過去の痛手:1
眉を寄せた苦し気な表情に、見ているこちらも辛くなる。
息苦しいのか大きく胸を上下させ、何かから逃れるように鈴玉様は身をよじった。
苦しみを代われるものならば代わりたい。
しかし私にできることは、せいぜい汗ばむ額を拭うことだけである。
「姐様」
声をかけてみたものの、夢の中に届いた様子はない。
変わらず苦悶の表情で、悪夢を見ていることは間違いなかった。
疫鬼の呪印は悪夢を呼び寄せるのだろうか。
それとも、鈴玉様自身の内面が悪夢を見させているのだろうか。
どうしてこの人の肩に、大きすぎる期待と責任が乗せられてしまったのだろう。
郝一族として基本的な教養は学んでいるものの、政略結婚しか期待されていなかった為にその内容は深いものではなかった。
むしろ機密事項などは、外に漏らされぬように知らされない立場だった。
誰かに嫁ぎ、政治の話など耳にしない日常で子を産み育てる。
それが、鈴玉様が本来であればとうに手にしていたはずの、この国の女性の幸福の在り方だった。
鈴玉様をどうしたいのか名言しない誠偉様の態度に、皆困惑を隠せない。
けれど、誰よりも戸惑っているのは鈴玉様自身だろう。
現状そのことについて問えるのは鈴玉様だけである。
しかしその一言の重みを知るが故に、口に出すことができないようだった。
皆それを知っている。そして、皆それが逆鱗に触れることを恐れている。
「ぅ、」
鈴玉様は少し呻いて、顔を横に振った。堪らず顔を寄せて声をかける。
「姐様」
今度の呼びかけは届いたようで、少し薄眼を開けてぼんやりと宙を見た。
「大丈夫ですか?」
視線をさ迷わせた後、私の顔を認識してこれが現実だと分かったようだった。
はぁっと大きく聞こえるため息を吐き、腕で眼を隠した。
「これは現実ね?」
「ええ、そうです。姐様、どんな夢を見ていたのですか?」
鈴玉様は私の問いかけにすぐ答えることはせず、呼吸を整える。
目を隠していた腕をゆっくりと外すと、迷子のように不安な目で私を見た。
「利明様のことを」
ああ。あの出来事はどれほど鈴玉様を傷つけているのだろう。
簡単に次の一言を発することができず、過去の重さに私は自然と俯いて地面を見た。
炎王に選ばれなかった利明様は、既存の利権などまるで無視して改革を進める誠偉様を受け入れることができなかった。
先王の時からの信頼を惜しみなく利用し、有力者の私兵と軍の一部を蜂起させ、正義は我にありと声高に叫び反乱を起こしたのだ。
まだ炎王になって日の浅い誠偉様を心から守ろうとする者もなく、兵数の優位は利明様にあった。
多くの者から結果は五分だと思われていただろう。
少なくとも、双方に甚大な被害が出ると予想されていた。
しかし、結果はそうはならなかった。
利明様側の一方的な壊滅的な被害で勝敗は決したのだった。
帰還した兵の話によれば、誠偉様は一人で敵兵を燃やし尽くした。
燃やして燃やして燃やして。私が聞いた兵は同じ言葉を繰り返すと、口を噤みそれきり黙ってしまった。
早馬の知らせが届いた天朝宮の異様な空気を覚えている。
勝利したというのに喜ぶ者はなく、蔓延していたのは人外の力に対する恐怖である。
天朝宮に凱旋する誠偉様の姿に、額づく者はあれど近づく者はいなかった。
けれど鈴玉様だけは下馬する誠偉様に近づくと、緊張した面持ちながらも背を伸ばしてこう言ったのだった。
「よく、ご無事でお戻りなりました」
誠偉様は鈴玉様にだけ見せる柔らかな笑みを浮かべた。
「寂しい思いをさせた。これで少しは、静かになるだろう」
そこには血を共にする郝一族の利明様に対する思い入れなど、何一つとしてなかった。
そして燃やしてきた数千の命に対する悔恨の念もまたなかった。
鈴玉様が気丈に振舞えたのもそれまでだった。
小刻みに手を震わせ、目を見開いて誠偉様を直視する。
「姉上?」
訝しがる誠偉様に対し背を向けると、鈴玉様は全力で走りだした。
「鈴玉様!?」
私も困惑した表情の誠偉様に一礼し、慌てて後を追う。
転んでしまうのではないかと不安になるような必死さで、一目散にひた走る。
辿り着いたのは鈴玉様の自室だった。
寝台に勢いよく上半身を投げ出し、顔を覆って叫ぶのが見えた。
「……私のせいよ!」
息切れしながら鈴玉様の傍に寄る。
小さく丸められた背中を摩ると、堰を切ったように泣き出してしまった。
「わ、わた、私が! 私が利明様の命乞いをしたから!」
回らない呂律で、只管に自分を責める。
髪を振り乱し、耐えきれない感情のままに首を横に振る。
「違います、姐様」
「違わないわ! そうすれば、こんなに沢山の人は死ななかった!」
血を吐くような叫びが部屋に響く。
自分を痛めつけようとするように、戦慄く拳を強く寝台に叩きつけた。
誠偉様の目の中に自分以外の命が映っていないことを目の当たりにして、自分がどれだけの影響力があるかを自覚してしまったのだった。
選王の儀の時、誠偉様は『面倒なことになる』と言っていたではないか。
あれはまさか、今回の反乱まで予見していての発言だったのではないか。
真意は分からない。しかし誠偉様は簡単に利明様の命を見過ごした。
ただ、鈴玉様が命乞いをしたという理由だけで。
鈴玉様は今、利明様の反乱が全て自分の責任であるように感じているに違いない。
その重みに耐えきれず、軋む心に只管涙を流す。
「違います。姐様、違いますよ」
いくら言葉を重ねても、傷ついた鈴玉様に届いた様子はない。彼女は今、全てを拒絶していた。
だから私はその日ずっと、震える肩を撫で続けたのだった。