5 毛が逆立っているらしい。
「そうだなー、そんなに毛が逆立ってるようじゃ馬の耳になんとかだし、うーん」
河口くんはどうしようかな、なんて言いながらこちらに来ると、ちょっとピアノ貸してね、なんて言ってするっと座った。
まってよ、と言う間も無くハノンが奏でられていく。
私は、はっとした。
私がさっき弾いた曲と同じなのに、なんでこんなに……
河口くんの指からつむぎだされる音は柔らかく軽やかで、指の練習の為の曲なのに、きらきらと輝いている。
右手と左手で高い音、低い音に分かれて全く同じ音を弾いているのに、なぜか、心地よい響きが聴こえてくる。ただの音符の羅列なのに、ショパンの音楽を聴いているよう。
「ちがい、分かる?」
私は声をかけられても、ショックで返事が出来なかった。
上手いとか下手とかそんなんじゃなくて。
あきらかに、違う。
河口くんは私の表情をみて、真剣な目をほころばせて頷いた。
「よかった。今回は分かる耳を持っていたみたいで」
「なんで、こんなに違うの?」
「うん、それを伝えたかったんだ」
相変わらず河口くんと私は会話がかみ合わない。でも私はイライラしなかった。
ざわり、と身体が身震いするような、心なのか脳なのか分からないけれど、私の中の何かが震えた。
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「前田さんはさ、ハノン使ってどんな練習をしてるの?」
「……」
私は、こくりと喉をならしてそろりと唇をなめた。明らかに違う弾き方をしたこの人に質問の答えを話すのって、すっごい勇気がいる。
だって、全然違うやり方で弾いてたはずだもの。間違った弾き方で弾いてた訳じゃないけれど、たぶん、何答えても否定される。
(うう、でも答えるなんて一択しかないよ、なにも考えずにウォーミングアップの為だけに弾いてたんだもん)
でも私は正直に言うしかない。そうじゃないと、河口くんが弾いたいまの奏法を教えてもらえないもの!
「指の練習だけに使ってる」
「うん、まぁそんな弾き方だったね」
河口くんは口元だけ微笑んで、またさらりと弾き始めた。今度は、全ての音がそろっていて速く、どちらかというとロボットが弾いているみたいに正確な音だった。
「ちなみに前田さんが弾くともうちょっと激しい」
さらに途中からまた違った音がなる。
登って下がって、っていう音の形を一音ずつ変えながら繰り返していくのだけど、私の奏法、といって弾いている音は、まるで渦潮の中にいるみたいにうねってる! なんていったらいいの?! 演歌みたいにコブシが効いてる……っ!
「やだっ、私そんな津軽海峡みたいな音なの?!」
「これはこれでまた使い道があるな、とは思うけどね。基本の練習でやるのはちょっと厳しい。あと……」
河口くんは突然弾くのをやめて、ピアノ椅子の隣にいる私の右手をとった。
ちょっ、なに、セクハ……痛っ!
「酷使しすぎてる。腱鞘炎になっちゃうよ」
河口くんは袖口のボタンをパチパチと外すとぐっとまくりあげた。私の手のひらを両手で伸ばすように広げると、親指の付け根をピンポイントで押してくる。
「なにこれ、ツボ? 痛いキモ……いたたたた、そこ痛い!」
手のあとは肘の内側をぎゅっと押されて私は身体をよじった。
「指の練習にここ押して痛いほど力いれてちゃ、音大行く前に壊れる。腕だけで弾くなって言われてないの?」
「うっ……いつも言われてます……」
私はいつも曲にのめり込んで弾いているみたいで、先生からもっと冷静になりなさいとよく言われる。それとセットで言われるのが、腕だけで弾くな、全身を使って弾きなさいって言われるけど、正直音楽に酔って弾いてるから分からない。
「一昨日もさ、本当はちゃんとこういう話をしようと思ってたんだ。でも前田さん怒っちゃって話ができなかったから……僕も話しかけ方間違えてたし。ごめんね」
河口くんは私の腕をゆっくりとマッサージしながら、ぺこりと頭を下げた。
「あ、いや、私も一昨日は倒れてたみたいであんまり覚えてないから、謝られてもよく分からないし」
「うん、でも倒れたの、僕が原因だから」
「へぇ、そうなんだ。……って、えぇ?!」
それもあって今日は僕につきあって貰いたくて、と河口くんは右手のマッサージを左手に替えて罪ほろぼしとばかりに指に力を込めてきた。
「え、まって、どういう……あたたたたっ!! 痛い痛い!! ギブギブッ!!」
「うん、さすが左手。凝ってるね」
「なにがさすがなのか分からないっ」
「こっちの方が力が入ってるってこと」
なんでそんな事わかるの? それよりもなによりも、私が倒れた原因が河口くんって、一昨日なにがあった?! なんか、その日一日の記憶がほとんどないんですけど! てか、いたいっ、気持ちいいとか全然なくて痛いだけぇぇぇ、もういいよ、助けて!!