第九撃 罰
遠くから、梵鐘の音が聴こえる。
もう、日は落ちていた。
西州で、それぞれの街の門扉が一斉に閉ざされる。
州府の廊下でそれを耳にした清心は、背後にいるだろう志貴に声をかけた。
「水無瀬の屋敷に戻らなくても大丈夫なのですか?」
「…眠るなら。どこででもできる」
野性的な日常だ。問題はそこではないが。
名家の事情に土足で踏み込めば、手痛い躾が待っている。
とはいえ、志貴はまだ幼い。あとで保護者代わりの翔に相談せねば。一旦、問題を頭の片隅に保留。
(しかし、今日は)
着替え終え、露わになった傷痕をなんとなく指先で辿る清心。
「今日は、眠れないかもしれません」
こともなげに、志貴。
「一週間なら、不眠不休で動ける」
子供から感じる、えげつない教育の影。どうなっている、水無瀬家。
思い、我が身を省みる清心。
つい、臍を噛む。
しまった、記憶の残っている段階から、似たり寄ったりだ。
子供にはまともな生活をしてほしいが、まともが何か、分からない。
悩み、結果、無難に一言。
「…頼もしい限りです」
一緒に着替え終えた志貴は、動きやすく上等ながらも地味な出で立ちで、意外と目立たない。と言うか。存在が、ない。
その容姿を考えれば荒野に咲いた一輪の花のごとき鮮やかな存在感なのだが、刀術士として護衛に回るなり、まったく視界に入らず、気配も感じ取れない。謎だ。
…やることは多い。ひとまず、志貴はこういうものとして、薄暗い廊下を見渡す。
いつもは、歩きまわる官吏で忙しない州府の廊下。
陽が落ちた今は、見事ながらんどう。別の場所にいる気分。
ただ、賓客が多いため、外で立っている衛兵の数が多い。
むしろ、いつもより外は明るかった。兵や刀術士ばかりではない。斎門も多く、今日ばかりは州府につめていた。
最小限にあかりが絞られた廊下の先。ひときわあかるい光がもれる執務室がある。
奥に座す男は、この数年間、ただ一人。
西州官吏たちの長、英隼人。
彼の機嫌を損ねることを恐れた官吏たちが、いつも息を潜め、できる限り避けて歩くその界隈が、今日はやけに騒がしい。
漏れ聞こえた声に、清心は嘆息。同時に、納得。
だから、呼ばれたのか。
「清心さま」
ゆっくり進む清心の背後で、鋭い気配。志貴。
ぴり。空気が帯電したような感覚。ほんのわずかな警戒で、これ。本気の殺意は感じるなり死にそうになる。
いっきに、向かう先にいる者たちの緊張まで高まった。
「大丈夫」
彼は刀術士。しかも、水無瀬家がつけた護衛だ。
彼と黒羽に予期せぬ誤解が起きては目も当てられない。双方へ、現状は清心が受け入れていると伝えておく必要があった。
第一、もめた黒羽は英家の手の者、刀術士は水無瀬家の人間となれば、
(要らない憶測を盛大に振り撒くようなもの)
「控えているのは、英家の黒羽たちです。身内ですので、問題ありません」
清心は、錫杖を持った腕を、わずかに上げる。次いで、少し強めに床を打った。
シャン。
鉄環が鳴る。清心の存在を知らせた。
たちまち、行く先の緊張が霧散。
「…ね?」
志貴が、素直に闘志を引っ込めた。
「しょうがないじゃん!」
室内に足を踏み入れるなり、必死の声が耳に飛び込んでくる。
「誰がどう見ても、場を投げ出した一の君が悪いよっ。だから二の君の冴香が接待の場で先頭に立つしかないの! 理解できるでしょ? 分かってるはずだよね? ならやりなよ!」
理解と納得は別だ。そんな葛藤を知らぬと切って捨てる声は、隼人のもの。
声の威勢のよさと裏腹に、椅子の背もたれを盾のように掴み、姪と対峙している。
障害物もなんのその、それ越しに冴香の手が叔父の襟を掴んでいた。
叔父と姪のはずが、弟と姉に見える。
「叔父上のことだ」
奈落の淵を這っている冴香の声。据わった目に、情はない。
「宴の成り行き、ある程度の予想を立てていたな」
「だから、しょうがないじゃん!」
繰り返す隼人。
「豚は小屋から出したって同じ豚だから、言葉は通じないもん! けど被害は最小限に抑えなきゃでしょっ!?」
豚…司のことか。
幼い雰囲気の遠慮ない暴言――――――繰り返そう、英隼人は三十八歳である。
(素の言葉遣いがここまで幼いのは、幼い頃はそれなりに甘やかされていたのだろうか)
出入り口付近で立ち止まる清心。とりあえず、静観。
今、声をかける愚は承知している。
壁の裏やら天井の上やらに感じる黒羽たちが固唾を呑んで見守る中、冴香は淡々。
「いつも、事前に知らせろと言っている。なぜそれができない」
「しらせたでしょ? 事前に」
「あれは『寸前』と言うんだ!」
とうとう、冴香が噛みついた。身を縮める隼人。慌てた様子で叫ぶ。
「ご褒美! ちゃんと御褒美あげるから、もうちょっと頑張ってよ」
