武官の私意:6
恵麗殿は少しでも鈴玉様に滋養をつけようと棗粥を作りに行き、志文殿も疫鬼の正体を探るべく外を見に行ったので、自然と私が鈴玉様の傍にいることになった。
黒い蔦の呪印は心臓を中心に広がっているようで、はだけた胸元から禍々しい一部が垣間見えた。
一息一息が大きく胸を膨らませる苦し気なもので、見ていてこちらまで息苦しくなってくる。
何もやってやれることはないのだが、目が覚めた時に傍に人がいた方が心強いだろうと寝台の隣に腰かけた。
額に前髪がかかっていたので、手で軽く横に流してやる。
鈴玉様は自分の赤茶の髪を郝には相応しくないと嫌いなようだったが、私の目には手入れの行き届いた美しい髪に見えた。
確かに炎には見えない。しかし生まれ故郷の大地の色で、よく手入れのされた馬の色だ。
触れれば火傷する炎の赤よりも、ずっと身近で温かいものではないか。
こうして寝姿を見ていると、とても華奢で弱弱しい、ただの一人の女性としか見えなかった。
全く。一人で気を張り過ぎなのだ。
ふ、と口を緩ませる。起きている時は伝わるほどに、色々と他者に対して常に気を配っている。
無理矢理寝かせられている今ぐらいが、ちょうどいい。
もっと甘えればいい。済まなそうな顔を止めて、この私の背に、当然のように負ぶされば。
そんな奇妙な考えが、当然のように頭に浮かんだ。
荒く呼吸を繰り返す瑞々しい口元に、視線が無意識のうちに奪われる。
上気して色づいた頬は愛らしく、気付けば上体を彼女に覆いかぶさるようにして覗き込んでいた。
美しい人だ。
しかし、汗ばむ額は確かに鈴玉様に死の影をちらつかせる。
その終焉を理解した瞬間、表現しがたい強烈な寂寥感に襲われた。
喉が切れるほど叫びたいような、外に駆け出して山々を走り回らねば収まらないような、強い感情だった。
それが起きてしまえば、自分は死ぬ瞬間まで癒えぬ大きな傷を負うのではないか。
今こそ正に、その瀬戸際にあるのではないか。
その恐怖が突として胸に沸き起こり、気付けばその唇に自分の唇を押し当てていた。そうでもしなければ、その感情から逃れられそうになかった。
意識もなく口を食まれ、身をよじろうとする彼女を、片手で顔を抑えて逃げられなくする。
もっと。もっと、深く。
そうやって潜り込んで、私の何かを、渡したい。彼女の何かを、受け取りたい。
「ん……ぅ」
漏れた声に、弾けるように身を離した。
濡れた唇を見て、冷や汗が一気に噴き出る。今、俺は、一体、何をした。
触れてはいけない人だと、何重にも自分に言い聞かせていた。
しかしこんな感情がこの世にあると知った後で、どれだけの歯止めになる。
恐ろしい。炎王郝誠偉に溺愛される、たった一人。破滅が目に見えているではないか。
それを知っても、どうにか心を奪えないかと思案を巡らせてしまう。もう答えは出ていた。
俺は、郝鈴玉様を愛している。
なんということだと、愕然とする。気付く前の私には戻れない。
私はこの方が欲しくて欲しくて、堪らないのだ。
もしも私に愛おしそうに笑いかけて、妻として家に居てくれたとしたならば。
そんな不相応な願いを持つ男に、いつの間にか成り果てていた。
なんと愚か。なんと救いのない願望。であるのに、切り捨てることが叶わない。
手が勝手に、その輪郭を優しく撫でる。
その儘ならない気持ちに口を噛みしめながら、その愛らしさを堪能した。
「姐様、棗粥ができましたよー」
明るい声で入ってきた恵麗殿を、つい勢いよく振り返ってしまった。
私の強い視線を浴びた恵麗殿が一瞬たじろぐ。
「あ、あの、」
「……すみません。驚いてしまいました」
「ああそうなんですね! こちらこそ、驚かせてしまってすみませんでした!」
何も気づかず笑いかける恵麗殿に安心し、大きく深呼吸をして気持ちを切り替えた。
立ち上がり、できるだけ穏やかな声にして話しかける。
「志文殿を手伝いに行きます」
「分かりました。姐様は私にお任せ下さい」
家を出ると護衛の一人が切り株に座ってうたた寝していたので、起こして志文殿の居場所を聞く。
呪印をつけられた村人の家を回っているらしい。
外は晴れていて青空が見えたが、清々しい気持ちにならないのはこの村に潜む疫鬼のせいだろうか。
亡き妻の艶梅を思い出してみる。
彼女はまだ幼さの抜けきらないほど若く、だからこそ私のような身分の者に懸想したのだろう。
その立場のままに少々我儘であったが、私を困らせすぎることはなかった。
そんな艶梅が亡くなった時も、確かに悲しかったはずだ。
明るい声は家から消え、その寂しさが胸に来る夜もあったはずだ。
だがしかし、こんな引き裂かれるような強い思いなど、抱きはしなかった。
こんな薄情な夫の妻でいて、幸せだっただろうか。
もし、恨んでいるならば呪ってくれ。そうでもなければ、大きな過ちを犯してしまいそうだ。
早鐘のような鼓動は、今まで習得してきたどんな精神統一の方法も受け付けない。
勤めて深呼吸をしたところで、気休めにもならなかった。
どんな手法を試したところで、心では鈴玉様の唇の柔さを思い起こしてしまう。
それを振り払いきれずにいるうちに、足はとある一軒の家の前に辿り着いた。