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封神草紙  作者: 野中
第三部/第一章
66/87

第一撃 朝の報せ

西州。



妓楼立ち並ぶ遊郭街の朝。



日の出と共に鳴り響く、梵鐘の音。朝の報せ。

一番に開け放たれるのは、巨大な門。


縦長の遊郭街の南北にそれはある。夜、街の出入りを禁止する門だ。


北方に出れば州府。南方に出れば、市場。

いつもなら、気怠い見送りの声と、朝陽を眩しがりながら出ていく客たちが酒と香水のにおいを残滓に、北へ南へ賑わい出す頃合いだ。

ところが。




今日は、様子が違った。




所々でくすぶる火種。

焦げ臭いにおい。ところどころに残る破壊の痕跡。

水浸しになった焼け跡。


顔を煤で汚し、疲労し切って道端に蹲る客の群れ。


一番おかしいのは、いつも彼等に媚びを売る妓女たちだ。

うっとりと夢に誘うような普段の所作はどこへやら、台所の母ちゃんのようにきびきびと立ち働いている。




「桶が足りないわ」


「東の妓楼にもっとなかったかしら?」


「たぶん、湯殿に余ってるわ」


「男衆は材木の片付けに当たって!」


「門が開いたんだから、誰か職人を呼んできて。修理を頼まなきゃ」




色とりどりの裾をからげ、身軽に働く様は、それでも華やかな金魚の群れを思わせた。

彼女らの、目が。



案ずるように、時折、北の門へ向けられる。



門前には、朝一番、鞭の振るわれる音が響いていた。きっかり、二十回。

音が消えたと思えば、今。






胡坐をかいた男の前で、屈強な男が土下座している。






胡坐をかいて、微動だにしない男は、上半身裸だ。

背には鞭の痕。皮膚が裂け、血がにじみ、熱を孕んでいる。

表情は涼しげ。


浮かぶ表情は、静謐。


周囲の騒ぎなど何もないかのような態度。彼は、静かに言った。

「顔を上げてください、弥彦」

「合わす顔がねえ!」

声を張ったのは、男の目の前で土下座した相手だ。大きい。縦にも横にも。

それが、子供のような声を上げる。


「昨夜、一番たいへんだったのは、清心さまだぁ。ここが遊郭街だからって、他の斎門さまは皆、気付いて見ないふりだったのに。清心さまが来てくれたから、被害はこの程度で済んで、人死にだってでなかったってぇのに、なのに」


