第六撃 此の世と彼の世の境
× × ×
神は夢路の奥に住まう。
ゆえに、古き人々は、その場所を夢蔵と称した。
夢蔵へ至る道を、蔵代と言う。
蔵代は、現実と夢蔵の接点だ。此の世と彼の世の境、泡沫の場所。
ヒガリ国では祠を建て、梵鐘を吊り下げ、それ以上広がってくれるなと楔を打ち込む。
ただし、この北境辺土では。
『梵鐘が見えないね。音もしない。北境辺土には、蔵代がないんだ?』
夕飯時、月子が訊いてきたのを思い出した。僕は月光も差さない森の奥で、顔を上げる。
あるにはあるよ、月子。
視線の先で、何を孕んだか、大樹の洞が今にもはじけそうなほど膨れてた。
そこに、糸巻きの糸みたいに幾重にも蔦が絡み、巻き包んでる。
森の奥、聖堂みたいな荘厳ささえ漂わせた、巨大な緑の繭。
やさしい揺り篭めいた、この緑の繭が、北境辺土の蔵代だ。
ガシャグの洞って呼び名は、僕も今日知ったばかりだ。
以前聞いた時は、この先に、クワラ、即ち夢蔵がある、としか言われなかったから。
母に抱かれた赤子みたいに森に抱かれ、繭はしずかに安定してた。
当たり前の、自然の一部に過ぎない顔で。
実際、一部に過ぎないんだ。
僕は一度ならず考えた。
北境辺土とヒガリ国、蔵代の状態がここまで表情を変えるのはなぜだ?
北境辺土の蔵代は大樹と同化し化石となる。
ヒガリ国の蔵代は常に息づき不穏を撒き散らす。
鍵になるのは、人間の生活だ。おそらく。
ヒガリ国は、蔵代に人間が近すぎる。
僕は足を止めた。
外へ出てきたのは、ほんのちょっと前だ。
隣に眠る月子と、泊まってた蘇芳と北斗を起こさないように、慌てて羽毛服を引っ掛けてきた。
一人にならなきゃいけなかった。目が覚めてしまったから。
夜中に目が覚めるのは、僕にとって激痛の前兆だ。
持病、とも言えるだろう。
それは、体内を業風みたいに吹き巡る。手がつけられず、治療法もない。
こんなこと、できれば人には知られたくなかった。
…痛みの、正体を思えば。
僕が、身体の底まで汚れきってるってことだから。
ついさっきまで走れたが、そろそろ限界だ。
思うなり、逆さに吊るされ、血を吐かされるみたいな痛苦が全身を支配する。
足から力が抜けた。崩れ落ちる格好で、僕は木の根に座り込む。
冷や汗が止まらない。
銃剣を抱え込んで、丸くなる。
荒い息を吐いた。
寒い中、白い息が頬を撫でる微かな触感も、
「痛…」
気を抜くと、のた打ち回りそうだ。
咄嗟に腕に万力を込め、己を拘束。
声を堪えた。息を止める。
歩くどころか、身動ぎもできない。石みたいに硬直して、満身の激痛をやり過ごす。
鼓動にあわせて脈動する痛みが、身体を絞り上げる。骨が軋む。
明かりがあれば、僕の肌に、赤い痣が見えたろう。
蔦みたいに全身に絡んで、各所で大輪の花を咲かす、…赤い痣。
身体の中まで見たことないけど、内臓もそうなってるかもしれない。
赤い――――ぬめるみたいな血色。
これが、かつて夢蔵へ踏み入って以後、七年間。
僕を、苛む呪い。
赤闇の呪いって呼ばれて、忌まれるものだ。
赤闇ってのは、にじみ出た夢蔵の空気と現世の空気が入り混じり、猛毒と化したもの。
触れた結果が、今の僕だ。
神とはなんだと問われ、明確な答えを持つものはいない。
とりあえず、生と死をつかさどる者であることは間違いない。
夢蔵の神は、その両手の武器で、気に入らない僕を弄んでるんだろう。
蘇芳は、僕には、死の気配があるという。
赤闇の呪いを僕に与えた神は、いい加減、僕を嬲るのに飽きたのかもしれない。
予測はしてた。
波が来るたび、確実に根深い痛みになって…症状が進行してる。
大きな剣山で僕の身体を左右から挟み、ゆっくり噛み合わされてくみたいな。
耐えられなくなったら、死ぬんだろう。
ガズには、偶然知られた。
口止めしたから、他の誰も知らない。
いや。僕は、頬を緩めた。あと一人いる。懐かしい面影が、脳裏を掠めた。
東州の、友人。知られたから、心配させてしまった。
別れるとき、もう、会うことはないから、心配で胃を痛めることはないって言ったら、殴られた。いいヤツだ。
はた、と我に返る。頭を振った。
切り捨ててきた相手を思うなんて、それだけで相手を怒らせそうだ。
僕は、体内の空気全部入れ替えるみたいに息ついた。
拳を握る。体調を確認。
痛みはまだ体奥に居座ってるけど、頂点は過ぎてる。
よし。
立ち上がる。振り向いた。
「…お待たせしました」
銃剣を肩に担いで、声をかける。
五つ数えた後、シュロス樹の後ろからひとつ、人影が現れた。
闇に慣れた目でも、影としか認識できない。北境辺土の闇は濃い。
「キミ、月子を追ってきた刺客の一人、ですよね?」
家を離れた僕を追ってくる気配には、気付いてた。
八割、撒こうと思ったが、途中で気が変わった。月子たちは何も話さない。
なら、この敵から聞き出してやれ。
僕は敵に呼びかけたのは、気紛れ程度の軽い思惑。なのに。
妙だな。
僕はしかめっ面になった。
通常、刺客ってのは、斥候・密偵役の黒羽や斎門が受け持つ仕事だ。
ところが現れた人影は、そのどちらの気配もない。
むしろ、かつて僕に身近だった、清廉な雰囲気がある。
蘇芳は、跡目争いは起きてない、と言った。
起きる以前の問題だ、とでも言いたげだった。なら。
何が起こったなら、こんな相手に追われる羽目になる?
「…貴様、何者だ?」
僕の耳朶を打ったのは、禁欲的で一徹な声。