8 河口くんが髪をゆってくれるらしい。
朝から何かをげっそりと取られて、学校の支度をしているとお母さんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり……」
「なに、元気ないね、眠れなかった?」
お母さんは重そうな荷物をとす、とテーブルの椅子に置くと、すぐに私の顔を触って両目の下をベーと伸ばしたり、口あけてって言って喉の赤みがないか見る。
「風邪っぽくはないみたいだけど。……あんまり無理しないでよ? 早く寝てね」
「うん、大丈夫」
本当は大丈夫じゃないけれど、大丈夫という。お母さんの方がクマがひどい。今日も大変だったんだろうな。私は早く出て、お母さんはゆっくりできるようにしなきゃ。
ばたばたと通学バックを肩にかけると、行ってきます。と声をかけてドアを開ける。いってらっしゃい、と声だけが追ってきて頷いて鍵をかけた。
とぼとぼと駅まで歩く。
家から最寄りの駅も近いし、電車に乗ってる時間も十五分ぐらいだし、駅から学校までは十分ぐらいだからほんとは毎日電車でもいいんだけど、私はいつもは自転車で行ってる。自転車の方が速いからだ。
でも元気がないときはいつも電車。この街は海も山も近くて街の道路は起伏がたくさん。元気なときじゃないと坂なんて登れないもの。
(電車代がかかるから背徳感ばしばしなんだよね、楽な方に負けた、みたいな。でもあんな夢みたあとじゃ坂を走る元気ないよ)
だってさ、人間、動物には甘いって聞くけれど、甘すぎでしょう? あんな、かわいいね、とか、ちゅっとか、優しい声で……
「おはよ、前田さん」
「ぎぃやああぁぁ!!」
「わぁ……すごい声」
片耳だけ手を当てて少しだけ眉をしかめた河口くん。わぁ、耳ごめん! でもなんでいるのっ?! ってここもう学校の最寄り駅だものね、そうだった河口くん、電車通学だった……
「えっと、声かけちゃいけなかった?」
「いけなかったっ!」
「えー……ひどいなぁ」
しゅん、と肩を落としてしまったので、私はあわてて、ごめんっ! そうじゃなくて、と言うんだけどその後が続かない。
(河口くんの甘々ボイスが脳内再生しちゃうから聞きたくないっていいたいけれど、そんな事いったらヘンタイのきわみっ……ライバルにそんな風には思われたくないよ……)
「そう? そうならいいけど。今日、あわてて出てきた? ハーフアップじゃないね」
「あ、え?」
私はあわてて自分の髪の毛をさわって顔面蒼白になる。うちの高校はお嬢様学校。ごきげんようが日常的に使われていて、なぜか校則で肩より下に髪の毛が伸びてきたら、ハーフアップにする、という規則があった。
しまった、どこかで結わなきゃ、と目をうろうろさせると、駅のベンチに戻る? と言われた。いやいやいや、何言っちゃってんの、公開処刑ですか? 駅のベンチはバスのロータリーにそって配置されていてその後ろを我が桐山高校の生徒達がぞろぞろ通るじゃないですか!
「はいはい、見られたくないわけね。じゃあこっちにきて」
河口くんはまたしても私が何か言う前に察知して、私の手をとり、学校へと向かう通学路から一本、道にそれて住宅街にはいった。
「しばらくしたら小さな公園があるから、そこでしばってあげるよ」
「へ? 河口くんが?」
「うん、結構そういうの得意」
少し歩くと本当に小さな公園が見えてきた。
周りにすべり台とかブランコとか遊具があって、真ん中は走り回れるようにグラウンドのようになってる。入り口近くの木陰に背もたれのないベンチがあって、河口くんはそこに私を座らせた。
「ブラシ、もってる?」
「あ、うん。一応」
私は通学バックから折りたたみのブラシを取り出した。 今日は体育があるからもってたけど、普段は持ってない。女子力が問われるところだった……冷や汗がでるよ……
「一応ってなに、普段はもってないってこと?」
笑いながら河口くんは私の髪にブラシをかけていく。
「う……体育の時以外は持ってない」
「ああ、いつもは髪が乱れることがないからってことね。なんか前田さんらしい」
「なにそれ、どういう意味?」
「合理的ってこと」
しゃべりながらも器用に耳の上でしばる髪と垂らす髪を分けて、またすこしきつめにブラシがかかる。その手順や手際の良さから河口くんは誰かの髪を触りなれているんだと思った。
「髪、しばるの、上手だね」
「妹のをたまにやってるからね。でもまだ仕上げてないけど」
「うん、でも分かるよ。昔、お母さんにやってもらった時みたいだから」
「お母さんポジ……」
「なに?」
「なんでもない」
少しきつめにしばっていくのは河口くんのしばり方なんだろうな。でもほつれなさそう。最後に垂らした方の髪にもブラッシングをしてくれて、丁寧でびっくりした。自分じゃそんなところまでやらないよ。
「はい、おしまい」
「ありがとう」
鏡はないけれど、きちんとハーフアップになっているのが分かる。
「河口くん、美容師さんになれそうだね」
「うん、それもありだな、と思ってる」
「え……冗談だよ」
「あ、そうなの?」
「うん」
(だってピアニストになるんじゃないの? 賞総ナメだし)
私は高校からの河口くんしか知らないけれど、高一の時から有名なコンペティションに出て優秀な賞を取り、学校の掲示版に張り出されている。
私も同じコンペに出場していて、予選は通るのだけど本選は通らなくて頭打ち。そんな中、おめでとうの掲示を見て名前を覚えたんだ。同じ高校、同い年。ライバルとして不足なし。
そうだ、練習しにいかなきゃ。
私は通学バックを肩にかけてさっと立ち上がった。
「髪、ありがとうね。遅くなっちゃった、急ごう? 練習する時間がなくなっちゃう」
走り出しそうなぐらいの勢いで公園の入り口に向かおうとしたら、河口くんはいつもの声でまた失礼な事を言った。
「うーん、いいけど、今練習しても無駄というか」
「なに、無駄って……」
「ほら、昨日の奏法を分かってからじゃないとさ。結局のところ腕を痛めておしまいになるよ」
おしまい?! 怖いこと言わないでよっ、と振り返ったら、思いのほか真剣な目とぶち当たった。
木陰の影が私たちの間をさらさらと揺れている。まばらな薄墨の間から見える瞳がじっと私を捉えていた。
いつもとは違う雰囲気に、私はこくりと喉をならした。