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2 頭を打ったらしい。

 



「心臓が止まるかと思ったわよ」

「ご、ごめん、なさい」


 リビングから部屋に飛び込んできた母に落ちつきなさいとなだめられて、渡されたペットボトルの水を一口のみ、やっと人心地ついた。

 ピピッと十秒程度で体温が計れる超便利な体温計を脇から外して母に渡すと、母は頷いて枕元のお盆に置く。


「熱はないわね、脈は早いけれど叫んで飛び起きたんなら仕方ない」


 母・美緒(みお)は自分の腕時計を見ながら私の右手首をおさえながら言った。


「ごめん、仕事場に電話がいったんだね、全然記憶ない」

「いいのよ、ちょうど午前の診察で帰る所だったから。早帰りさせてもらえてラッキーよ。今日の午後は元々休み」


 そう言いながらも、結い上げた髪と紺色のカーディガンのままの母。きっと職場の病院からすっ飛んできたのだろう。


「学校の保健室からも自分で車まで歩けたし、私とも生返事だけど反応があったからここで寝かせてたんだけど……大丈夫?」


 私の顔を見ながら探るような母に、あはは、ごめん、思い出した、そうだったね、と全く記憶がないのを笑って誤魔化した。


「でも、なんか記憶があいまい。頭ぶつけたの?」

「ええ、練習室で倒れていたみたいよ? 後頭部にたんこぶがあるからどこかにぶつけたんだろうって保健の先生は言っていたけれど……」

「うーん……?」


 倒れた前後の記憶が全く無い。それよりも思い出そうとして脳裏に浮かぶのはさっきのリアルすぎる夢の残像だ。


「うわうわうわ消えてっ!!」

「ねぇ、本当に大丈夫? 今からでも病院に行こっか……」


 心配そうに顔を覗き込んできた母に、慌てて顔の前で手を左右に振る。


「違う、夢見が悪くて! それがフラッシュバックしただけっ! 大丈夫大丈夫、水飲むね、あと一人で大丈夫だから」

「うーん」

「ほら、晩御飯の買い物いく時間でしょ。今日、時間あるならクリームシチューがいいな」

「そうね……食欲はあるなら大丈夫かな。

 買い物してすぐに戻ってくるからね? 下にいるから何か異変があったらすぐに呼ぶ事。いい?」

「はいはいはい」

「はいは一回」

「はーい」


 いつもの調子に戻った私を見て母はほっと息をついた。座っていた私を寝かしつけて肩まで羽布団を上げてくれる。


「いい? 気分が悪くなったり吐き気がしたらすぐ電話して。迷わずワンコールはするのよ?」

「はーい」


 最後に念を押して母は部屋を出ていった。

 私は手を振って見送ったその腕を、ぱたりと布団に落とす。


「はぁ……疲れた……なんなの、もう……」


 記憶がないよりもなによりもさっきの夢の方がいやだった。


 何が嬉しくてライバルの顔なんか見たいものか。しかもあんな、あんな……またしても浮かび上がってきた微笑んで目を瞑った奴の顔をぎゃーーーと声なき声で叫びながら黒インクで塗りつぶす。


 奴は、奴と私は、ライバルで極力近寄りたくない間柄なんだから!




 ****




 翌朝、軽く頭痛はするが、学校にいくと言い張って私・前田(まえだ)美玲(みれい)桐山(きりやま)高等部に着いた。

 普段は自転車通学だけど、大事をとって電車にする。いつもより一時間早く家を出なきゃいけないけれど、家で休んでいるよりか学校のピアノに触っていたほうがましだ。


「前田さま、大丈夫ですか?」

「前田さま、お倒れになったとかっ」


 私が昇降口に入ると近くにいたお嬢様方がわっと囲んできた。私はええ、大丈夫よ、努めて落ち着いた声を出して微笑みながら盛大な猫をかぶる。


「前田さまがいらっしゃらなかったので昨日の学園は明かりが消えたような寂しさでしたわ」

「放課後の美しいピアノの旋律が途絶えてしまいましたものね、私たちも寂しゅうございました」

「それは申し訳なかったわ、今日からまた再開しますのでご安心なさって」


 歯の浮くようなお嬢様言葉を駆使して素早くローファーから内履きに変えるとさりげなくスピードを上げて階段を登り始める。


「あ、前田さまっ」

「前田さま、待ってっ」

「可愛らしいお嬢様方、お御足を痛めてはなりませんわ。ゆっくり気をつけて上がっていらして」


 二倍速で踊り場まで上がると、手すりを持ちながらふわり黒髪をなびかせて振り返り、まだ階段下にいる良家の子女達に微笑んで、ではお先に、と会釈すると三倍速にギアを切り替えて階段を上がる。


 腕時計を見ると七時二十分。始業の八時まであと四十分だった。私の目的とするピアノが置いてある練習室はこの校舎の四階にある。


(ううう、片付け、五分前着席を考えると練習時間があと三十分しかないっ! ダッシュしたいのにぃ! 階段飛ばしも出来ない桐山の校風がにくいっ)


 そんな事を思いながら静かに足早に階段を上がっていると、後ろから、スタン、スタン、と飛び石を飛んでいるような軽やかな足音が聞こえてきた。


(この時間に来てるの? 知らなかった……!)


