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封神草紙  作者: 野中
第三部/第一章
72/87

第七撃 ままならない


―――――認めさせてやる。


呟きが聴こえた。遠くから。次いで。



突如、大音声の狂った笑い。意識を貫かれた清心は、頭が割れるかと思った。



―――――認めろ、認めろ、認めろ、無視などさせない、私は。






いる。ここに。






逃げを打つ、清心の意識。根性で、踏ん張った。なにせ。


これだ。これが、核。あの、蛇体の。だが。



認めさせたい? 誰に。何を。



清心には、理解できない。なにせ、どんな執着も。

簡単に、失ってしまう。理由を、見失ってしまう。




記憶一つ、なくなってしまえば。




―――――何もないのと、同じこと。


不意に、清心の脳裏で幼く、疑いを知らない声が響いた。










―――――早く帰ってね、ぜったいよ?



ままならないことだ、すべて失ってもなお。




感情だけは、残っている。




帰りたい。そこへ。待つ人が、いる場所へ。










記憶を失っても、ずっと消せない感情が湧きあがる。足を取られた。座り込みそうになる。

無情を承知で、それを横目に、清心は手を伸ばす。核へ。


この感情すら、―――――なんのきっかけで失ってしまうともしれない。


そう思えば、自分の感情でも、他人事のようだ。簡単に浸れなくなって、もう何年経ったろう。それよりも。今は。

目の前の、ことを。



芯まで、濁ったモノに触れたと思った、刹那。


ぞわり。意識の繊毛をなぞるような悪意の視線に、胃の腑が縮んだ。



何かに見られている。逃げを打つ蛇体にではない。もっと、攻撃的で、憎悪に満ちた。

目。


陰鬱な視線を手繰り、見上げた瞬間。






「邪魔だ」






待ち構えていたのは、奈落めいた眼差し。ついさっき、見た。

静也。

そう、名乗った青年のもの。清心の意識を、追いだそうとしている。彼の、力の質は。

察するなり、驚いた。



「…紡ぎ人…っ!」



間違いない。どこまでも異端の、この技は。

鋭く息を吐きだす。放っていた意識を、肉体へ弾き戻した。


その、一瞬の、間に。


放つ。相手の存在へ向かって。清心が一瞬掴んだ蛇体の核。そのおぞましい思念を。

紡ぎ人の教育を受けた者が真っ向から受け止めてしまう事態は起こらないだろうが、怯ませることくらいはできる。

はず、だ。


やれたのは、そこまで。


ぐらり。身体が傾ぐ。ぐっと踏ん張った。屋根の上。倒れそうになるのを堪える。

あの目は、間違いない。静也と名乗った青年だ。


彼は先ほど、南方の連合の商人と言われる宵宮の護衛のまねごとをしていた。



どういうことだ。ヒガリ国の紡ぎ人が他国の者に仕えている?



紡ぎ人は、その性質上、保守的な気質だ。血が有する特異の力のため、迫害もされる。

よって滅多に人里へは現れない。だがこの力は間違いなく。

「清心さま」


隣に誰かが立った。音もなく。志貴だ。


「消えた」

地面を見下ろせば、蛇体の姿はもうない。代わりに。

ちり。首筋が、泡立つ。

危機はまだ、去っていない。新たに、迫っている。


休む間もない。考えるのは後だ。息を吐きだす。背の痛みを逃がし、地面を示した。


「備えてください」

低く呟く。




「来ます」




何が、と志貴が一瞬、目を上げる。だが。

鋭く、少年の視線が戻る。蛇体が消えた場所へ。目が据わった。なのに。唇が。


笑った。





無表情から―――――獣の表情へ。





地上。はじめに見えたのは、焔。青白い。―――――火炎。

ちろり、空気を一瞬舐めたそれを中心に、空気が波紋のように撓んだ。


出現の合図だ。あの、蔵虫の。


今、飛びおりれば、出現前に空間を閉ざせる。思った刹那。








目に映ったのは。―――――限界まで開かれた、赤い顎。


その瞬間に、傷が付くようでは。…とっくに清心はこの世から消えている。

思考が止まる。代わりに。身体が反応。


清心は、錫杖を矢の勢いで前方へ突き出していた。


自身の動きを認識したのは、動いた後。








ギャンッ!


