9 友だちができた、らしい。
「前田さんは僕のことをどう思っているのかは仕方がないけれどいやだけど置いておくとして、僕が前田さんの事をたくさん考えているのは分かる?」
「う、うん」
「……あやしいなぁ」
河口くんは腕を組んでため息をついた。
でも無理もなくない? だって私の中で河口くんは学校の有名人扱いで、元々は勝手にピアノのライバルにしていて、この四月からは伴奏ピアニストの座を狙って競っていあっている本物のライバルだ。それ以外の何者でもない。
「はぁ……分かった。百歩ゆずって彼女の件は封印する。ピアノで攻めるよ……自分のピアノ、良くしたいと思う?」
「思うっ!」
当たり前だ! 良くしたいと思わないピアニストなんていないよっ
質問の前のつぶやきにドキドキしないかといったらうそになるけれど……いやいやっ、それよりもピアノっ!!
「じゃあ、今日は朝練もしないって約束して。せっかく昨日マッサージをして柔らかくしてあるんだ。また今までの弾き方をしたら元に戻ってしまう」
「ええぇぇっ」
「前田さんに今必要なのは柔らかい弾き方なんだよ。習得したいと思わないの?」
「したいに決まってるっ!!」
「じゃあダマされたと思って僕の言う通りにして」
「えぇー……」
ライバルなのに? ライバルの塩を受け止めろって言うの?!
「前田さんにとって僕は競う相手かもしれないけれど、僕にとっては……」
「僕にとっては?」
「……いい。今言っても信じないから」
河口くんはなぜかふいっと横を向いて大きなため息を吐くと、長い脚で私との距離を詰めると、ぱしんと音がなる勢いでわたしの右手を取った。
「いくよ、遅刻する」
「ちょっ……手っ」
「ちゃんとみんなが居る道路になったら外す。それまではいいでしょ」
「いや、あの」
「僕の技を伝授するんだからそれぐらいの報酬はもらってもいいと思う。前田さん、習得したいっていったから拒否権はなし。いくよ」
だだだだと早口で言われてあっけに取られている間に歩き出したので、慌ててついていく。
河口くんはざっざっと大股で歩くので私も早歩きで必死についていく。前と後ろになっていて、私からは河口くんの顔は見えない。
なんとなく怒ってそうなので、これ以上は私も何も言わないことにした。
通学路とは並行して伸びていた脇道が右へカーブしている所の前で、ふいに手が離れる。
「一緒に居る所見られるの、いやそうだから先に行く。でも放課後の約束は忘れないで」
「う、うん。スタインウェイの部屋にいくよ」
「じゃあね」
河口くんは私の方を一切見ないでそんな風にいうと、一人になったらさらに足早になって通学路の方へ行ってしまった。
私はというと、なんとなく心の整理ができなくて足が踏み出せなかった。
河口くんと私は……ある、一定の距離の、関係なんだと思うけど、私は……その距離感がつかめないよ。
河口くんが、たくさん何かを我慢してくれているのは分かるけれど、だからって私はどうにもできない。
私の中で河口くんは、ライバルだ。
そう思った瞬間、彼の吐いたため息が脳内にフィールドバックされた。横を向いた顔はくやしそうにゆがんでいて。
私の心はつきんと音を立てた。
「だって、分かんないよ。私は河口くんのこと、何もしらないもの……」
私は自分自身の心臓に向かって文句を言った。つきんと鳴るなよ、と私も怒った。訳がわからなくて怒っているのは、私も同じなんだって。
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ファィオー、と可愛らしいかけ声がかかっている。グラウンドでは体育の授業が始まっていた。
私は綺麗に結んでくれたハーフトップのゴムはそのままに、その下に垂れていた髪をもう一つのゴムで縛ってキャップの後ろから垂らして走る。
今日は体力測定も兼ねた陸上競技。短距離走、長距離走、投てきの三種目を今日の時間はやるみたいだ。
軽くジョギングをしてから、三組に分かれてそれぞれ回っていく。
私は先に投てきをするグループで、名簿番号順だ。後ろの方だから、投てきのサークルの少し離れた場所で座ってまっている。すると、ある一人の子が親しげに話しかけてきた。
「前田さま、私、みてしまいましたわっ。あ、いけない、小声で話さなくては」
「は、はい?」
「申しおくれましたわ、私、佐々木凛といいます。今年から一緒のクラスですわ」
「あ、ごめんなさい、私まだクラスの子のお名前、しっかりと覚えていなくて」
りんちゃんね、凛ちゃん。りんりんと私の脳内でくりかえし名前を転がす。
実は名前をおぼえるのが大の苦手。高一の時も先生の名前と学級委員の子の名前をおぼえるのでいっぱいいっぱい。
それよりもピアノを弾かなきゃ、ってなっていて、そんな私をクラスのみんなは遠目からみていた感じだった。
いや、悪い雰囲気じゃなかったよ? なんとなく、遠慮してる感じ、かな。
「もちろん、もちろんっ ただならぬ想いを胸にピアノに向かっていらっしゃる前田さまですもの、私たちの名前など、本当に最後の最後にもしよろしければ覚えて頂けたら……鼻血ものですわっ」
きゅるんと、大きな目をぱちぱちさせてにこやかに笑った凛ちゃんは、最後になんだかお嬢さまらしくない発言をした。
「ええっと、凛ちゃん、大丈夫、覚え……」
「きゃああぁ、りんちゃんだなんてっ!!」
私が彼女の名前を言ったら小さな口からびっくりするぐらい大きな悲鳴が出た。しかも次の瞬間、小さい体をくねくねさせて身もだえている。そんな凛ちゃんに、少し引き気味の私。ど、どした?
「ま、前田さま、前田さまはお分かりになっていないかと思いますが、その、前田さまはある嗜好の方々にとっては女神のような神々しさでっ。颯爽とした普段のお姿、カモシカのようなしなやかな御御足からくりだされる体育での走り姿とかヨダレもの……げふんげふん……失礼! 戻りますわ! そしてその細い指先からくりだされる美しさピアノの旋律……とにかく憧れの存在なのですっ、そんな方から凛ちゃんっだなんて……! 舞い上がりすぎてしにそう」
くらくらと小ぶりの手をキャップのツバに当ててヨロレイヒとなっている凛ちゃん、かわいい。私は思わずぷぷっと吹き出した。
「凛ちゃん、面白いね。私ピアノばっかりでなかなかお友だちいなかったから、女神さまじゃなくてお友だちになってくれないかな?」
凛ちゃんに笑いかけながらそう言うと、凛ちゃんは私より確実にサイズがありそうな胸の前で両手を握って、はうっ! のけぞりしばらく小刻みに震えたあと、も、もちろんですわっ! と体を元に戻して目をうるうるさせ頷いた。
う、うん、そろそろそのノリはそこら辺でね、ほら、体育の先生、こちら見てるからね? 凛ちゃんが何をみたのか気になるけれど、投てきの順番も回ってきたし、お昼休みにお話ししよう? という事にして授業に集中した。
でも、短距離走も長距離走も私がゴールするときゃーと黄色い声が上がったので、凛ちゃんの女神さまってワードがよぎってぞわっとした。凛ちゃんもみんなと一緒になってきゃーって言ってる。いや、ね。あの、そんなきゃーじゃなくていいし。
一年生の時どうだったっけ……こんな騒がれかた、してなかったと思うけど……
私は凛ちゃんに教えてもらおう、と心に決めて更衣室に向かった。




