武官の私意:2
「天佑様。確か元の道に戻るにはあと半日ぐらいでしたよね?」
恵麗殿に問われて振り向くと、疲れの浮かんだ顔があった。
「そうです」
「そこまで行けば、道は平坦になりますか?」
「ええ」
そのやり取りの後で自然と視線が向いてしまったのは、鈴玉様の方向だった。
呼吸もまともにできず、顔色が随分と悪くなっている。
かろうじて歩いてはいるが、今にも倒れそうな様子だった。
恵麗殿は私を見て首を横に振る。これ以上は無理させられないと判断したのだった。
むしろ宮廷暮らしをしていた身でありながら、よくここまで不満も言わず自分の足で来たものだ。
炎王の手厚い庇護を受け、何を言っても許される立場である。
それを考えれば、驚くほど謙虚で献身的だ。
私は彼女の前に立ち塞がり、できるだけ穏やかに聞こえるように気を付けて言った。
「……申し訳ございませんが、背負ってもよろしいですか?
鈴玉様が責任感の強い方であるとは分かりましたが、このままでは夜の前に次の村に着けません」
彼女は傷ついた顔になった。それを見て罪悪感が沸き起こる。
しかし皆のことを考えたのだろう。拒むでもなく、大人しく項垂れながら受け入れた。
「お願いします」
こうやって、この方はいつも誰かを気遣って生きているのか。
それをいじらしく感じるのはどうしてだろう。
背中を貸せば、思った以上に軽い体だった。
不安になるほど華奢で柔い腕が、首に回される。
後ろから流れてくる花のような甘い香りに、惑いそうになるのを理性で押し殺した。
鈴玉様は守護一族だ。
見た目がただ人と似ていようが、その事実はどんな渓谷より深く私と彼女の間に横たわる。
蘇一族の血を受け継ぐ志文殿でさえ、蘇の名前を持たない以上は鈴玉様よりも数段立場が低い。
どれほど柔く甘い女性だったとしても、肩を並べられるのは同じ守護一族の者同士しかいなかった。
背負う人の微かなすすり泣く声が聞こえてきた。
他の誰にも聞こえないほどの、小さな声である。押し殺しているのだろう。
それゆえに同情を引くためのものではないのだと分かる。責任感の強さが窺えた。
昨日、喜鵲と名付けられた男が羨ましい。
自分の何もかもを投げ捨てるだけの価値があると、信じられる人に会えるのは奇跡である。
影として生きてきたあの男は、鈴玉様の声に積み上げてきた過去を全て捨てる覚悟をしたのだ。
心のままに人に仕えることの喜びはどれほどだろう。
喜鵲が鈴玉様の中に見出したのは一体何か。
私もいつか、鮮やかに心奪われる日が来るだろうか。
「顔色が悪いです。水を飲みますか?」
「……大丈夫。いらないわ」
恵麗殿が鈴玉様を心配して声をかけた。
応じる声は弱弱しく、聞いている者を不安にさせる。
背中から伝わる熱が徐々に上がってきている。
脳裏に浮かんだのは、背筋が凍るような恐ろしい予測だった。
それを肯定するかのように、志文殿が険しい表情をして鈴玉様を見る。
近づいて無遠慮に鈴玉様の袖をまくり上げ、首を横に振った。予測通りの絶望の宣告である。
「戻るよ」
住人達とはわずかな接触しかなかったのに、まさかと思ったが嫌な予測程よく当たるものだ。
私は一度瞼を瞑り、重苦しい吐息をして覚悟を決めた。
認めたくないように恵麗殿が志文様に尋ねる。
「何処に、ですか?」
「昨日の村に、だ。疫鬼に呪印をつけられたようだ」
死の宣告も同然の言葉に、恵麗殿は泣きそうな顔になった。
嘘で偽る間もない一瞬の変化に、彼女が心から鈴玉様に仕えているのが分かる。
しかし、その表情はまだ早い。
「村に戻るのは、やれることがあるからですね。志文殿」
「ああ。その通りだ」
その言葉にはっとして、恵麗殿はこぼれそうになった涙を拭った。
「なら、大急ぎで戻りましょう! 姐様、私がついていますからね!」
「ありがとう。……ごめんなさい」
随分と力のない声だった。短い期間ではあるが鈴玉様の責任感の強さを目の当たりにして、どれほどの罪悪感に苛まされているだろうかと心が痛む。
自分の足で歩けないと、あれだけ気落ちする鈴玉様だ。
この事態に、自分を責めない筈がない。
それが少しでも軽くなることを願いながら言葉を伝えた。
「鈴玉様のせいではありません。運までも、背負い込まなくてよいのです。
今はただ、呪印を消すことだけを考えましょう」
「……はい」
表情が見えないのが惜しかった。自分の心がどれだけ届いたのか、どんな顔で聞いたのかが気になった。
一行は降りてきた道を倍の速度で急いで登る。焦燥感のままに、足を動かした。
鈴玉様の優しさが守護一族の博愛としてのものなのか、世間知らずな女性の人情によるものか。
それとも、もっと別の感情から来るものか。
見極めたいと思っている自分に気が付いた。
まだだ。まだ、まだ。まだ分かれるには早すぎる。
鈴玉様が亡くなったら、炎王は如何なる理由でも許さないだろう。
私達も、この国も、大変なことになる。
そんな諸々の事情など忘れて、失いたくないという単純な思いだけが自分を焦らせた。
この方の先を見てみたい。
それだけを心の底から、願っていた。