悲鳴じみた、鳴き声。一時、炎の獅子が後退。錫杖が、喉奥を衝いたのだ。

隙ができたのは、ほんの刹那。すぐ体勢を整え――――――る寸前。





っ!」





逃げる獅子の肉体を追っていた志貴が、太刀を真一文字に薙ぎ払う。いつの間に。


刃の軌道は、顎を上下に引き裂くもの。

捕らえられる、間際。獅子が、空中でもんどりうった。そう、空中だ。



巨体を浮かばせたまま、体勢を立て直す。散る、焔の飛沫。これが、厄介なのだ。



こんな町中で、この蔵虫を暴れさせるわけにはいかない。起こるのは、大火事。

阿鼻叫喚の地獄だ。



清心は地上を一瞥。やはり、蔵代の気配はなかった。なのに。



蔵虫に目を戻す。なぜ、どこから、どういう理由で現れる。

蔵虫が低く唸った。双眸は、清心を捕らえている。


時折、その目が清心の足元へ向かった。



そこには、志貴がいる。獣のように身を低くして。



少年には、驚くほど気配がない。殺意すら。そのくせ。

号令次第でいつでも飛びかかる、そんな熱気が膨らんでいる。




つくりもののようにうつくしい面立ちに浮かぶのは、無表情、だが、生気に満ちていた。




なるほど。蔵虫は、警戒しているのだ。この少年を。おそらくは。

昨夜と同じ蔵虫だろうから、余計に。


昨夜、志貴から叩き込まれた痛みは、臆病になるには十分だったらしい。







聞いた話によれば、東の王弟将軍は、単騎で蔵虫を葬るそうだ。


志貴はおそらく、彼に匹敵するのではないか。







残念だが、今は。

戦うべきではない。場所が、場所だ。それでも周囲に人の姿が見えないのは。


(水無瀬さまか…?)


物見高い翔が、この場を放って逃げ出すわけがない。なのに気配が近くにないのは。

人払いに尽力してくれているのだろう。




炎の獅子を前に、清心はゆっくり呼吸。時間をかけるわけにはいかない。




蔵虫がここに現れたということは。…追っているのだ。

蛇体を。もう、確定だろう。


厄介な、と座り込みたい。寸前、自身を鼓舞。


それならば、それで。利用、するまで。

「アレは、もうここにはいません」

清心を阻んだ相手に、さらなる意趣返しをしておこう。

先ほど、蛇体の核を半ばまで追った、異界の道。


感覚としてしか掴めないそれを、蔵虫に開示。



「いるとすれば、ここから先へ」



どのように、見せたのか。そう訊かれたら、困る。ただ、意志として伝えた。

それだけで、十分だった。




蔵虫は、惑わない。過たず、道を捕らえた。

もう、清心たちには目もくれない。飛びこむ。姿を消す。


どうやら、清心に興味を持っているようだったのは、蛇体の気配をまとわりつかせていたからのようだ。


寸前、法力の微かな網を、清心は放った。

どうせ、引きちぎられると分かっていても、やってみた。

ここで、戦うことは、かなわないが。


情報が掴めないか。なんでもいい。どんなことでも。何か。そうすれば。


少しでも、状況を有利に持っていける。

ただし、欲をかいてはならない。でなければ、待つのは自滅。

ほとんど、望みなどかけていなかったが。


(なに?)


その声は、子供のように素直に、清心に届いた。






―――――怖い怖い怖い怖いこわい…こないでっ!






最初、認識が間違っているのではと自身を疑いそうになるが、間違いない。

これは、先ほどの恐ろしげな蔵虫が放っている叫びだ。


ちいさな子供が夜道で惑うように、頼りなげな叫び。これを。




あの、おそろしげな蔵虫が放っていると言うのか。まるで、いじめられっ子だ。




唖然と呟く。

「…なんだ?」

追っている側の蔵虫が、逃げたいと泣いている。で。

追いかけられている蛇体の方が、―――――あれ、とは?


