11 海の音を教えてくれるらしい。
放課後、私は約束した通りスタインウェイの部屋にいくと、河口くんは私よりも早く部屋に来ていてピアノの椅子に座っていた。
「先に来ていたら弾いていればいいのに」
「どう弾いたらいいか考えていたんだよ」
「ええ?! そんな事考えるの?!」
「考えないの? それこそ驚きなんだけど……はぁ……感性だけで弾いてあれか。だからこそか、なんだろうなぁ……うん、ここが正念場だな」
河口くんは頷くと、私の手をとって練習室から出た。
「え、なに? 練習するんじゃないの? 何か教えてくれるんじゃないの?!」
「もちろん、そのつもり」
四階から三階へ降りていくと、まだ下校途中のお嬢さま方がにこやかにごきげんようと声をかけてくれて、その後、息をのんでいる。
行き合う方、みんな同じ様子だから不思議に思っていると、うしろできゃぁと黄色い声も上がった。振り返るとあぶないのでそのまま河口くんに続いて降りているのだけど、なにが注目をあびているのか……ん? みんな目線が下にいってる。下?
「うわぁ、ちょっと、手!」
「朝、報酬っていったでしょ。ていうか今気づくって、鈍いのか眼中にないのか……いい、考えない」
「自己完結してないで離してよ!」
「靴取る時にイヤでも離すよ」
そんな事をいっている内に一階に到着し、下駄箱は離れているから河口くんはすんなりと手を離した。こちらを見ずにすたすたと自分のクラスの方に行ってしまう。
「な、なによ……怒らなくったっていいじゃない」
私は今朝と同じ気持ちになりながら自分の上履きを下駄箱に置いてローファーに変えた。
昇降口の外で河口くんは待っている。両手をポケットに入れているのでもう手は繋がないのだろう。少しほっとして、側まで行った。
校門を出ると、普段なら駅へと左に上がっていくのを河口くんは右へと下がっていく。
「どこいくの?」
「海」
「うみ?! なんで⁇」
「はぁ……オーディションの課題曲の題名、言ってみて」
「海風の街から」
「そう、海の風を感じにいくんだよ」
河口くんはそういうと振り向いて、やっぱり、手、と私の顔をみて左手を差し出した。
「駅と反対側だから、人いないし……もう報酬って言いたくないんだ」
「でも、私は河口くんの事知らないんだもの」
「なんで僕の事は覚えてるのに付き合った事だけ忘れちゃうんだよ」
「知らないわよっ……わたしだって知りたいわよ……」
私だって、今までの数少ない会った回数ても河口くんがいい人だってわかる。付き合ってるってことをさっ引いてもいろんな事してくれて、私だって、もどかしい。
でも、好きって、同情でうんっていう事じゃないでしょう?
相手が好いてくれるから付き合うって、もしかしたらそういう付き合い方もあるかもしれないけれど、私はやだ。
たぶん、付き合っていいって言った過去の私も、同じ気持ちだったはずだ。
「河口くんのこと知らないと、いいよとは言えない」
「……記憶ないのに一緒って……最悪」
「なに?」
「なんでもない。手、繋がなくてもいいからついてきて」
そこから海岸までの間、河口くんは一言も話さなかった。私も黙ってついていく。その距離は人一人分空いていて、その距離が思いのほか広くて、なんだか、もやもやした。
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桐山高校を丘の頂点とすると、左手が駅も含む街中になり、右手の道は緩やかにカーブを繰り返しながら海岸沿いの道路とぶつかる。
しばらく道路に沿って歩くと海側へ降りるコンクリートの階段が見えてきて、先を歩く河口くんはその階段を降りていった。
汐風の匂いになつかしさを感じた。
母が海に連れていってくれた事があっただろうか。あまり、覚えていない。
物心ついた時には母しかいなかった。父はいるにはいるらしい。でも母は何もいわない。
写真もないし、私の記憶にもない。
でもこの潮の匂いには覚えがある。
「これ、聞いて」
私がじっと海岸を見つめている間、河口くんは波打ち際で何かを探していた。きめの細かい砂浜の中にあったものを海水で洗うと、丁寧に拭いてから、私に手渡す。
河口くん自身ももう一つ持っていて、まるでスマホで通話するように、片方の耳に手の平大のほら貝を当てた。
海を見つめながら貝を耳に当てるその横顔が行き道の顔よりも穏やかで、一瞬見惚れる。
イケメンは何でも絵になるからいけない。
そう思いながら私も河口くんに倣ってそうっと貝を耳につけた。
篭った音の中にコォという独特の響きが聞こえる。それと共に本物のさざめく波の音も紛れてきた。ときおりチャプンと波と波が重なる高い音も聞こえてくる。
「海風の街の前奏の中に、上がって下がるメロディがあるだろ? あれは、満ちて引く波の音なんだ。前田さん、音量は変えてたけれど、海のイメージは持っていないでしょう?」
「うん……」
私は、ただ音楽記号に沿って弾いていた。
大きくして、小さくして、という音符と記号だけを見ていたのだ。
河口くんが伝えようとしてくれているのが何なのか、私は少しずつ肌で分かりはじめていた。
「海を表現するには、波の呼吸を知らなければ弾けないんだ。波といっしょに、息を吸ったり吐いたりしてみて。息を吸ってから弾き始めるのが、鉄則だよ」
「それは知ってる」
「うん、でも前田さん、波のテンポで吸ってない。どの曲も、鋭く吸って弾き始めてるよ。むしろあの呼吸で弾けるのもすごいけど」
「わるかったわね……」
「うん、ほんと、悪いからここで直して」
嫌味かと思って返したら、真剣な言葉で返ってきた。はい、吸って、吐いて、という河口くんの声に合わせて、呼吸をする。
それが、目の前で押してきて引いていく波の音と同化してきた。
河口くんは私が波の呼吸をつかんだ所で声かけをやめて、同じようにゆっくりと呼吸してる。
「その呼吸で、明日前奏を弾き出してみて。たぶん、音色も変わるから」
「……うん、ありがとう」
私がやっと言えた感謝の言葉に、河口くんはこちらを見ると、ぼさぼさの前髪の中の目を細めて嬉しそうに笑った。
そんな顔して、笑わないでよ……
私は視線を海に戻して、口をへの字にした。
ありがとうと言ってしまった事を怒ってる風にしないと、この耳の奥をくすぐる動悸が聞こえてしまいそうだった。
元々の私が跳ねたのか、今の私が跳ねたのか分からない。
とくとくと鳴り出した音だけが事実で。
夕焼けを映すさざ波はまるでジンジャーエール。そのしゅわしゅわという音と共に胸にアプリコットのような淡い色が広がっていった。