隼人の襟首を掴んだ冴香の目に電光のように走る、苛立ち。
「いらん」
自由な方の、冴香の手が拳を作る。
平手ではない。
拳だ。
他人事として、清心は細く白い指を固くまとめた拳を見遣る。
力はなさそうだ。が、おそらく容赦もない。きっと痛い。
漂うのは、それが、いつ振りあげられてもおかしくない緊張感。
隼人の視線が泳ぐ。気の毒なくらい、頼りなく。一見、同情に値する姿。
だがあれは、かわいい愛玩動物の毛皮を着込んだケダモノだ。
その目が、見守る清心の姿を映した。とたん、青い顔の隼人が清心を指差す。
「なら、僕からじゃなくて、清心からの御褒美ならほしくないっ? ほら、清心。言って。なにか。さあ!」
内心、呆れる清心。家族間の話に、清々しいほど堂々、他人を巻き込んだな。
振り向く冴香。一瞬、きまずげな表情を浮かべ、
「叔父上!」
声を張る。隼人へ向き直った。
「お忙しい清心さまに、そんな頼みは御迷惑だろう!」
「じゃないよね!」
隼人が清心に念押し。冴香が止める前に、より大きな声で訴えてくる。
「やさしくしてあげて! がんばってる我が姪っ子にさ! 優しく、思い切りやさしくしていいから!」
おや。
乗ったわけではない。だが、魅力的な提案だ。
どれだけ優しくしたくても、冴香が嫌がるから、いつもできない。
つい、冴香に確認。
「いいんですか?」
すぐ、反省。だめだな。これでは、清心へのご褒美だ。冴香は嫌だろう。
彼女がぐっと言葉に詰まったのが、背中からでも分かった。刹那。
――――――ゴッ!
冴香は自分の額を思い切り、隼人の額に叩き込んだ。
どれだけの衝撃があったのか。隼人が目を回す。声もなく、その場に座り込んだ。へなへな。
なんとなく、冴香の拳を見下ろす清心。
真打ちが頭突きとは予想外だ。
ふぅ、冴香が息を吐く。満身にこもった熱を逃がすように。
振り向いたときには、いつもの冴香だ。
真っ直ぐ背中を伸ばし、清心の元へ大股に近付く。表情はない。
ただし、近付く速さにやけっぱちの勢いがある。
冴香も既に着替えていた。いつもの、地味な衣装だ。そして、ひっつめ髪。
二歩ほど先で立ち止まるなり、
「清心さま」
きりっとした表情で、
「申し訳ございませんでした」
深く、頭を下げた。
感心するほど、きれいなお辞儀。いや、謝罪? なぜ。
「広間で、わたし」
頭を下げた姿勢で、微動だにせず、冴香。
「清心さまの邪魔をしました」
邪魔。なんの話だ。素で思うなり、理解。
清心を庇った時の話だ。あれは。
邪魔とは違うだろう。
ところが、冴香はそう思っていない。
「優しくされるのは、違います」
聡明過ぎるのも、たまに問題だ。
それも、真面目な人間には。
「くださるなら、どうぞ罰を」
冴香には、なんの罪もない。
彼女は清心を庇った。浅はかな行動だったかもしれないが、それは、冴香の優しさだ。
悪意など、欠片も。
なのに、罰せよとは。
(ひどい話だ)
清心の心が、沈む。―――――あぁ、だが。…そうくる、なら。
「頭を、上げてください」
静かに乞う。冴香は微動だにしない。清心は言葉を重ねた。
「どうか」
…しばらく、して。
ゆっくり、冴香の頭が上がる。ようやく、顔が見えた。
ぐっと引き結ばれた唇。上目遣い。睨まれているようにも見えるが。これは。
叱られ待ち。
子供のころから冴香を知っている者になら、分かるだろう。
知って、いて。
あえて清心は、無言で見下ろす。表情も変えない。次いで。
彼女に、手を伸ばした。冴香が身を竦めた刹那。
頭に手を置く。そのまま、ゆっくり撫でた。
髪の感触と頭の形を堪能する。
「…、…??」
冴香の目がまん丸になる。盛んに瞬いた。
してやったりという気分とは、こういうことか。
さすがに、無表情など保っていられない。つい、微笑む。
「あ、の」
単に頭を撫でられている。その現状に、たまらず、といった態度で冴香が声を上げた。
「なにを、なさって」
「罰を与えています」
いつもの鋭さが消えた冴香に、真面目に応じる清心。一瞬、難しい顔になる冴香。すぐさま、唖然。
清心の言葉を繰り返す。
「罰」
「罰です」
清心は、しれっと断言。なにせ。
「普段、冴香さまはこのようなことは嫌がられるでしょう?」
清心は今、冴香が嫌がることをしている。ゆえに、これは冴香への罰だ。
なかなか、楽しい罰だ。嫌がらせとも言う。
意識を掌に集中する。ぬくい。
錫杖をもっているため、両手でできないのは残念だ。
不敬も不敬だが、望んだのは冴香。今回は、よしとする。
「それはわたしが、…だめになるので」
冴香の表情が、いつものものに戻る。顔色も変わらない。
ただ、唇がへの字になった。そして。
(…おや)
耳が。
みるみるうちに真っ赤になった。これは。
照れて、いる?