清心は真顔になる。状況が、読めない。


足元で身構えていた志貴が、緊張を解く。完全に、危険が去ったのだろう。

無防備に、清心を見上げた。同時に。




「清心さまー、もう大丈夫かー?」

地上から、声。手を上げて応じ、清心は心の中で嘆息。状況の真相はますます闇の中だ。思わずボヤく。


「困りましたね」

屋根から飛び降りた清心に志貴が続いた。翔が呑気に尋ねる。




「へえ、天下の清心さまでも困ることがあるんだな?」


「ええ、あらかた、予想が当たっていたので」

予想外の状況もあるが、さしあたっての問題は。



蛇体は目立ちたがっている。間違いない。



先日は、夜の遊郭街に現れた。そして、今日は。

商店が一番賑わっている頃合いに。


ならば、次に現れる時と場所は。






「蛇体の怪異が次に現れるのは、東州王来訪の時です」


他人事として考える。さあ、どんなお祭り騒ぎになるか。






「おいおい」

翔が清心から身を引く。心ごと。


清心そのものが不吉のように。

「なら、この区画にまた現れるか? ここは州府につながる大通りの道なりに沿っているし、…あ、けど」


「蛇体は同じ場所には現れません」

そう聞いている、と一度相槌を打った翔が顔色を変えた。

「じゃあ。…まさか」






彼は振り返る。視線の先には、はるか向こうにそびえる州府。清心は頷く。極力、何でもない風情で。






「次に現れるのは、州府で間違いありません。そして」


嫌なものを我慢するように、翔は唇をへの字に引き結んだ。




「あの蔵虫は、蛇体を追っています」




一番危険なのは、おそらく。州府で、東州王を歓待する時。次いで。

―――――霊山で、州王継承の儀が行われるときだ。もう開き直るしかない。


ああ、大惨事。


熱でも上がったか、翔が額を掌で押さえた。



「詰んでるな…」



「まあ、最悪」

まったく、出現時期と場所が読めないよりはましな状況だ。


慰めにもならないが。





「死者は出さないように頑張りましょう」


人のざわめきが戻ってきた街中で、モラドリが平和に鳴きながら頭上を飛び去って行った。








水無瀬志貴。

いらないものに、名をつけた理由はなんだ。

なぜ、と尋ねたことがある。興味もないのに。

知らないと父は言った。名付けたのは母だと叔父が教えてくれた。

志貴を産むなり、死んでしまった女性。

身体が弱かったそうだ。

極上の容姿にすべての運を使いきった、儚い女性。

いっとき、彼女に入れこんだ父が、無理やり奪ったと聞いている。

母にとっても、志貴は望まぬ子だったはずなのに。


正妻たる立場の女性が、志貴を見る目。

それですべてを察した。

志貴が疎まれるのは、母に似ているからだ。

彼女が志貴の生殺与奪の権利を持っているのだ。

それでも、まだマシだった。父親に至っては、志貴になんの興味も持っていない。

ただ、志貴が持つ、武門の才だけには、異様なほど執着した。

よって、その血が残されることだけは、欲している。

望まれたから、と言う理由だけでなく。

志貴も、楽しかった。

戦闘の中にいれば、血が滾る。

生命を、実感できる。

他者のいのち。自分のいのち。

危険が募れば募るほど、眠っているような意識に、張りが生まれた。

血の雨が好きだ。あのぬくもりが。逆に、冷めてくる感覚は嫌いだ。

獣となっていられる間は、何も考えなくてすむ。


ずっと、戦いの中にいられたらいいのに。


その、ささやかな望みも、そろそろ終わりらしい。

秋波を送ってくる女たちの群れの中へ連れて行かれた時、そう感じた。

ああ、もう処分の時期か。

何の感慨もなく、適当に女性の手を取ろうとした時。

ずっと、考え込んでいた叔父が、いきなり起こった騒ぎの渦に、嬉々として叫んだ。


「清心さまだ。あのヒトなら、間違えない。お前と言う純粋な暴力を、誰より正しく使ってくれる」


楼閣の二階から、路上に立つ斎門を、叔父は伸びあがるようにして指差した。

清心さま、と声をあげる。

騒ぎの中、呼ぶ声を正確に聞き取ったらしい斎門が、騒ぎの最中、場違いなほど穏やかに顔を上げた。

「お手伝いは、いりませんか」

路上。焔の獅子と対峙した彼は、大変な様子もなく静かに乞うた。

「では、お願いする。助力を」

長身が纏った墨染の衣が、翻るさますら、呑気に見える。

それでも、危地には間違いがなく。

獅子が牙を向いた刹那、志貴は迷うことなく飛び降りていた。

あまりに、危なっかしかったから。

戦った、と言うよりは。

守った。

うまれて、はじめて。

思えば。


誰かを助けるために太刀をふるったのは、これがはじめてだった。


不思議だった。

今までと同じことをしただけなのに、あの騒動の後、大勢の者が志貴に礼を告げるのだ。

かつて、そんなふうにされたことは一度もない。

面白い、楽しい、と子供が与えられた唯一の玩具に夢中になるように、鍛えた戦闘技能。

それに、感謝されたことなど、…一度だって。

あのとき、叔父が言ったことを理解する。


清心さまは、お前を正しく使ってくれる。


自身が間違っていたとは思わない。

ただ、何かが食い違っていた。

それを、志貴は思い知った。

どこがどう、とは、まだよく分からない。

だが、湧いた、この違和感の正体を。

掴めるのかもしれない。


清心に従ったなら。


…いいの、かもしれない。

志貴が、存在していても。

産まれたことだって。

要らないと繰り返し言われ、そう思い込んでいたけれど。

いつか、言えるだろうか。

胸を張って。


生きていたい、と。


名付けられた理由。

あるともないとも、もう知れないけれど、もしかしたらそれは。

母には、情が少しでも、あったのかもしれない、と。

今なら、思うことを自分に許せる気がした。


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