亀のように這いつくばった巨体が縮こまった。

「鞭打ちだなんて、ひでぇ…それがオレの仕事だなんて、もっとひでえや…許してくれ、清心さまぁ」

清心と呼ばれた男は、じっと耳を傾ける。

弥彦が黙りこんだ。罪悪感に満ちた重い沈黙。


清心は頷いた。穏やかに。欲しいのが許しならば、と告げる。




「許します」




手短。すぐ、足りないと思い、補足。

「私は斎門です」

言葉通り、帯の上で蟠る着物は漆黒。

ただ、頭をそり上げてはいない。有髪。

見た目、三十前後。


全体として清潔な雰囲気なのに、まばらに髭が生えている様子が、周囲の忙しない状況の最中にいた証とも言える。


「怪異や蔵虫と向き合うのも仕事の一環ですが、清貧の手本とならねばならないのも事実」

なにより、古来、どの経典も性の遊戯を禁じている。

「遊郭街に一晩とどまった上は、女犯の疑惑がこの身にあります。である以上、鞭打ちの罰を受けるのは、ただの決まりごと」




好悪の問題ではないのだ。苦しむことは何一つない。言えば、




「昨夜の状態で!」


弥彦が、がばと顔を上げる。髭面が、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。

男くさい顔立ちの中、瞳だけが子供のようにつぶら。


「イイ思いができた人間は一人もいねえよ、男も女も!」


分かり切ってらぁ、とおいおい泣きだす。また突っ伏してしまう。さすがに困った。

「なのに、公衆の面前でこんな辱め、あんまりだぁ」

二人がいるのは、門の外。


中から見ていた者も、外で遠巻きに見ていた者も、気まずげに目を逸らす。


さて、どう説得すべきか。この程度で、気の毒な男の心に傷を作るのは間違いだ。

「いいえ、弥彦。こうすることで守られるものというものも…」

続けた言葉は、のんびりしている。しかし、途中で消えた。


理屈で感情をどうやって納得させるか、途方にくれたからだ。そこへ、


「いつまで泣いてんのさ、弥彦!」

威勢のいい声が遠くから飛んだ。

同時に、弥彦がさらに縮こまる。

横面に何かが投げつけられたからだ。地面に跳ね返ったそれを見れば。



何かを包みこんだ風呂敷。



「泣くしかできないなら、どきな、愚図! 治療しないとその怪我で、清心さま、着物も着られないじゃないかっ」


門の中で、小動物めいた人影が両腕を振りあげる。小さな少女。禿だ。

売られた商品である以上、彼女は街の外へ出られない。

愛くるしい顔立ちが、清心を見るなり、わずかに歪んだ。息を呑む。


小さな唇を、こらえるように引き結んだ。




「かぐや」




暴挙に、少し、驚く。時折清心は、昼間、遊郭に、子供たちに字を教えに来る。


生徒の一人である彼女は生真面目で大人しい少女だ。

とても、他人にものを投げる子には見えない。


「で、でもよ、かぐや」

読み書きできない弥彦も、最近では子供たちに混じっている。かぐやは彼の先輩だ。

従うことが身にしみている弥彦は、反論しかけ、呑みこむ。


動かない弥彦に焦れたかぐやは、その場で地団太踏んだ。





「もう! その風呂敷にお薬とか包帯とか入ってるからっ。ほら早く! じゅうちゃんがいないんだからアンタ以外に人手はないんだよっ」



「あ、おお」





弥彦の太い指。

それらが意外と器用に動き、風呂敷を解いた。現れたのは。



包帯をはじめとする、清潔な布。それらにくるまれた塗り薬。見るなり。



清心の手から力が抜けた。はじめて、気付く。


拳を強く握っていた。指のこわばりが抜けるなり、背から痛みが走る。


気付かれないよう、ゆっくり息を吐きだした。せめて泰然と、清心は言う。




「ありがたい。弥彦、大変だろうが、頼みます」




背は自身で治療しにくい。頭を下げる。


勿体ない! 弾かれたように立ち上がる弥彦。


「では…では!」

門の中から見ていた妓女たちが、ようやく息を吐いた。



「よくやったわ、かぐや」



褒める言葉と同時に、ぽろりとこぼれる本音。

「いつまでも肌を晒されてると逆にこっちが目の毒だものね」

「清心さまは斎門だけど、説法より、法力・神通力による戦いを主にされているから…」

「ほら」

「ねえ」


「さすが、音に聞く雷公いかずちこう


ひそひそ声に、背を向けているかぐやのまなじりがつり上がる。

清心にも全部聴こえている。

しかも、向けられる視線に容赦がない。





ただ、心強くもある。


昨夜の騒動に、折れていないとは。か弱さと裏腹な逞しさに、安堵もする。





清心は苦笑をこぼした。

