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封神草紙  作者: 野中
第三部/第一章
68/87

第三撃 兄貴

清心は、無言で踵を返した。

立てかけていた錫杖を手に取る。

「ひとまず、声をかけてみよう」


「うん、体調を聞いてさ、また、連絡ちょうだい」


気の早いことを。うまく話せるかも分からないのに。なにより。

清心はため息。

「冴香さまとあなたは同じ家に住む家族だろうに」


「だから余計頑なになっちゃうのさ。手に負えないよ、もー」

勝手なものだ。

善処する、言い置き、官長の執務室を後にする清心。


控えた衛兵たちが頭を下げる。それに頷き返し、廊下を進んだ。


その背に、まだ生癒えの傷があるとは思えない足取り。

見渡すが、周囲にはもう、冴香の姿はなかった。が。

行き先なら、分かる。


彼女は、部署の主任といった立場だ。戻る場所などひとつしかない。


官吏たちの執務室へ足を向ける。と。

向こうから歩いてくる墨染の衣が見えた。目が合う。


あからさまにしかめられる顔。毎日太陽が昇るのと同じだ、変わらない態度。構わず、清心は挨拶。




「おはよう、鉄心」


「…恥知らずが」




返ったのは押し殺した声。互いに、歩調は変わらない。

「鞭打ちを受けたそうだな」

「耳が早いな」


「破門の話がでているぞ」

鉄心は忌々しげ。

彼は言わないが、斎門たちからの清心への苦情は鉄心に来ているのかもしれない。


できの悪い兄弟弟子で申し訳ないことだ。


「いかにお前が御門さまの寵を受けていようと知るものかとな」

「どうなろうと、私がやることにかわりはないさ」

距離が近づく。


いつもは陽気な鉄心の眉間のしわが深まった。



「うつけ」



一際強く、鉄心は錫杖で足元を叩く。

シャン、鉄環が雑念を払う音を立てた。


間近からの音の波紋に、清心の眉間辺りが疼いた。


「昔の修行熱心だった貴様はどこへ行った? なにが貴様をこれほど変えた」


変わったつもりは、清心にはない。だが、斎門の誰もが言う。





清心は変わったと。





「きっかけがあるはずだ」

言いつつ、答えを待つでもなく、鉄心は清心とすれ違う。


清心の答えも変わらない。




「もとより、私はこうなのだ」










清心の記憶は欠けていた。

おそらくは、十四、五歳の頃、西州を訪れる前の記憶がないのだ。



清心という名は、西の御門がつけた名。斎門としての。



ゆえに、修行に明け暮れた。

書。体術。法力、神通力。

日常生活においても、見習いの、炊事・掃除・洗濯から、貴人に対する細かな作法に至るまで。


失った記憶の埋め合わせのようなものだったかもしれない。

にも関わらず。


ある日、清心はすべてを投げ出した。




積み重ねた同僚からの信頼もろとも。











きっかけ。


が、ないとは言えない。



だが、説明しにくいものだった。



とはいえ、今の清心が、以前と比べて彼自身の核に近い感覚は確かにある。






―――――誰かも分からない声が呼んでいる、帰らなければ、とのたうち回るほどの焦燥は消えない。それでも。そう。


清心は、『こう』なのだ。






鉄心の言葉は、それ以上はなかった。

清心と見るや否や、避ける他の斎門を思えば、まだ鉄心は甘い。優しい。



清心を、理解しようとしている。



離れていく足音に、清心は穏やかに微笑む。


彼もまた、西州の怪異に奔走する一人だが、有能であるため、清心と違って、本山にこもって後進の教育に当たることが多い。

なのに、州府に来ているとは。本山で何かあったのだろうか。


何が起ころうと、西の御門がいる限り、西州の神事は盤石だ。


振り向きもせず、清心も進む。

目的の場所へ、真っ直ぐ向かった。



入り組んだ州府内。廊下の果て。目当ての場所を見つけ、清心は気を引き締めた。



今、大事なのは、目の前のことだ。

雑念を追い払い、目当ての室内に入った。

さて。











吉良きら




その名から、西州王を連想できないものは、役人を辞めた方がいい。


吉良冴香きらさえかは、前西州王の娘にして、前宰相の孫だ。



西州の役人たちから裏の権力者とみなされている英隼人にとっては、姪。



いっさいを隠さず、実力で官吏の試験を通り、十三で職務に就いた彼女には、当時、豪族たちの間で猛烈な物議をかもした。無論、同僚たちからもだ。姫と言えば聞こえはいいが、深層の令嬢などただの無能。ほぼ戦場に等しい現場にとってはお荷物・邪魔者に過ぎない。





