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12 オーディションの日、らしい。

 



 はっはっと荒い息を吐きながら私はなだらかな上り坂を立ちこぎで走っていく。


 急な坂よりも長くだらだらと続いているこの坂の方がきつい。でも今日は自転車にした。

 そんな気分だったから。



 朝のホームルームの時間より四十分早く着いた私は、まだ誰も来ていない校舎の階段を一つ飛ばして上がっていく。


「はぁ、はぁ、きっつっ……!」


 足をがくがくいわせながらも、四階まで上がると、いつものスタインウェイの部屋にきた。


 どさりと荷物を丸椅子に置くと、ピアノの緩やかにカーブしている板を持ち上げてつっかえ棒を立て、響きが感じられるように全開にする。


 鍵盤の蓋を開け、もどかしくフェルト布を巻いた。早く弾きたい。早くこのスタインウェイで、あの音を。


 私はすぐさま弾こうとして、あっと、鍵盤に置いた手を離した。


 一旦席を離れて、バックの中から昨日の小さなほら貝を耳に当てながらピアノ椅子に戻る。


 昨日と変わりなく、コォ と鳴るほら貝。

 ほら貝に合わせて、私は呼吸をした。

 目をつむれば、夕焼けの海が広がる。


 私はやがてほら貝をピアノの端に置くと、緩やかに呼吸をし、「海風(うみかぜ)の街から」の冒頭を弾き出した。




 ****




 あれ以来、私はピアノに没頭し、寝ても覚めても音楽の中にどっぷりと浸かってしまったので、そんな様子が分かる回りの人たちはあまり話しかけてこなかった。


 あの凛ちゃんでさえも「ピアノモードに入られましたのねっ 素敵ですっ」とだけ言って、昼放課のお弁当を誘うこともなく私の好きにさせてくれてる。


 私は、朝も昼も夜も、授業以外は全ての時間が音楽に支配され、メロディが流れ出してそれを頭の中でなんどもくりかえしていた。


 河口くんは、ぱたりと近くで見かけなくなった。一回だけハノンをキラキラ弾く方法を教えにきてくれたけれど、海の音を理解した私は、キラキラに近い響きが出せていたみたい。


