第六撃 和を尊ぶ
「無能が。掃討するまで呼ぶな。気分が悪い」
「申し訳ございません」
恭しく頭を下げる清心。
清々しいほど現状求められることと司の言動の方向性が違いすぎて、逆になにも感じない。
隣を、司が早足ですれ違う。直前で、斜め後ろにいた冴香が黙然と清心に倣った。
とたん、彼女の存在に気付く司。忌々しげに舌打ち。
「身の程をわきまえろ、妾の子が」
単純に、聞き苦しい。ただ、確信が持てた。
彼のどんな言葉も冴香には刺さらない。
知っている以上、司が気の毒ですらある。
「つ、司さまっ?」
「いずこへ!」
「宴はまだ始まっておりませんぞっ」
そのまま、次代さまは、広間から足早に出ていく。
清心とて、何がどう転ぶか分からなかった。
なるかもしれない、とは思ったが、可能性は低いと踏んでいた。
己の役目くらいは弁えているだろうと。
どうやら、甘かったらしい。
黙って座っていると言う最低限のお役目すら、司は務めず、投げ出した。
誰に挨拶するでもなく、逃げた。
司を慌てて追っていくのは、司の取り巻きだろうが。
隼人を見遣る清心。一応、確認。放っておいて、いいのか、と。刹那。
清心の背後で、風が巻いた。志貴。彼が、動いた。同時に、清心も感知。
―――――怪異だ。
意図的に開いた、結界の、穴。そこから。
ぞわり。
細かな黒い霧が湧きおこり、水たまりのような影となって、床を昆虫の動きで馳せ寄ってきた。素早い。
その動きに、志貴は、一手、先じた。
「ぎゃ!」
上がった悲鳴は、志貴に蹴飛ばされた司のもの。
落ちていたごみを邪魔と視界から消すような容赦なさ。
呆気に取られた間に、引き抜かれた太刀が、床に突き立っていた。
相変わらず。
抜刀がいつだったか、見えもしない。それでも。
切っ先が縫いとめたのは、影の末端。本体は床に縫いとめられたソレをちぎり捨てた。
とかげの尻尾切り。
思う端から、ソレは官吏たちの足の間を、蛇行しながらすり抜ける。
もんどりうった司には見向きもしない。怪異が向うは、広間の奥。
これでヤツの狙いははっきりした。
―――――東州王だ。
…いや?
その、間に、まずは。
清心が、いる。影は避けようともしない。―――――すり抜けるか?
正しく判断する間もなく、清心の目の前、白い布が翻る。これは。
「…さ、っ」
冴香だ。彼女が、清心の前に立ち塞がった。
両腕を広げ、庇うように。
彼女の行動に、清心の思考すべてが吹っ飛んだ。
考える前に、動く身体。
背後から冴香の肩に腕を回した。
細い。小さい。
胸の内に、簡単におさまる。
ぞっとした。
脆い身体。
…これは、
かんたんに、コワレル。…壊せる。
総身の皮膚が泡立つ。悪寒に。
いきなり、人影が脳裏をよぎった。
記憶の奥底から現れたのは、清心を庇って立つ、細い背中。
陽炎のように揺らめいたそれが、冴香の背に重なる。
誰だ。知らない。なんだ、この、光景は。
眩暈。
呑まれる前に、踏ん張った。
くそ。
止せ。
そんな。
…こんな、弱い身体で、清心の前に立つな。
思わず、抱いた腕に力が入った。罰するように。
息が詰まったような冴香の小さな呻きを耳の端に捕えながら、清心は。
じゃら。
数珠をまいた自由な方の腕で、簡略式の印を組む。即座に、結界が二人をくるみ込んだ。その、硬度に。
(あ)
臍を噛む。調整が、できていない。
一瞬、失った冷静さが清心から手加減を奪っていた。
メ、リ。
結界を中心に、影が分裂。捕まえ損ねる。
さらに、悪いことに、左右に分かれた。
(それならそれ、で!)
法力を板のようにして、ざくりと左右に突き立てる。斜めに。結果。
―――――影が、跳ねあがった。空中に踊り上がる。実体をあらわにする。
だがどんな力を持つのか読めない。
思った矢先。
ぼた、り。
ぼたぼたぼた、飛んだ軌道に沿って落ちる、蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛。
それが、影から離れるなり、泡となる。
次いで、それがこびりついた床が。
煙を上げて溶解。
酸。
「―――――はっはぁ!」
場違いに明るい笑い声が弾けた。翔だ。
その、空笑いめいた陽気さが、
「陰険、だな。…気に食わねえ」
一瞬で、落ちた。闇に閉ざされるように。酷薄さに満ちる。刹那。
空気を割く音。聞いたと思うなり。
―――――バンッ!
何かの破裂音。
清心は面食らった。何が起きたか、正確に把握して。
(…っこ、の!)