それらを実力で黙らせるのに、一年。


影で泣いていたのも知っている。激務に文句も言わず、彼女は歯を食い縛って堪えた。


十八の今では州府のひとつの部署の主任である。





彼女をよく知るものが見れば、狂気に駆られたように死に物狂いだったと見えたろう。

大の男でさえ数日で根を上げる仕事内容。


それらを、彼女はやり遂げた。鉄面皮で。動揺なく。容赦なく。徹底的に。


間違っていることはたとえ上司相手でも鮮やかにやり込め、課の粛清まで行った。




政敵でもあんなえぐい潰し方はしない、と評したのは叔父の隼人。ついた通り名が。




才媛。鉄の女。そして。











「あ、清心さま!」


市井の問題の解決に狩り出される主な斎門の清心は、冴香の部署の人間とは顔見知りだ。

部署にふらりと現れた清心に、彼等は満面の笑みを向ける。

戸口に近い席に座る青年は、いつも笑顔だ。


だが、この時の笑顔は、何やら必死だった。



忠犬の勢いで駆け寄った彼に首を傾げる清心。



「いかがしました」

「兄貴を助けてください~っ!」

彼は、清心の法衣を縋るように掴んだ。小声で叫ぶ。

部署の奥を見遣った。




…そう、兄貴。




冴香の通り名の中でもひときわ異彩を放ち、かつ流布しているのが、コレだ。


今や違和感は皆無の頼もしい文官が吉良冴香という娘。とはいえ。






部署の奥。主任席に見えた複数の人影に、清心はわずかに気を引き締めた。

冴香と対峙している顔色の悪い男は。


―――――吉良司きらつかさ。冴香の兄。即ち。




次期西州王。前の王の一の君だ。今は暫定的な王の地位に立っている。




数日後に控えた式点で、正式に王を名乗る予定の青年。とはいえ。

青白い顔色。血走った目。浮き出た隈。乱れた息遣い。


まだ二十歳と言うのに、油断した中年のようにたるんだ体型。


せめて服装でもきちんとしていればいいが、帯すら歪んでいた。

顔立ちは悪くないが、生真面目な者ならつい、昼前から、と眉をしかめる出で立ちだ。


噂には聞いている。

酒と女を身近から手放さず、明け方まで享楽に耽っていると。






その、彼が。昼前から起きているのは珍しい。

まず考えたのは、そこだ。次いで。


(なぜ妹の、冴香さまのところへ)


