に拘束を解いたのか、こちらに手を伸ばした花坂さんが映っていた。それと、地面から抜けてしまったベンチに引っ張られているミューも。ああ、あとでちゃんと埋め直さなくちゃ…ムーン、ミューの手を剥がせなかったんだな…。サンダーが座ってしまったときからもう、ベンチの命運は決まってたのか? おかしいだろ、誤って座ってしまった人のほうじゃなくて、ベンチのほうが悲しい結末だなんて。
術か何だか知らないけど、それで魔導館のことを忘れられたら、俺は普通の生活に戻るんだろうか。魔領域のことも、ミューも、サンダーも、ムーンも、ノワも、ファイアさんも、ブラッドも、アイスも、アクアさんも、枯骨のことも、先生も、花坂さんの正体も忘れて、元の平々凡々な生活を送る…知ってしまった今となっては、あまり想像がつかないけれど。まあでも、忘れたらそのときは……って、
「術が効くの、遅すぎない?」
「な……どうして効かないの?! 忘却術! ぼ・う・きゃ・く・じゅ・つ〜う!」
「何回やってもムダだぜ? ヒカリにはバリアが着いてるもんね。そう…ヒカリの、服にな!」
頭に重みを感じたので右に移動すると、体重を預けて寄りかかっていたノワがバランスを崩した。
「トワちゃん! 転けそうになってる姿もかわいいわね♡」
バチコーンと星が出てくるようなウインクをかますと、動きを止めてノワの全身をまじまじと見つめた。
「普段はそういう服を着るのね。初めて見た。というか、あなたたちがここの人間じゃないことぐらいわかるわよ! ナメないで頂戴っ! ヒカリくんが無理なら次はトワくんよ! 忘却術っ!」
「はいバリアー! バリアしてるから効きませーん! オイラはやさしーから言っといてやるけど、今、みんなバリアタイム中なんだ。悪いな〜」
ノワ、無敵か? ありがとう…。バリアとか小学生ぶりに聞いたよ。自然と言う機会がなくなっていたけど、俺たちまだ、使って良いんだな…。
「さすがねトワちゃん♡ でも、そのみんなって、ツトくんも含まれてるわけ? 忘却術っ!」
「ぇ…? ツト、って」
物置後方に聳え立つ大木に向かって術を叫ぶと、「うわッ」という声とともに黒く長い髪が尾を引いて空を舞う。物置の上に飛び乗りこちらを見下ろす鈍い赤色は、暁月苞ことブラッドだった。
「ブラッドぉ! オマエ、いたなら言えよ!」
「バカかお前、言ったらバレちまうだろォがよ。…はー……いつからバレてンだ?」
心底面倒くさそうにブラッドがぼやく。
「ずうっとバレてたわよっ! 私が見つけられない子はいないわ! 男の子なら誰でも♡」
「何コイツ…」
「忘却術! 忘却術っ! 逃がさないわよっ!」
次から次へと飛び移り、木や建物に登り、降りを繰り返すブラッドを追いかけて、花坂さんは術を発動し続ける。枝から転がり落ちるブラッドに向けられた術は、身を隠した柱によって防がれる。レベルの高い障害物走でも見ているようだ。
「すばしっこいわね! 何でこんなに当たらないのよっ! ふんっ、まあいいわ! ツトくんのおかげで、じゅぅぶん時間は稼げたんだもん♡」
芝生の上に膝をついたブラッドを見てニヤリと笑ったその瞳で、邪悪と妖艶さが混じり合う。
「どういう意味…」
「でやっ」
バサッ
「………」
振り下ろされた虫取り網によって、静寂が訪れた。
「それ、捕まえてどうするつもりなんだ? ノワ…」
トンデモウルトラスーパー虫取り網で花坂さんを封印してしまったノワは、俺たちの顔を見回してから網へと視線を戻した。
「さあ? どうするか、こいつ?」
「そりゃあモチロン、ギッタギタのメッタメタにするしか無いでしょ……さっきっから無視しやがってこんのクソっカスゴリラがあ…ッ!」
アイスのノイズキャンセリングが解除されると同時に、ノワが虫取り網から手を離す。
「きゃーん、助けて〜! 身動きが取りにくくて苦しいわっ!」
「うるせえっ!」
すかさず聞こえる媚びた声に、アイスが蹴りを入れていた。
「その…どうして虫取り網を持っているときは、網の中の音が聞こえないの? 網をデカくしただけのただの虫取り網…なんだよね」
