7 またレイ(猫)になった、らしい。
ひとまず、学校から家まで河口くんは送ってくれたんだけど、家まで来たのは初めてだったみたい。河口くんはここ、といった私の住んでいるアパートをみて目をぱちぱちと瞬かせた。
カンカンと音がなる錆びた鉄むき出し階段を上がって二〇三号室が私の家。木造ではないけれど、築三十年以上は経ってるよね、っていう昭和の匂いがぷんぷんの我が家ですがなにか?
「この部屋、ピアノ弾いていいの?」
「壁うすって言いたいんでしょ……サイレンサー付きのピアノがあるわよ」
「だからか……」
河口くんの声がくぐもった。口元に手を当てて腕を組み、すごく真剣に何か考えている風だ。でも申し訳ないのだけどそろそろ帰ってほしい。
お茶? よく知りもしない男子を部屋に上げるほど世間知らずじゃないよ。……自称彼氏らしいけど。
「送ってくれてありがとう。今後の身の振り方を考えたいから今日はこれで」
「うん、わかった。明日は自転車? それとも電車?」
「え? あ、うーん……体調によると思う。どっちにするかわからない」
「ん、わかった。じゃあ朝会えなかったら放課後ね」
「え、あ、え、う」
「付き合ってる、っていうのは百歩譲っていまは置いておいていいけれど、ピアノはどうにかしなきゃいけないと思う。それは、分かるよね?」
私ははっとして河口くんを見た。オーディションまであと二週間。キラキラのハノンを習得して、さらにオーディションにも勝って、目の前のライバルを打ち負かさなければならないっ。そうだ私には時間がない。
「分かった、放課後、あの部屋で。どちらか先についた方がスタインウェイの部屋を取る」
「了解。じゃあまた明日」
河口くんはそういうと、ひらひらと力の入っていない手のひらを振ってカン、カン、カン、とおそらく一段飛ばしぐらいの足音を立てて階段を降りていった。
私は肩にかけた通学バッグのポケットから鍵を取り出し部屋に入ると、靴のままずるずると小さな玄関に座り込んでしまった。
「なにがなんだか……一昨日なにがあったのよ……」
自分はいつの間にか倒れてて、起きたら河口くんの彼女? 今朝みた夢はフラグだったったこと? 意味がわからない。
はぁ、と盛大なため息をついていると、お腹がぐるぐるぐる、とこちらも盛大に鳴った。
「……なんか食べよ。腹がへってはどっかにいけないって誰かが言ってたしね」
私はよれよれと身体をおこすとこげ茶色のローファーを脱ぎ脇に寄せ、六畳二間のリビングにあるアップライトのピアノの脇にカバンを置くとルームウエアに着替えてお母さんが買い置きしておいてくれたエクレアを取りに冷蔵庫へ向かった。
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その日、河口くんには内緒で家のピアノを触ってみたけれど、マッサージで緩んだ腕だとやっぱり感覚が違って思った音にならなかったからやめた。
お母さんは今日は夜勤でいないし、作り置いてくれてたサラダと肉じゃがの鍋を温めて手早く夜ご飯にすると、お風呂に入ってさっさと寝てしまうことにする。
サイレンサー付きとはいえ、がこがことペダルを踏む音とかが響くみたいで、八時以降は練習しないようにって言われてる。私は知らなかったんだけど、前にクレームが入ったみたい。
だから、私の練習時間は学校のピアノを触る時間でほぼ構成されているんだ。
基礎練してレッスンにもっていく曲を弾いて合唱コンの伴奏譜弾いてってやってたらあっという間に下校の時間になる。
(今日、河口くんが来たから何にも出来なかった。明日は挽回しないと)
私は早起きする事を固く誓って、お布団の中にもぐった。最近すこし肌寒い時もあったけれど、今日は快適な布団日和。お風呂で温まったからだはすぐに眠気がやってきてすぅと夢の中へ入っていた。
「……イ、レイ。どうしたの?」
〝レイ〟と呼ばれた私はぴくぴくっと耳を動かすと、にゃーん、と応えて出窓のスペースからととん、と床に降りた。
ベッドに座っているご主人さまの所にいくと、飛び上がって脇腹に頭をぐりぐりとすり寄せる。
「くすぐったいよ、レイ。こっちにおいで」
ご主人さまはぽんぽん、とあぐらをかいた腿の所を軽く叩いたので、私は素直に膝の中に入り丸くなった。
「まいったなぁ……」
ご主人さまがため息と共に重いつぶやきを吐いたので、〝レイ〟は首を上げる。
ご主人はそんな私の顎の下をくりくりと撫でた。
私はごろごろと嬉しそうに喉を鳴らす。
(ん……? 私じゃなくてレイが、でしょ?)
眠気が晴れると共に混濁した意識がしだいにはっきりしてきた。
(あれ? また猫になってる……え、まさか河口くんの所にきてるの? ちょっとまってちょっとまって、前回の続き?)
「レイ、前田さん、頭打ったあとから僕と付き合ってること覚えてないんだってさ。もっかいやり直しだよ、きつい……」
(ご、ごめん、でも覚えてないんだもん、仕方なくない?)
私がちょっと引き気味に心の中で謝ってるのに、レイはごろごろと喉を鳴らす。
相変わらず私の意識とは別みたい。目の前にある河口くんの指を前足でたし、とつかむとかぷりと甘噛みしてる。わわわ、噛んじゃだめだって!
よしよし、と河口くんは笑いながらそのまま噛ませている。
(わぁっ! ピアニストの大事な指、かませないでよ! レイも噛まないでっ!)
私は慌てて口を離そうとするのだが、自分の意思ではやっぱり何も動かせないみたい。
(どういう状態なんだろ、夢にしてはリアルで、どうも、今日の事いってるみたいだし……リアルと同時進行の夢ってあるの? それとも……)
風の噂で願望が夢になって現れるってきいたことがある。
(いや、ないないない、だって河口くんはライバルでそれ以上でもそれ以下でもな……)
わたしが悶々と考えているとレイは同じ体勢が飽きてきたのか、河口くんの膝の上で前足を伸ばしてのびー、をすると、身体をぐんっと伸ばした。
「レイ?」
すこしかがんできた河口くんにレイが顔を伸ばして河口くんの顎のところをすりすりする。河口くんはくすぐったそうにくぐもった笑い声を出すと、ちゅっと私の首の後ろにキスをしてきて、レイ、かわいいね、なんて甘い声が投下された。
私はあまりの衝撃に身体が固まる。
その間にまたしても身体を持ち上げられて、レイは嬉しそうにごろごろしてるし、うわうわうわっっ河口くん、近いっ近いちかいっ、まって、セカンドキスがまたうばわっっっ
「すとおぉぉっぷぅぅっっ……っ!」
私は叫びながらがばりと布団をけり上げて起きると、ちゅん、ちゅん、とスズメの鳴いていた。
私は震える手で首すじをばちんと音を立ててさわる。何にもないよ? なんにもないんだけど、感触が……
「……っあっっぐぅぅぅ……」
叫ぶすんでの所で掛け布団に顔を突っ込んでつっぷした。向こう三軒、聞こえる、クレーム、それはダメ、うううう……
もう、いやぁっ!!
心の中で盛大に叫んだのはゆるしてほしいよ……