一瞬、不思議に思った。

冴香の母は、前宰相の娘。悪くない血筋だが、司は彼女を見下している。


彼の母の身分が上だからだ。


見下した相手の元へわざわざ出向く理由が分からない。だが。

冴香を見下ろす司の顔に浮かぶのは、確かな焦燥と苛立ち。


清心は右目を瞬かせた。

あれは、不安と恐怖に根差した焦燥。



―――――恐れているのだ。司は。冴香を。こと、ここに至ってなお、後継争いの敵として。



彼女はそれだけの能力を、既に示し、また、今後も示すだろう。






「間違いないな!」






念を押す、司の荒い声が静まった部署の天井に刺々しく跳ね返った。

「間違いなく、式典へは、一官吏として、出席するのだな」


「はい」

応じる冴香は冷静―――――冷徹、と言い換えた方がいいか。

表情一つ変えない。

周囲の反応を視線で探る清心。彼等は目を向けない。


だが、呆れた、飽きた、疲れた、といった態度が大半。

司の取り巻き連中だけが、うすら笑いで成り行きを見守っている。



清心の法衣に縋ったままの青年が、こそりと囁いた。


「この数日、ずっとああです。同じことを、繰り返すんです」



そのあとも、司は同じ言葉を繰り返した。

なるほど、執拗だ。


冴香の態度は変わらない。視線の先で、司の肩に入っていた力が抜けていく。代わりに。




従順な返事を繰り返す妹の無表情を見下ろす顔に、好色な色が宿っていく。




危うい危機感を覚えた時。

「なら、いい」


「ええ、では」

話は終わり、と冴香は兄に背を向けた。刹那。



司は冴香を乱暴に引き寄せる。冴香は背から司の胸に転がり込んだ。



直後、―――――部署内の空気が、無言の内に揺れた。





背後から伸びた司の両手が、冴香の胸を力任せに掴んだからだ。その勢いでこねまわす。


「部署内で座ってばかりでは嫁き遅れるぞ。どれ、オレが女にしてやろうか」

どんな思考回路ならそういった結論になるのか。


女好きもここまでくると病気だ。






対する冴香は。

「親兄弟に欲情するとは、畜生同然」

冷淡に言い放つ。表情も口調も変わらない。




突然の乱暴の何一つ、冴香を動かさなかった証。




彼女の態度は声高な罵倒以上に、司の傲慢を痛烈に打ったろう。






「豚は豚らしく、家畜小屋へお戻りを」


語調も含め、えらく男前の啖呵。

清心は素直に思った。




格好いい。






「…生意気な!」

司が拳を振り上げた。幾人かが声を上げる。顔を背けた。



ただ一人、冴香は受けて立つ。



振り向いた彼女の頬目がけ、司が拳を振り抜いた。直後。





「痛たたたたたっ!!」





冴香と司の間に割って入っていた清心は、首を傾げる。

冴香の頬を狙った拳はついさっき、清心のみぞおちあたりを殴ったが。


衝撃のひとつも奥まで通らなかった。


拳は皮膚を撫でたようなものだ。

加減したのかとさえ思ったほど。


みぞおちとは、急所の一つのはずだが。



それが、殴った方がこの痛がりよう。



筋力が衰えているのか。骨が脆くなっているのか。両方か。


荒淫は、確実に彼の肉体を蝕んでいる。





思いがけない痛みに竦んだか。無駄に長身の清心に臆したか。





一瞬怯えた目が清心に向けられた。―――――これが、次期西州王。

落胆を、丁寧に隠す。

息を呑む冴香を、背に感じた。


清心は、司にやんわり微笑む。



「どうぞ、気が済むまで殴って下さい」



胸を押さえ、清心は冴香の前に立つ、自分を示した。


はたと周囲を見渡す司。冴香しか目に入っていなかった態度。

清心を殴った拳を庇うように、して。




「また、来る!」


懲りない捨て台詞。




自身の存在を主張する乱暴な足音で去る司を、ひょろりとした取り巻きたちが慌てて追っていく。

見送る清心の目に、部署内の官吏たちが塩をまく姿が映った。


呼ばれぬ客が全員、出ていった刹那。わっと歓声。






「さっすが、清心さま! あっちは完全に貫禄負けですよっ」


「あの啖呵、スッとしました! 兄貴!!」


「とはいえ、いくら次代さまでも、今日のはやり過ぎです」


「訴えましょうよ、はなぶささまなら、」


口々に騒ぐ官吏たちの合間を縫って、冷えた声が上がった。






「清心さま」



背後。






清心が振り向く間に、水を打ったように室内が静まりかえる。








はーい、鬼主任の支配下、もとい、庇護下にある部署の官吏、窓際くんです、こんにちは。

いや別に仕事ができないと言うわけじゃなく外回りが多くてこの席が一番使われていないからここに…言い訳くさいな。

なんにしたってこの部署は毎日繁忙期だから猫の手でもこき使われるよ?

できないヤツはポイよ? っていうか、ついていけないよ? 席が残ってるだけで、ひとまずは使える人間ってわけ。

それはいい話なのかって?

じゃあ、ものはひとつ経験ってことで、一日手伝ってよ。

寿命半分差し出す覚悟はしておいてね。

なんて無駄口すら叩く暇は大抵ないよ、ここ。

そんな、時間が追われる場所に、最近毎日暇人がやってきててさ…同じことばっか繰り返してる、とくれば。

皆の目が殺気立つのも仕方ないよね…ああ、心の声が聴こえる。

さっさと出てけよ、クズって部署全員の大合唱。

そんなところへ。


せ い し ん さ ま !


マジで救いの神だわ。

この方って立ってるだけで空気の清浄さが違うんだよね、俗さがないって言うか、ふっしぎー。

斎門って皆こうかとも思うんだけど、たまにいらっしゃる鉄心さまはまた違うんだよな。

あーとにかく、兄貴をどうにか解放してあげて下さい。

あの方が一番忙しいんです!

って言ってる合間に。


ばかがとんでもないこと し や が っ た 。


あ、あれが本物のばかってヤツか。

頭の中がまっしろになって、まっかになる。

部署の何人かが反射みたいに立ち上がってた。

我慢も怒りも頂点突破の瞬間ってヤツだね。

…清心さまが動かなきゃ、たぶんマズいことが起きてたと思う。

でもこんなんで。

数日後の西州王着任の祭事なんて、無事終われるのかね。

毎日ゴリゴリ削られるヤル気に、なんとか気合いを入れつつ、兄貴と清心さまを視界に入れ、ホッとする。

あー清心さまが西州王になるってんなら、猛然と仕事に取り掛かるんだけど。

自身の想像に小さく笑って、なんとなく、ため息をついた。


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