「ああ。それはこっちの機能、だな」
言いながらノワは、白い手袋の着けられた両手を握ったり開いたりしてみせた。なるほど、その手袋も発明道具の一つだったのか。それとも俺の服にかかっているバリアのように、魔法的な衣服なのか。
「まず謝罪が必要だろうがアァ〜ン? 一方的に傷つけておいて助けてもらえると思うなよこの██████」
「私だけ悪いんじゃないも〜ん! あの一ツ目暴君は…」
「先生、な?」
「チッ…せんせぇはよくわかんなかったけどぉ、あの凶悪なチビっ子はキモチ悪ぅい呪物持ってたから、せんせぇに引きちぎってもらおうとしただけだも〜ん!」
「はぁ? アンタ、ファイアが呪物って、そんなもん持ってるわけ〜ぇ……いや、あり得る…」
「なァ、何だよ呪物って。そンな危険なモン、一体誰が…」
「ツトくん、かわいそうに。あの女に騙されてるのねっ? ストラップよ、あの女が作った。ねぇ、わざわざ自分で作ってまでしてぇ、誰のことを呪ってたと思ぉう?」
もぞもぞと揺れ動く網から覗いたピンク色。
「なッ…知らね…」
「ツトくんよ! 貴方のこと、縛り付けて洗脳してたのっ! それだけじゃないわ。ツトくんの寿命をすり減らして、自分のものにしてたのよっ…! …ヒドイ女でしょう?」
勢いよく飛び出すと、顔をぐいっとブラッドに近づける。ブラッドが後退りしようと身を引いたとき、アイスは花坂さんの頭を掴んで地面に突き飛ばした。
ファイアさんが、ブラッドを呪ったって…? ブラッドの寿命を自分の寿命に…? そんなことが、できるのか? …二人は仲の良い双子だと思っていたけれど、本当は違うのか?
「ッ…」
「ぶ、ブラッド…」
俯いて震えるブラッドに近寄ろうとすると、肩にポンと手が置かれた。
「や、ヤメとけ! そんで聞かなかったことにしろ。身のため…だゼ! ㇶㇶ…」
「えっ?」
なんかノワ、笑ってる? 今の流れでおかしいこと、あった?
「ッは、あはははっ!」
「えっ…エ゙ッ?!」
何で、ブラッドまで笑ってんの?! というか、ブラッドって笑えたんだ…。
驚いてみんなのことを見ると、ミューは何事もなかったみたいな顔で手がベンチにくっついたままだし、サンダーはどうしてか目に見えるほどの汗をかいているし、ムーンは顔を隠してうずくまってるし、ノワは笑いを堪えすぎて変な顔になってるし、アイスは花坂さんへの怒りを露わにしすぎて顔面が不適切ワードよろしく真っ黒になっちゃったし……もう、意味わかんない。もしかすると、魔領域でしか伝わらない流行りのジョークなのかもしれない。この場で理解できていないのは花坂さんと俺だけってワケ。これが身内ネタってやつですか、はあ。
「かわいー……。ヘタなンだなァ、呪いかけるのは」
肺に溜まった空気を吐き出してから、ブラッドがおもむろに微笑んだ。その横顔に少し見入ってしまう。
弱々しく倒れ込んでいる花坂さんは、唇を尖らせて「きゃーん、痛いぃっ!」と言って俺たちを見つめた。けれど、微動だにせず突っ立っているのを確認して、アイスのことを睨んだのも束の間。振り下ろされた右腕がアイスの頭に──貫通した。
「…は?」
「『は?』はこっちのセリフな? 殴ろうとしやがって。悪魔は私には触れないから。つーか、私が許した人しか私に触れないから。でも私からは触れるんだもんね。便利ー、残念でしたー」
チャキッという音を合図に、深い切り込みが花坂さんの顔に、目から頬骨の下にかけて斜めに入っていた。アイスが折りたたみ式ナイフを取り出した音だった。その瞬間どろりとした蝋のような液体が、切れ目から溢れ出た。花坂さんの目が大きく見開かれて黒く染まっていく…と思ったのだが、それを認識したときには切られた顔も、溢れ出した黒い液体も、黒く染まったように見えた目の色も、そこに存在しなかった。
二転、三転してアイスから距離を取ると、お得意の上目遣いで訴えかけてくる。
「もう疲れたわっ! やめるぅ! おしまい! 記憶があるままで許したげる。私飽きちゃった。今日はもう帰るわっ!またねぇ、ヒカリきゅんっ♡」
「ひ、ヒカリ…"きゅん"…?」
