武官の私意:5
「それは何ですか?」
鈴玉様は首を傾げたが、私には心当たりがあった。
記憶が確かならば、祖州の永平宮に保管されている本である。
「白澤図は、白澤様が魑魅魍魎の起こす怪異について語ったものを編纂した辟邪の文。
記された怪異の数は万にも上る」
「そんなに」
膨大な数に恵麗殿が驚きの声を上げる。
だが、白澤の知識は人に推し量れないほどである。
全てに精通しているとも言われるのは、人間の過大な評価だろうか。
太古の昔より存在している白澤にとって、人に記録されているものなどほんの一部の知識に過ぎないのだろう。
「もしかして志文様、その内容を覚えているのですか……!?」
志文殿は特に誇る訳でもなく頷いた。優秀だとは思っていたが、これほどとは。
「ああ。恐らく、この村を調べればどれかに思いあたるはずだ」
鈴玉様は青白い力ない顔色で、淡々と話す志文殿をじっと見つめた。
「……知っていたのですね」
空気が一気に重苦しくなる。
どうして住民達が救いを求めた時に、何も告げず逃げたのかと責める視線だった。
鈴玉様は民のことを心から思う人だ。
我々は輝明様の支持を得るためにも、彼女の反感を買ってはいけない。
志文殿は眉を八の字にし、苦渋の表情を作った。
一番親しい私にも嘘か判別できない迫真に満ちたものだ。
「僕は知識があっても、実行したことはない。
膨大な白澤図の中の、どれに該当するのか調べるにも時間がかかる。
勿論、悩んださ。しかしこの国を左右する問題と、この村だけの問題。
どちらを優先すべきかは、自ずと分かるだろう?」
鈴玉様はその苦悶の顔を暫く見つめていたが、視線をずらして瞼を閉じた。
「そうですね。すみません……詮なきことを聞きました」
無意識のうちに止めていた息を吐く。
この方の信頼を失うことが、自分にとってどれほど恐ろしいことなのか、突き付けられたようだった。
確かに鈴玉様に認められなければ、我々の未来は閉ざされる。
しかし、この恐ろしさはそれだけのせいだろうか。
「白澤様は凄いですね、炎州にはそんな本ありませんでした」
恵麗殿が明るく聞いてくれたので、志文殿も顔を少し緩ませて答えた。
「それは、白澤様が五行を持たない精霊だからだよ」
「五行……というと、火と水とかの?」
「そう。五行の力の持たない白澤様は、火事や水害などを起こす力はない。
代わりに、全ての精霊に対して弱めさせる性質を持つ。
弱めた所を、人に倒させるのさ。だからこそ精霊達の弱点をよく知り、人に伝えてくれる。
古より、そうやって人と共存してきた精霊だ」
「不思議ですね。そんな変わった性質の精霊が、この国の皇帝を選ぶなんて」
首を傾げる恵麗殿に、蘇一族と縁ある志文殿は誇らしげに答えた。
「他と違うからこそ、だよ。白澤様と人が協力していれば、この国に敵う精霊はいない」
瑞獣白澤が存在するだけで、この国は他の魑魅魍魎から守られる。
邪なものは自分の力を弱める存在を避けようとするからだ。
存在そのものが辟邪の力を持つ。その白澤だからこそ、人心を治めることができているのだと祖州の者は強く信じている。
疫鬼の類も他国よりも少ない。一歩外国へと行けば、疫鬼に侵された村など山ほど遭遇する。
その点、この村は実に運が悪かった。
「疫鬼を倒そう。さあ、とりかかろうか」
志文殿の言葉に、私達は皆力強く頷いたのだった。