武官の私意:8
「強烈な毒をまき散らし、通った場所の草が枯れてしまっている。
……中々手ごわそうな相手じゃないか」
「辿ってみますか?」
「そうしよう。もう少し痕跡を探したい」
導のように続く枯草を辿って山道を行く。
もう随分歩き通して疲れ果てているが、志文殿も私も黙々と足を動かし続けた。
毒の跡の傍を歩くなど普通の人間が見たら眉を顰めそうな行動だが、鈴玉様に呪印がつけられた時点で命懸けで取り組む覚悟はできている。
もはやなんとも思わなかった。
無駄話をする気力もなく、汗を垂らしながら進んだ私達の前に岩や小石が露出した場所が現れる。
「これは……涸れた川ですね」
少し前までは小川が流れていたに違いない。
窪んだ流水の跡を思わせる地形と、周辺には茶色く枯れてしまった苔がまだ残っている。
村に呪印がまき散らされたのは一月以上前だという。
川が涸れたのも、草が枯れたのも、その頃からまだ残っているのだとしたらどれほど強い毒であるのか。
枯草の道はこの川の跡を横断するように続いていた。
更に先を進むべきか尋ねようと志文殿を見ると、蒼白な顔をして茫然と立ち尽くしていた。
「蜚だ」
「何か思いあたったのですね」
額からは汗が一筋流れ、それ以上口に出すのを恐れるように志文殿は険しい顔をして押し黙る。
まるで呪印がつけられたかと思うような顔色の悪さだったが、足は大地を踏みしめて力強く体調不良ではなさそうである。
正体を知っているが故にこの状態に陥ったのだ。
話せる状態になるまで静かに待つ。
吹き抜ける風に促される様にして、志文殿はゆっくりと口を開いた。
「山に獣あり。その形牛のごとくにして、一目蛇尾なり。
川を行けば水が涸れ、草を行けば悉く死す。その名を蜚という」
勤めて淡々と語られる状況は今と全く同じである。そして一層暗い声色で付け加えた。
「……現るれば天下に大疫あり」
最後の一言と志文殿の様子を組み合わせれば、厄介な相手だというのは十分に分かった。
少なくとも、名前を呼ぶだけで簡単に払えるような部類の相手ではないということだ。
天下とは、また大仰なことを言う。もしかすると、この村だけに蔓延している現状は幸運なのだろうか。
放置すれば国を脅かすほどの大きな問題に発展しかねない恐ろしい災厄なのだろうか。
その神髄を思い知る前に、何よりも真っ先に確認すべき事柄があった。
「それは斬れますか?」
志文殿は私を凝視した後、毒気を抜かれたような顔をした。
「今ほど天佑と共にいて良かったと思ったことはないね」
「褒め言葉と受け取っていいのでしょうか」
「ああ勿論だとも! 安心していい。斬れる、斬れるぞ! 存分に斬れ!」
どこか釈然としない気持ちになりながらも、本人が褒め言葉だと言っているのだからそのまま受け止めることにした。
「分かりました。斬れと言うならば、私が蜚を屠りましょう」
「任せた! では、急ぎ村へ戻ろう。疫鬼退治には準備が必要だから」
私達は村へ戻るべく歩き出した。正体を掴む目的は達成できたので、来た時よりも少し足取りは軽い。
斜面の砂地を踏みしめつつ、鈴玉様のことを思った。
今はどうしているだろうか。苦しい思いをしていないだろうか。
目を離しているこの間に、良くないことが起きていないだろうか。
目が覚めて私がいないと知り、僅かでも寂しいという感情をもってくれただろうか。
「そうだ天佑、知っているか?」
顔をこちらに向けることもせず、前を歩く志文殿が私に尋ねる。
歩きがてら雑談でもしようというのだろう。
「何をでしょう?」
「鈴玉様は、婚約者が一人もいないってことさ」
またその話題かと内心うんざりしたが、だからと言って口を止めさせるには興味が惹かれる内容だ。
まんまと転がされている気がするものの、先が気になり黙って聞くことにした。
「元々は数人の候補者がいたらしいが、誠偉様が即位してから話がなくなったそうだ。
誠偉様の意向でね。従姉弟同士なら婚姻もできる。
いつ囲い込むのかと、そんな話も噂されたが……」
志文殿は暫し立ち止まって、乱れた呼吸を整える。
先を促したかったが、そんなことをすれば自分の立場を弱くするだけなので黙して待った。
そんな私の内心などつゆ知らず、志文殿はゆっくりと額の汗を拭い、再び歩き出して話し始めた。
「結局、今の今まで鈴玉様は未婚のままだ。
手を出されてないのは、女官たちのお墨付きだとさ。
それで誠偉様が姉上と周囲の視線も憚らず呼ぶものだから、『気乗りしない結婚を止めてあげた姉思いの弟』というのが今の天朝宮内部の人々の誠偉様に対する評価だ」
鈴玉様は確か二十三歳である。普通であれば嫁いでいる年齢だ。
結婚していないのは知っていたが、複雑な立場のせいだろうと考えていた。
それが鈴玉様が気乗りしないという理由だけで独身のままだとして、一体なんだというのだ。
私はそれを喜んで、どうしようというのだ。
「まあ、あくまで噂に過ぎない。
あの誠偉様の内心など、本当に分かるものなど誰もいないのだからね。
しかし、もしもそれが本当だったら。そんな風には思わないかい?」
「つまり、どういうことでしょうか」
志文殿がちらりと呆れた視線を後ろに向けた。
「察しが悪いね。つまり、鈴玉様が自分で望めば、案外誰でも彼女と結婚できるんじゃないかってことだよ」
ああ、なるほど。
鈍い私はそこで漸く志文殿が言いたいことを理解した。
普通の感覚では荒唐無稽な話に思えた。
だが、あの炎王の破天荒ぶりを目の当たりにした後である。隠すことなく鈴玉様を特別に扱っていた。
もしもそれが真実であったならば。
私は自分の口の端が吊り上がっていくのを自覚した。
きっと酷く歪んだ笑いをしているに違いない。
潰してしまおうと努力しているこの思いに、大義名分を与えてしまえばもはや止めようがない。
前を行く背中に向かって話しかけた。
「志文殿」
貴方は大変なことをしてしまった。軽率に放った言葉の責任を自覚するがいい。
暗く笑いながら、取り繕っていた全ての仮面を外して言った。
「あまり俺を、煽るなよ」
ただならぬ声色に思わず振り返った志文殿が、俺を見て少し怯えたような顔をした。
「ああ、天佑。お前、なんて恐ろしい顔をするんだ」