一方の影の塊が、水風船のように、弾け―――――る寸前。
清心は振り向く。背後に、冴香を押し込んだ。
正確に、新たな結界を張る。
翔が叩き割った影風船の周りに、丸く。
すべて、ほとんど同時にやり遂げた。直後、飛び散る酸。
だがそのすべて、結界内で受けとめられる。
なにも溶かさなかったそれが、ばらりと蜘蛛となって、再度解けた。
合間に、翔の手元に、蛇のように鞭が戻る。彼は、最初にいた位置から、一歩も動いていない。
涼しい顔で、清心を見遣った。
翔は修羅場の前線に位置する、水無瀬家の刀術士だ。結果まで計算の内だろう。
巻き込まれる側の迷惑は、絶対考えていない。どころか。
清心が失敗していれば、翔は清心を責めたろう。
どうしてうまくやれないんだ、と。
経験から知っている。
そういう、男だ。
もう片方が向かった先には、東州王。
逃げるどころか、東州王は平然と座している。
彼の隣に、少年の斎門が一歩踏み出す。
そのまま、数珠を絡めた指先を、前方に突き出した。次いで、
「玉」
一言。とたん。
ぎゅる。
無理やり、何かを締め上げる音。見れば。跳ねあがった影が、一瞬で、球状に圧縮。
清心が鼻先に風を感じた、と思うなり。
眼前、小さな背中が上から下へ落ちた。着物の色、からして。
(…王弟?)
彼は、東州王の背後に控えていなかったか? ついさっき、それを見たばかりだ。
何が起こった。
すぐには理解できない状況の中、清心の目の前、低く腰を落とした王弟の手元、抜刀された時雨が見える。
既にそれが振り抜かれた後だと気付いたのは、圧縮された球状の影が二つに割れた時だ。
どろり。中身がこぼれるか、と見えた時。
それは刹那の内に、塵となって消えた。問答無用の、消滅。
不思議に思うなり、反射した刃の輝きが、答えを示す。
なるほど、これが。
―――――白鞘村の太刀。
「お尋ねします」
涼やかな声が、不意に広間に響いた。
東州王のそばに控えた、斎門の少年が清心を見ている。
一度、自身の掌を見下ろし、彼は真っ直ぐ、清心を見つめた。
「あれは事実、怪異でしょうか」
…勘のいいことだ。
正確にはあれは、怪異ではない。紡ぎ人の技。
清心を見つめるのは、思わぬほど、素直な瞳。ひたすら、幼い。
傲慢さは、砂一粒もなし。意外だ。
この歳で御門の名代なら、もっと、居丈高かと。
「先ほどは、分かりやすい伝え方を選んでそのように言いましたが、正確には」
清心も丁寧に応じる。
「紡ぎ人の技でしょう」
とたん。
微かに。
ほんの、微かに東州王の妃、清音の身が強張った。
彼女の反応に、言及すべきか否か、迷った一瞬。
首筋がぞっと泡立った。
清心と同時に反応したのは、清音と清貴。意味を、考える前に。
清心は、東州王の前に仁王立ち、数珠を絡めた手を、口元に持ち上げ、
「禁」
鋭く吐き捨てた。途端、
―――――バ、リッ
薄氷が割れるに似た音を立て、清心の腹付近で、ガラスにひびが入ったような光がきらめく。
網のように広がったそれに捕らえられたのは、
(弾丸)
火薬のにおいが、鼻先に触れた。
だが、ただの弾丸ではない。これにも、術の気配がある。
先ほどの酸の蜘蛛と同じ。
ただし、弾丸が変化する類のものではない。
銃撃が、確実に対象に届くよう後押しする術だ。威力も桁違い。
ただ、作用している力の気配が同じ。
静也。彼は、どれほどの仕掛けを施したのか。
まずもって、さきに大騒ぎを起こした理由は、これだろう。
目をそちらに集中させ、防ぎきることで、油断したところに本命の攻撃を叩き込む。
何段かに渡る仕掛け。
単純かもしれない。ただし、何はともあれ、連撃だ。
うまくはまれば、ひとたまりもない。とはいえ。
なんにしても。
紡ぎ人の彼が、面と向かってヒガリ国の王たちに喧嘩を吹っ掛けたわけだ。
危ない橋。
単純にそう言う以上に、危うい意味を、この行動は含んでいる。
ことは、紡ぎ人すべての上に及ぶ。
彼の本音はどこに。
考えても、仕方がない。今、できることは。
数珠を絡めた手を、真横へ打ち払う清心。
ぎゅる、円盤のように、法力の網が回る。
それが、しっかりと弾丸を絡め取り―――――潰す寸前、ふと考えた。
悪戯心に似た思考が脳裏をかすめる。
理は異なるが、今、手の内にある術式なら、読み取れた。
仕組みを感覚として理解する。ならば。
対象を上書き―――――書き換え、そのまま返してやろう。即断。同時に決行。
「行け」
命じる。
とたん、真逆に向きを変えた弾丸が、防いだ威力ごと、猛然と窓の外へ飛び出していく。