 及第点、かな、と頷くとすぐに練習部屋を出ていった。


 やかてスタインウェイの部屋とは離れているヤマハの部屋からピアノが聞こえていきたから、河口くんも「ピアノモード」に入ったのだろう。


 私は見えないけれど、河口くんのそんな姿にうん、と頷く。


 オーディションまでは、きっと会わない。

 何だかんだいってライバルなんだ。


 それが、嬉しかった。




 オーディションの当日は、放課後の音楽室で行われた。


 北校舎への渡り廊下を歩いていると、後ろからたったったっ、と知っている足音が聞こえた。


 河口くんは私の隣に黙って並んだ。

 私も、ただ前をみて歩いた。


 すでに扉が開いていた音楽室に二人で失礼しますと入っていくと、長机に座って書き物をしていた音楽の鳴瀬(なるせ)先生が立ち上がって、どうぞ、と言った。


 ロマンスグレーと丸眼鏡姿がステキな鳴瀬先生は普段は優しいのだけれど、合唱や演奏をする時の眼光が鋭くてひそかにおそれられている先生だ。


 練習する場面でやっていない人がいると、笑いながらやらないんだったら出ていって構わないですよ、と静かにいうのだ。

 その場の空気を一瞬にしてツンドラ気候に変え、やらなかった生徒をやります、と無意識に言わすブリザードのような先生。


 でも普段廊下で話すとにこにこして親しみやすい。いまも、微笑んで私たちを迎えてくれている。


「さてさて、おそらくきちんと練習してきた君たちでしょうから、先生は今日をとても楽しみにして来ました。どちらから先に弾きますか?」


 私は河口くんと顔を見合せて、どうする? と小さく聞くと、河口くんは、どちらでも、とあっさり言った。

どちらでもって結構こまる……と眉をひそめていると鳴瀬先生がさらりと提案してくれた。


「じゃんけんで勝った方が先か後か選べるのはどうかな?」

「いいですね」

「そうします」


 私と河口くんは頷くと、軽いモーションでじゃんけんをした。私は負け、河口くんの勝ち。


「じゃあ、僕は後にやります」

「はい、分かりました。では前田さん準備して下さい」

「はい」


 私はピアノ譜を長机に置いて、何も載っていない黒光りするピアノの前に座った。


 丘の上の四階だから、少し視線を外すと窓から街が見える。海は背中側だからここからでは見えなかった。でも、海の呼吸はもう体にしみ込んでいる。


 手を膝において、少し間をあけ、やがて鍵盤に手を置き、あの海の満ち引きを思い出しながら弾き始めた。



 最後の音を丁寧に残して終わると、鳴瀬先生と河口くんが拍手をおくってくれた。私はぺこりとお辞儀をして、河口くんの隣の席に座る。


 私が戻ると同時に河口くんがピアノの椅子に座った。彼にとっては椅子が高かったのでもう一度立ち、低くして座りなおす。


 一連の動作に気負うものはなく、河口くんはあくまで自然に鍵盤に手を置いた。

 河口くんはふと、顔を上げる、そして弾きだした。


 あっ、と私は河口くんの音色の柔らかさに気がついた。


 私が響かせる音色に対し、河口くんは包むような音色だった。


 ときおり、大きなフレーズの間に訪れる少しの間。それがけして違和感があるわけではなく、自然に音楽が流れていく。


 一つ一つの音符がマシュマロのように柔らかく、最後まで続いていった。


 私は、長机の下でぎゅぅっと両手を握った。




「おつかれさまでした。二人ともそれぞれに素晴らしい演奏でした。短い時間の中で、よくここまで仕上げてきましたね」


 鳴瀬先生はゆっくりと私と河口くんの顔を見ながら話す。


「まず、講評を言いますね。


 前田さん、とても良い出だしでした。ピアノが鳴っていて、前田さんの海風は、女の子ながら力強く、波を表現した、響いた音楽でした。

 河口くん、合唱のブレスをよく捉えていました。歌いながらよく弾きこみましたね。全体的に柔らかく、まろやかな音色で包んでいました。


 オーディションなのでどちらかを選ばなくてはならないのですが、あまりにハイレベルなので、僕が求めている音、そしてアンサンブルのしやすさを念頭に置いて決めますね。


 前田さんはいわばソリストの弾き方でした。そして河口くんは伴奏ピアニストとしての弾き方でした。よって、今回は合唱のピアノなので、河口くんを選びます。前田さん、自分では納得いっていますか?」

「はい、大丈夫です」

「そうですね、それならば、まだ伸び代があります。今日はおつかれ様でした」

「「ありがとうございました」」


 私と河口くんは鳴瀬先生に二人で礼をし、音楽室を出ていった。


 行き道と同じように肩を並べて歩く。


 北校舎と本校舎の渡り廊下のところで、そっちの練習室行っていい? と聞いてきた。私は、一瞬息をのんだけれど、どうぞ、と普通を装っていった。


 じゃあ、荷物持っていく、と河口くんは足早に四階への階段を走って上がっていった。


 私はゆっくりと重くなっていく足を心で支えながら、なんとかスタインウェイの部屋に戻る。


 でも、ピアノの鍵盤には向かえなくて、私はそのまま、ピアノの下に潜った。


 やがて数分もしないうちに、ガチャリとドアが開く。


 河口くんは、なぜか、迷いなくこちらに歩いてきてピアノに手をかけると、すぐにしゃがんだ。


「またそんな所に潜って」

「また……じゃない、もん」


 消え去りそうな声が出た。かすれ声、涙声、さいあく。勝った人の前で。

 ここに潜れば帰ったと思われて一人になれると思ったのに。


「まただよ。前もそうだったもの。記憶にないだけで」


 河口くんは苦笑しながら不思議な事をいった。


 まえ、まえ……?


 なんのこと?


 私は悔しさと、河口くんが何を言っているのか分からない事におそれがないまぜになって猫のように丸くなった。


 今までみた河口くんではないような、そんな雰囲気をかもしだしている目の前の人から、少しだけ後ずさりをすると、両耳に届いたのは、ととん、という壁の音。


 膝に顔を伏せていても、周りの影が濃くなったのが分かる。

 そして、近い、近すぎる呼吸音。

 あんまり大きく息をしないように気をつけているのが分かる。それぐらい近い。


 かこ、われてる、みたい。


 ふと香ったさわやかな匂いに覚えがあった。

 レイと一緒に肩に上がった時に薫ったシトラス系のにおい。


 河口くんがすごく近くにいる。すごく。


 私は溢れそうな涙がしだいに収まってきて、かわりにことり、と胸が鳴りだす音をきいた。













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