4 猫を被りそこねたらしい。
とりあえず目が合ったのに入ってこない。
(入ってきなさいよ、私がドア開けなきゃいけないの?!)
弾いているハノンっていう指を動かす基礎練習の一番が後半に入り、最高音からの下降系が始まったのでひとまず最後まで弾いてしまってから席を立った。
大股でドアまでいくと、ガチャリと半分だけ開ける。
「何?」
猫を被りそこねてつっけんどんになっているのは許してほしいよ。練習の邪魔をされるのは誰だっていやなんだもん。
「練習中ごめん、ちょっと忘れ物したかもと思って、探しに中に入ってもいい?」
「そうなの、どうぞ」
朝、この部屋使ってたものね。忘れ物ならしかたない。
私はドアを広げて招き入れた。
ありがとう、と笑った河口くんはピアノがある方とは反対の壁にある丸椅子に荷物を置くと、ごそごそと窓際やらピアノの近くを探し出した。
「あれ……朝、ここで聴いたのになぁ……」
河口くんはピアノの下まで潜って探している。
「……何を探してるの?」
探し物が見つからないと出てってもらえない雰囲気。私の練習時間がなくなるっ! それなら一緒に探した方がましだ。
「貝殻がないんだ」
「はい?」
「貝殻だよ、しらない? 海の音が聴けるやつ」
「はぁ?」
「前田さんは、まぁ聴いたことないだろうなぁ。ピアノ以外興味なさそうだもんね」
「悪かったわね、ピアノ命で。ていうか、河口くんには関係ないでしょ」
「あ、そんな気分なの? ふぅん……わかった」
失礼な奴、早く出てって!
「ねぇ、ぱっと見てないんだよね? 私も帰るときに探しておくから、そろそろ……」
「うーん、でも本当は前田さんに聴かせたかったんだ」
「はい? なにを?」
「だから貝殻。海の音」
(なに、なんなの、何を言ってるのかさっぱり分からない)
私が訳が分からない、といった声をしていたんだろう。河口くんは分かんないよねー、とピアノの下から笑いを含んだ口ぶりで言った。
てか、私を知ったように言うのやめて!
「貝殻の音なんて別に聴きたくないよ! 練習時間がなくなるから出てって!」
私はピアノのへりを掴んで下を覗き込んで、失礼な奴にドアを指差して若干叫びながら言うと、しゃがんでた河口くんはこちらを見て、そうだなぁ、と首を傾けて呟いた。
ねぇ、なんで? なんで出てってくれないの? 私の言い方が悪いの?! 誰か教えてっ
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「前田さん、音大いくんだってね。カニ先が言ってた」
よっこらしょっとおじいちゃんみたいなかけ声をしながら河口くんはピアノの下から出てくる。
(カニ先生、個人情報ぉぉっっ、なんでバラすっ⁈)
ちなみにカニ先とは蟹田先生のこと。進路指導担当だ。私は驚いて口を開こうとするのを、河口くんは、あ、カニ先を責めないでね、と先に牽制した。
「カニ先、僕の進路のことで前田さんを引き合いに出しただけだから。どこ狙ってるとか具体的には聞いてないし、大丈夫」
「大丈夫じゃないよっ 自分の進路バラされて冷静な人なんかいないよっ」
「どうどう、落ち着いて。猫がはがれてるよ」
言われてはっと口元を腕で塞ぐ。
なに、この人、私がお嬢様風を装ってるの知ってるの? オーディション候補同士になるまで挨拶もした事なかったのに。
河口くんはそんな私の様子を可笑しそうに見ると、塞がれた黒い反響板にひじをついて面白そうにこちらを眺めて言った。
「前田さん、自分が有名人なの知らないの?」
「いや、河口くんの方が有名人だし」
「そんな事ないし。あ、猫かぶらない認定になったね。嬉しいな」
「ねぇ、ちょっとさっきから会話がかみ合ってないんだけど! なんなの君はっ 私に何が言いたいわけ?」
「うん、よく言われる」
「だからぁ! 時間っ!! 時間がなくなっちゃう! 私にピアノの練習させてよっ! 君も練習しなきゃいけないでしょう?!」
このパズルがいっこ外れたような解答書いてるのに全部一個ずつずれてるような会話してる場合じゃないんだって! もう三十分もロスしてる、今日の練習メニューがこなせなくなる!
私の必死な訴えを河口くんはうーん、とのんきに首を傾けた。
「あのね、前田さん」
「なによっ」
「今のままじゃ僕にオーディションに勝つどころか、音大も行けないかもしれないよ?」
「はぁぁ⁈」
叫んでから絶句してしまったピアノ室に、さわさわと柔らかな葉音が聞こえた。
あ、鳥さんが来てるね、あんまり聴いたことない声だなぁ、なんて、そんなのんきな声出さないで。
河口景がこんなにぶっとんでる奴なんて思わなかった。しかも、なんでオーディションはおろか受験落ちるフラグ……勝手にたてんなぁぁーーー!!!!
ゆらりと陽炎を出した私を河口景はあはは、怒ってるね、と笑って見ていた。
意味が、分からないっ!!