呆気にとられている俺に背を向け、花坂さんは文字通り背景に溶け込んで…消えなかった。
「痛いじゃないのっ! 話しなさいよアンタ! 何でここにいんのよっ!」
溶け込む寸前の花坂さんの腕をねじり上げたのは、顎のあたりで切りそろえられたツヤのある黒髪に、日光を吸収したような真っ赤な瞳、顔の下半分はガスマスクで覆われ、手頃な価格で入手できそうなコスプレ用メイド服を着た女性だった。
メイド服の女性は花坂さんの頭を掴んで、くるりと方向転換させると、強引に頭を押し下げた。それからご丁寧に自身のガスマスクを着脱し、きめ細かな白い肌を露呈させた。
「このヴァカアホウンコ垂れがご迷惑をおかけしたようで、大変申し訳ありませんでした」
謝罪とともに発せられた声は、想像したものよりも深く響く、落ち着いたアルトだった。
「ちょっ、な、何よっ! 私悪くないわよっ! 頭下げるようなことしてないわよっ! ちょっとリベラ聞いてるの?! 離しなさい! ねぇっ、聞いてるっ?!」
「自分から呼び出しておいて、どういうつもりなんですか? ヒトサマに迷惑かけるだけかけやがって、飽きたから逃げるたぁ相変わらずカスですね」
リベラと呼ばれたその人は、頑として花坂さんの頭を離さない。それどころか先ほどよりも力が強くなっているようで、花坂さんと地面の距離がだんだんと縮まっていく。
「イケー、もっとやれー!」
「良いぞ! そのチョーシだゼ!」
いきなり現れた第三者に言葉を失っていた俺とは対照的に、アイスやノワが野次を投げる。
「あっ、いた! おい花坂テメエ、よくもやってくれたなあッ!」
混沌としたこちらの展開などお構い無しに、ツカツカと歩いてくる凛としたよく通る声。
「先生!?」
もう大丈夫なんですか? そう尋ねようにも、先生の口から矢継ぎ早に言葉が紡がれるので、俺は開いた口を静かに閉じた。
「アタシをターゲットにするたぁ大した度胸じゃねぇの。な〜んかワケアリな生徒だとは思っていたが、まさかウワサの悪魔だったとはな! モチロン、お前の存在は魔領域元首に報告ぅ…って、」
迷うことなく花坂さんの元へ一直線!であった先生の路線は、8歩で途絶えた。
「……リベラ?」
はくりと喉を震わせる。こげ茶色をした二つの瞳が炎のように揺らめいて、深いエメラルドを反射した。
「あ…あ、あのっ、わあた、私、ぃ今までっ、ごめっ………」
「え」
耐えきれなくなって視線を下へずらす先生と、ピタリと停止した二人の動き。9月上旬、夏休み明け初日に部活動をしている生徒たちの笑い声が一層大きく聞こえる。そんな談笑を制するように、数倍大きな声が沈黙を破った。男性の声だった。
「アッ、あ、あ、レッ、れ、れ、レ、レオッ?! な、なッ、なんっ、で、ドォして、ここにィ…っ!?」
メイド服の女性…否、男性は、ところどころ声を裏返してそう叫ぶと、花坂さんの頭を押さえていた手を引っ込めた。
端正な顔立ちばかりに目がいっていたが、改めてよく見ると、半袖・膝丈スカートのメイド服から伸びた腕や足は程よい筋肉がついており、顔やその装いとのアンバランスさを際立たせていた。
「あ…えっ…と、その…な、なんかゴメン…な」
「やめろ! おい、憐れむなッ! これはコイツが、勝手に俺に着せてるだけでその…俺の趣味じゃ、ない! 断じて!」
「あら? じゃあリベラ、ひょっとしてコレが例の初恋の…」
「ヴァカっ! テメエは黙っていやがれッ! …ください」
花坂さんの口に『ペンキ塗りたて』の看板を突っ込んで栓をしながら、今にも顔から火が噴き出そうになっているリベラさんに、かつて同じ立場であった俺はそっと同情した。
黒歴史…それは、簡単に生まれてしまい、完全に消すことはできない、扱いの難しいもの。人の数ほど黒歴史は存在していて、これからも簡単に増えていく。黒歴史がないと言い張る人間も存在するというが、真偽は俺にはわからない。今日という日に、黒歴史がいくつ誕生したことか。
悲しき現実を目の当たりにした俺は、物置に置かれた哀愁漂うぷりぷり花柄ワンピースを持ち上げると、カブトムシを空へと放った…。