…手応え、は。
あるような、ないような? よし、あとは丸投げだ。
隼人が調子はずれの口笛を吹く。
「へえ! 清心。今きみ、『返した』感じ?」
幸い、こういう後始末が得意な相手が声をかけてきた。
清心はにっこり。隼人は肩を竦める。
「はーエグい行動の後に、その無害さ全開の笑顔。人間不信になっちゃうよ、こっちは。…はい、あとは頼んだよ、翔―」
「こっちに丸投げるな。あんたも黒羽を出せ。おい、衛兵!」
言わずとも理解してくれるとは、有り難い。
うまくいけば、射手を生け捕れる。
もっと希望的観測を口にしていいなら、情報も得られるわけだ。
「さっきの」
窓の外を見遣り、ぼんやりと、東州王の義弟が呟く。
「弾丸でした、ね」
誰にともなく、確かめるように。
声に宿るのは、ほんの少しの戸惑い。
王弟の故郷がどうやって滅びたか、噂で聞いている以上、迂闊なことは言えない。
清心がくちにできたのは、無難な、どこか的外れな言葉。
「弾丸の形からして、北の辺土のソマ人が使う狩猟用の銃が使用されたのでしょうね」
ハッ、と鋭く笑ったのは東州王だ。
「俺は狩られる獣ってわけか。なんにしろ、…ふん、銃、な」
彼の不敵な独り言に、いきなり悲鳴に似た声がかぶさった。
「こんな場所にいられるか! 戻るぞ!!」
蹴られて転がっていた司だ。
ばたばたと立ち働き始めた衛兵たちの合間を縫って、広間から飛び出してしまった。
―――――誰も引き留める声を上げない。分かりやすい状況だ。茶番とも言う。
東州王が白けた声を上げた。
「噂以上だな」
清心は顔を上げる。東州王は、彼を見ていた。真っ直ぐな目。
視線は、痛みを感じる重さ。どうにか、見返す清心に、
「で? 主役を追いだして、どうするつもりだ」
「…ですが、西州王は未だ顕現しておりません」
冷静に口を挟んだのは、隼人。
「即ち、吉良家の者は、皆、主役」
年齢が分かりにくい童顔に、懐っこい笑みが浮かんだ。
皆、この笑顔に騙される。
促す視線に、清心は頷いた。広間の中央付近で立ち止まったままだった少女を手招く。
聡明な彼女のことだ。これで流れは読めたろう。
「こちらは、吉良家、二の君、冴香さまにございます」
冴香は一瞬、尖った視線を広間の奥へ向けた。実の叔父。隼人へ。
本当に、一瞬だけ。
すぐ、颯爽と進み出た。毅然と、挨拶。
「吉良冴香と申します。以後、お見知りおきを」
淀んだ空気を打ち払う態度。
やはり、深層の姫君という雰囲気はない。
男前と言っていいような、涼やかさ。
いつだったか、隼人が嘆いていた言葉が頭の片隅を過ぎった。
アレだから、兄貴なんて言われるの。
ほ、と東州王が息を吐きだした。
感心したのか。
呆れたのか。
少なくとも、興味は抱いたようだ。
何か言いたそうにした彼を遮るように、
「まあ」
嬉しそうに弾む声が鼓膜を震わせる。
東州王の隣でおとなしく座していた奥方だ。
東州王の腕にひっつくようにして、彼を共に立ち上がらせる。
「お初にお目にかかります、わたくし、清音と申します。こちらの」
言いつつ、東州王の頬を軽く突ついた。
王が憮然と見下ろすも、臆した様子はない。
「東州王・御堂義孝の妃です。今この場で被衣を取って挨拶できない非礼をお許しくださいませ」
それはある意味、仕方のない話だ。
基本的に、上﨟の奥方である女性は、公の場で顔を出すことは無作法とされている。
…守っていない者も多いが。
「女同士、仲良くしてくださると嬉しいわ」
東州王の妻は、和を尊ぶ。何より、聡明。
この辺りが落とし所と判断したのだろう。
話を進める態度を見せてくれたのは、有り難い。
この感覚ってなんだろうね?
うん、ぼくは英隼人なんだけど。
悪い方へ転がっているようで、同時にいい方向にも転がってる感覚がある。
真逆のことのはずなんだけど、ねえ。
見える、掴める、その範囲から外れたところで、何かが動いている感覚がある。
悪漢の蠢動って言う、水面下の動きってヤツじゃなくって。
ああ、そう。
斎門がよく言う、星の動きってヤツかな、これ。
全部をつなげてる大きな意志が、人間程度の思惑じゃ届かないところで動いている感じ。
現実感覚大事の文官なんかが、運命とか信じるのかって?
ふん、甘いね。
これでも、ぼくって誘われたことあるんだよ。
御門さまに。
斎門にならないかってね。
どうもそっちの才能もあるらしくってね、参っちゃう。
東州王がそれを加速させた感じ?
なんにしろ、近いうちに答えは出るでしょ。
きっと、これは。
西州王の即位に関わってる。