彼女の掌が、冴香自身の着物の袖を握り込んだ。意外だ。
それほど、いやではないらしい。
だが、言葉の意味がよく分からない。
「だめになる?」
なんとなく繰り返す。それは失敗だったとすぐ悟った。
冴香が珍しく、唇を尖らせた。拗ねたような、怒ったような顔で、目を逸らす。
「これってなんて言えばいいのかなぁ。自業自得?」
茶々をいれたのは、隼人だ。床に座り込んでいたのに、いつの間にか復活している。
「いや、役得ってのかな、サエちゃん、ねえねえ、嬉しい?」
清心は呆れた。
英隼人と言う男は、仕事を離れた場所では、基本的に紳士だ。特に女性には。
見方を変えれば、他者とそれだけ距離をとっていると言うことだが。
なぜか身内にはなれなれしいと言うか、図々しいと言うか。…繊細な配慮に欠ける。
いかにもこう、小面憎いのだ。
「…あとで、シメる…」
目を光らせた冴香の不穏な呟きを、清心は聴こえなかったものとして記憶から消した。
そろそろやめておいた方がいいだろう。
清心はそっと冴香から手を放した。
冴香の肩から力が抜ける。
姪の宣言を聴かなかったらしい隼人が、不意に真面目な顔になった。
「清心はこれから、迎賓館辺りの見周りでしょ? 行く前にさ」
額をさすりながら椅子に座る。
「冴香の足を診て行って」
こんにちはー、冴香さまに仕える黒羽でっす。
英家にじゃないヨー、冴香さまにだヨー。
だから執務室の周辺で控えてる英家付の黒羽たちとはちょっと立ち位置違っちゃってんだよね。
家長の隼人さまが承認なさってるから誰も文句は言えないの。
それにしたって、親子喧嘩っていうか叔父と姪にも見えない、この喧嘩。
見た目には姉弟喧嘩。
隼人さまは加害者なのに被害者に見えると言うお得な外見をなさっているから、冴香さま…媛さまはお気の毒なこと。
冴香さまは見た目に厳しそうだからなぁ。
いずれにせよ、冴香さまの正論に対し、隼人さまの無茶ぶりが勝つのはいつもの話だ。
媛さまも押しは強いんだけど、隼人さまはその上をいくつわもの。
どちらも譲らない。
今はまだ冗談半分だけど、お互い本気が入ったらまずいなぁ…いやほんと、物騒なの。
英家の親族間のマジ切れ紛争って、伝説モンでさ。
いっとき、親類一同根絶やしになった歴史、あるじゃない?
だから今、本家のみしか残ってないんだよ…こっわ。
せめて叔父側に大人になってほしい。
あ、清心さまが来られた。
十蔵もいるのに、その上また物騒な護衛が増えてる。
ともかくこれで、流れは変わる。
媛さまも隼人さまも清心さまには甘いから…、
って、あーっ!
女子がすることじゃない、頭突きは、女子の攻撃じゃない!
しかも媛さまの頭突きは、かつて黒羽を一人、脳しんとうで三日間、使い物にならなくさせた曰くつき。
まあでも隼人さまも同程度の石頭だから…いっか。
ひとまず、親族同士で血みどろの争いが避けられたことに安堵。
ただ、もう少し。
主一家には、大人になってほしい、と。
黒羽一同、願ってる。




