武官の私意:3
鈴玉様は体調の悪さからいつしか眠ってしまったようだった。
寝息が穏やかであることに安堵したが、一方で村が近づくにつれて皆の表情が暗くなっていくのは気のせいではない。
皆の脳裏にはこの村を立ち去る時に自分達がしてしまった、住民達への非道な対応が思い起こされていた。
縋りついて助けを求める老人を、志文殿は蹴り上げ、見捨てた。そして私達は黙認した。
どんな寛大な人物であっても、厚顔に協力を要請すればいい気はしないだろう。
権力を笠に着て高圧的に命じれば、住民達は応じざるを得ない立場である。
たとえ名乗らず権力を行使しなかったとしても、連れている護衛達の威圧は彼らを服従させるには十分なものだ。
しかし燻ぶった火種は、ふとした瞬間に予期できぬ事態を引き起こすに違いない。
志文殿に一瞬視線を向ける。彼だけは過去の行いを悔いている様子もなく、罪悪感など微塵も感じさせない普段通りの表情だった。
同じ目的を目指す同胞ではあるが、こんな時は違いを実感する。
彼は蘇一族に近い。生まれながらのその差は、民を個人として認識しない視点の違いを生み出しているようだった。
彼にとって民とは集団でしかなく、国の豊かさとは数字で表されるものだ。
一概に悪いものではないだろう。だからこそ、強い意志で政策を断行できる。
それが『彼ら』の普通だ。
そこで一旦思考を止め、諦めたようにため息を零す。
……まあ、表情に出さないようにしている私も、所詮は同じか。
「見えてきました」
恵麗殿が指を指した方向には、確かに見覚えのある人影が四人見えた。しかし彼らは私達を追って来ない。
待ち構えるように、住民達は私達が近づくのを一歩も動かずただ待った。
やはり先頭に立つのは老人だった。村長なのだろう。
見えてきた表情は友好的ではない。口をぎゅっと窄み、目つきは険しく、滲み出る怨毒は私達に口を開くことを躊躇わせるほどだった。
暫しの沈黙の後、徐に老人は口を開いた。
「よく、のうのうと戻って来たな」
向けられた敵意に流石の志文殿も、なんと返せば言いか迷ったようだった。
「助けを断るばかりか蹴りさえした者の前に、よく顔を出せたもんだ」
あの時の対応の悪さを後悔する。ここまで憎まれた相手に、どうやって協力を引き出せばいいのか。
志文殿も私も、沈黙するしかなかった。
老人はこちらの態度を気にすることもなく、地面に視線を落とした。少し表情が和らいだ気がした。
「昨日、男が一人村に来て、告げた。必ずこの場所に乩手を連れて戻ると。希望を捨てるなと」
昨日と言えば、喜鵲と別れた日である。間違いなく彼のことだろう。
言葉を紡ぎながら老人の皺の付いた眦に涙が溜まっていくのが見えた。
「なんと有り難い申し出だったか。
嘘でも構わないと思うほど、その言葉を心底求めていた。我らは礼をしたいと申し出たが、断られた」
唇を戦慄かせ、涙が雨のように地面を濡らす。その表情はもう怨嗟ではなかった。
「彼は、自分の意志ではないと言った」
私に、正確には私が背負う鈴玉様に向けて老人は敬愛の視線を向ける。
誰の意志によるものか、彼はもう知っていた。
「他の誰が戻ってきても、追い返すつもりだった。だが、その方は、その方だけは断れん」
老人は静かに両膝を付き、額を地面に押し付ける。他の住民も、追随するように額づいた。
その光景はまるで精霊を前にした人間のようだった。
その心は、我々に安易に踏みにじることを許さない。
きっと彼らは、鈴玉様の言葉ならどんな危険をも冒すだろう。
誰がこの光景を予想した。住民達が我々の非道を呑み込み、彼女に一心に額づいているこの光景を。
しかも彼らはこの方が郝鈴玉だと、全く知らないままである。
これはただの偶然による幸運か?
用意周到な喜鵲の業か?
いいや違う。鈴玉様だけが、彼らに心から寄り添ったからだ。
ふと、自分の袖を捲り上げている腕に視線を落とした。肌が粟立っていた。
そのことに表現しがたい胸のざわめきを覚え、鈴玉様を抱える腕に力を込め直す。
老人はよろめきながら立ち上がり、涙で濡れた頬を拭うと私に言った。
「わしの家を使うがいい」
ため息を零しながら、他の住民達を立ち上がらせていく。
「しかし、疫鬼の邪悪さよ。何もこの方でなくともよいではないか」
その一言は、自分の心と全く同じものだった。