 ギアを四速に上げる。なんとしても先に四階まで上がりたい。しかしいくら歩くスピードを上げても階段飛ばしの速さには到底かなわなかった。


 二階と三階の踊り場の所でスタン、が追いついて、おはよ、と声をかけてきた。


(おはよ、じゃないっ あんたの顔は見たくないっ! 今日は特に見たくないっっ!)


 しかしここの学校はおはようと声をかけられたらおはよう、もしくはごきげんようと返さなくてはならない。私はさっきよりもメガ盛りの猫をばさりとかぶった。


「おはよう、河口くん。この時間に来てたのね、知らなかったわ」

「前田さんも珍しいね、いつもならもう少し早いのに」

「え、ええ、今日は電車できたから」

「……昨日倒れたからだよね。その……大丈夫だった?」

「え、ええ。おほほほほ」


(誰がんなこと広めたんじゃあ! こんな世捨て人にまで半日で情報がいってるなんてぇぇ、おかげで話しかけられたじゃないのっ)


 私は正直そんなに人のことを知っている訳じゃない。私の興味はピアノ一択、それ以外のことは当たりさわりなく知っているぐらいだ。

 そんな私でさえ奴の情報をスタンダードに言えてしまうほど、2年1組の河口景(かわぐちけい)は有名である。


 興味のないことは一切やらない天才肌で授業中もほぼ寝ているという噂。


 なぜか先生たちもそれを許していて、ここのほんわかとした思考の持ち主のお嬢様方は、きっと何か特別な物をお持ちなのだわ、とか、ピアノがお上手だから許されているのではなくて? などゆるゆるのほほーんとして気にしない。

 好きな事も学業もどちらもキメると心に誓っている私からするとめっちゃ腹立たしい。


(ただ単にわがままでマイペースなだけじゃないっ)


 と、私の中では世捨て人認定されている。

 その世捨て人はちらっと私を見ると、日本人にしてはやや茶色いくせっ毛の伸びきった前髪の目元を細め、くすりと笑って頷いた。


「元気そうでよかった。じゃあ、今日は僕がスタインウェイ使わせてもらうね」

「うっ……そ、そうね、先に行った人が好きな練習室使えるものね」

「うん、じゃあ」


 河口くんは寝ぐせなのかくせ毛なのかわからない跳ねた髪もそのままに私にうなずくと、スタン、スタン、と先に前を行く。でも三階に着いたところで振り返ったので、私はまた何事かと足を止める。


「前田さん」

「な、なに?」

「普通に階段飛ばしていけばいいのに」

「は、はい?」

「階段飛ばしてたら僕よりも先に四階に着いたのにな、と思っただけ。でもあれか。猫被ってるから重くて難しいか。いいや、ごめん。スルーして。じゃあね」


 そう言ってスタン、スタン、と姿が消えていった。

 私はぽかーんと、そのまま立ちすくむ。


(は……はぁぁん?! お嬢様風を装ってる私が階段飛ばしなんか出来る訳、なかろうがぁぁぁ)


 最大限の罵倒を心の中で叫んでいると、上の方からガチャリというドアの閉まる音と共にピアノが流れ出した。


(やばい! 私も時間がないのにっ!! うあぁぁ十分もロスしたっ 河口景ぃぃ 許すまじっっっ)


 階段飛ばしは出来なかったけれど、流石に走った。

 私の大好きなスタインウェイは取られてしまったので二番目に好きなヤマハのピアノがある練習室に飛び込む。


 がっと蓋を開けて臙脂色の布カバーを取り除くと楽譜を出すのももどかしくておもむろに弾き出した。


海風(うみかぜ)の街から』


 私のオーディション曲。

 校内で行われる合唱コンクールの学年合唱の曲で、その学年の中で一番上手いピアニストがその伴奏を演奏することができる。

 私たちの学年で伴奏ピアニストに立候補したのは、二人。一人はもちろん私と、もう一人はさっき先を越された奴。


 対決するのは、私的世捨て人認定者・河口景と、だ。





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