六州一国:5
「あの」
声をかけられて振り向くと、驚いたことに私たちが探していたあの少年が立っていたのである。
その髪色と服は、記憶と全く同じで間違いない。
同じ轍を踏まないよう、志文様は声を荒げる前に手を強く握って自分を律したようだった。
少年は私の前に進み出ると、おずおずと口を開いた。
「僕を、探していると妹から聞きました」
「妹?」
少年が振り返った先には、真新しい若葉色の服を着た女の子が建物の影からこちらを覗いているのが見えた。
兄妹だったのね。
私は志文様が女の子に問いただして逃げ出した理由を知った。
盗人だと言ったからだろう。事実そうなのであるが、面と向かって言われれば捕まると思って逃げるしかない。
逆に、それでもなおこうして出てきてくれたのが不思議なくらいだった。
「新しい服を着ているので、妹に理由を聞いたんです。
貴女は僕の妹に優しくしてくれたみたいだから。
……盗んでしまってごめんなさい。これが必要なのでしょう?
僕が持っていても仕方ないし、返します」
私は彼から小さな箱を受け取った。この中に書面が入っているのだろう。
「有難う。勇気を出して、返しに来てくれて」
捕まるかもしれないのに、出てきてくれたのは私たちが困っていると聞いたからに違いない。
どれだけ勇気がいることか。それはただ、狡く生きるだけの人間ではできないことだった。
本当は盗みなど働きたくないのかもしれない。
でも彼らの貧しさを見る限り、そうしなければ生きていけない背景が窺えた。
流石に捕まえようなどという無粋なことは志文様や天佑様もしなかった。
彼一人を捕えた所で何の意味も持たない。
それに、盗まれた物は返ってきたのだから。
少年は感謝されて照れ臭そうに鼻をこすると、「それじゃあ」と言って再び妹と共に人混みの中に消えて行ってしまった。
彼らのような子供がこの州には沢山いる。
例えば今まで商人が自由に商売していた産業を規制するなど、炎王は着任以来多くのことを大改革しているからだ。それを評価する声も多くある。
私には簡単にそれを良いとも悪いとも評価をすることができない。
ただ、できるだけ早く混乱が収まればいいと願った。
そして祖州の混乱により悲しむ人が更に増えるのは、どうにかして避けられるならば避けたいものである。
冷たい顔か、真面目な顔ばかり見ていた天佑様だったが、初めて口を緩めて微笑した。
「貴女が彼女に優しく接したお陰で助かりました。
感謝いたします。『姐様』」
名前も名乗っていない私には過分な感謝だった。
私がしたことはただ泣く子をあやしただけで、後は全て運である。
「いえ……」
その評価に戸惑い、小さく零す様に答えて俯いた。
「……書面も戻ってきたし、それじゃあここで君とはお別れかな。
恵麗殿は連絡手段を教えていただきたいのだけれど」
志文様が無事品が戻ってきたことに顔を和らげて、私の持つ箱を見ながら言った。
「お待ちを」
何かに気付いた天佑様が、鋭く警告の声を出す。
視線を群衆に油断なく向けると、私たちを庇うように壁側に寄せた。
「先ほどから、数人が人混みに紛れてこちらを追ってきているようです」
「隆飛様の追手かな?」
「分かりません」
天佑様の視線の先を見て、何かに気付いた恵麗が私に無言のまま視線を合わせて尋ねてきた。
私も口を開かず頷いて返事をする。
もう、そんな時間になってしまったかと思った。
剣に手を置き、いつでも抜けるようにして警戒している天佑様に言った。
「人の少ない方へ。ここでは目立ちます」
「それでは襲われに行くようなものですが」
「心配いりません。彼らは追手ではありません」
天佑様が怪訝な顔をして振り向いた。
確かめるように碧眼を私の顔に向けたが、動揺のない私の表情を見て一先ず結論を急がないことにしたようだ。
剣から手を離すことはしないまでも、あからさまな警戒の姿勢は解いた。
「恵麗殿、どういうことかな?」
現状が読めないため対応を迷った志文様が恵麗に問いかけると、恵麗は少し困った顔をして答えた。
「少々お待ちを。すぐに分かりますので」
私は三人の前に立ち先導する。人混みする道も、しばらく歩くと物静かな場所へと変っていった。
行き交う人も少なくなり、いつの間にか五人の男たちだけが、変わらず私たちと一定の距離を保ったままついてきていた。
道行く人に紛れる恰好だったが、その五人は何処まで歩いても行き先を違えることがない。
とある小さな道に出た時に、彼らはあっという間に私たちを取り囲んだ。
天佑様が剣をいつでも抜ける構えにするが、囲んだ男たちが応じる雰囲気がない。
剣が届かない範囲に立ち、私たちを見ているだけである。
それに困惑して志文様も天佑様も迂闊に動けないようだった。
一人の男が私に向かって一歩近づき、膝まづいて非常に恭しく拱手した。
男子の膝には黄金がある。という言葉がある。
つまり、軽々しく膝をつくなという意味だ。
この国の者にとって膝をつく姿勢は深い礼を示し、平穏な日常ではあまり使う機会がない。
しかしこの場の者に限っては、それをよく見る立場の者ばかりだった。
使われる所は限定的だ。
深い感謝や謝罪、儀式や祭事の場、もしくは……皇族、王族に対して。
「そろそろお戻りになってください」
混乱する二人から、問いかける視線が私に向けられる。
この五人が恵麗をまるで意識せずに私にだけ声をかけてきたのを見て、誰が目的なのかを知ったようだ。
いよいよ言わねばならない時がきた。
非常に重苦しい気持ちを押し隠し、私は改めて二人に向き合う。
「今まで名乗らぬ失礼、お許しください」
手に持つ箱を恵麗に渡し、頭を下げて拱手をした。
「民草と変らぬほど貴色の薄いこの私が、
お探しの炎王の従姉、郝鈴玉にございます」
皆言葉を忘れてしまったかというほどの沈黙が落ちる。
顔を上げると、あっけにとられた二人の顔が見えた。
目を大きく見開き驚愕して、何を言うこともできない様子だった。
やはり、この煤けた赤茶の髪色で郝一族だと見抜くには無理がある。
赤、黄、白で彩られた炎のような郝一族の色彩など、私の髪色には何も表れていなかった。
失望させてしまっただろうか。
私は何の変哲もない人物だととうに分かってしまっただろう志文様と天佑様に、何も気づかないふりをして郝一族として堂々と名乗ることができなかった。
羞恥により薄紅色に色づいた頬の熱を感じながら、それでも彼らの決死の思いに少しでも応えようと胸を張る。
「書面、確かに受け取りました。ご返答は恵麗を通じてお伝えいたします」