背後の弥彦は気付かない。せっせと手を動かしている。


「昨夜見た、炎の獅子を抑え込んだ手腕だって、凄かったわ」


「知ってる? あのとき清心さまと一緒にいた刀術士の男の子。水無瀬さまがお連れになっていたそうよ」

「精緻な細工ものみたいにきれいな子だったけど…男の子? だったの?」

「みたい。筆おろしに連れてきたのかしら」


「さすが水無瀬ってくらいにお強かったけど、あの見た目で、逆になんだか怖いわ」

「残念、見られなかった。それで、誰がその子の相手に選ばれたの?」

「そこは聞いてないわねー、けどだいたい、昨日の今日じゃ、おさまらない話じゃない」


「よね。昨夜の騒ぎで、誰も甘い思いなんてできなかったわよ」

一瞬の沈黙ののち、たわしを片手に、話に加わっていなかった年若い妓女が、指をくわえて言った。


「清心さまの甘い息なら吸ってみたーい」


焦げ跡をこそげとっていたのか。

聞いた妓女たちは、色ごとの最中、快楽の艶を孕んだ男の息を連想―――――「それ!」華やいだ声が複数重なる。

「呆れたわね」


鼻で笑った女が、包帯を巻いた身体に衣をまとう清心を顎で示した。



「あの服の着方を見て。商売を考えるなら、むしろ学ぶべきよ。男を誘うのに使える」


一瞬、動きを止めかける清心。平常心で続行。早々に立ち去るべきだと決意。



「感心するほど上品よね」

「罰あたりな」

つばを吐くように言ったのは、楼主の老婆だ。




「斎門さまだよ、清心さまは」




いっきに小さくなる妓女ら。だが、彼女たちは知っている。

清心が子供たちの授業に訪れるときは楼主の化粧が濃くなることを。


「にしても鞭打ちをまた実行なさるとは」

懸念の声。そう。この公開刑は、二度目だ。



落ち着いて、数珠を首にかける清心。錫杖を取りあげた。


周りの会話は、聴こえないふりで立ち上がる。




無駄にある上背に、袈裟をまとい、ようやく一安心。




石突きで地面を軽く叩く。しゃん、と錫杖が涼しい音を立てた。

痛みは強い。しばらくすれば、熱が出るだろう。だが休めない。用事があった。


州府の重鎮に呼ばれているのだ。放ってはおけない。こと、清心名指しの呼び出しとなれば。




(また、怪異が起こったのか)




この、西州において。

市井の困りごと、特に、怪異に関する祓いが清心の役目。よって、



「お上へのご機嫌取りなんだろうが、清心さまを慕う民は多い」



―――――ゆえに、清心への無体は、民の反発を買う。






だが。豪族には、清心を嫌う者が多い。弥彦に命令を下したものは、後者を取った。






「これは、元締めが清心さまを嫌ってるって噂、事実なのかもね」

清心は、伸びた前髪を引っ張った。顔を隠すように。


西州の遊郭街には、多くの妓女が存在する。それらを束ねるのが、各楼主。

さらに、その上。




元締めなる存在がいた。




遊郭街において、絶対的な権力者。

西州のこの地で、彼に逆らえば、翌朝には北の山岳地帯で野犬の餌になっているだろう。


弥彦は、中でも最下層のもの。

妓女たちを守り、雑用をこなし、普通ならば嫌がる物事すべて押しつけられる下っ端。とはいえ。


彼女たちより、自由だ。街の外へ出ることができる。仕事が仕事であるゆえに。


「清心さま、痛みは」

彼は膝を突き、丁寧に治療道具を風呂敷にまとめていく。

「大事ありません。世話をかけました。弥彦は、どこも痛めていませんね」


「おれなんて!」

慌てる弥彦。顔色もいい。清心は、少し、黙る。弥彦を見極める。


少しは心も持ち直してきているようだ。頷く清心。

「片づけを手伝いたいところですが、州府から呼び出されています」



「…お休みするわけには…」



言いさし、黙る弥彦。市井のものは、清心の役割を重々承知している。

左目の上を走る傷を、清心は思案気になぞった。

安心させる言葉を考えたが、思いつかない。


仕方なく、約束を言い置いた。




「では、次の授業の時に、また」




清心は、踵を返す。弥彦が呼びとめようとしたところで、

「清心さまはお忙しいの、弥彦! じゃましないのよっ」


飛ぶ、かぐやの声。


日頃、清心はそれほど忙しく駆け回っているように見えるだろうか。





人の目に余裕なく映るのは、情けないことだ。修行が足りない。反省する清心。





錫杖を道連れに、のんびり州府への道を辿る。


式典が近いためか、国外の人間の顔も往来に混じっている。

賑わいがいつもより早く始まっている様子に、清心は目を細めた。

変わらない日常が、いつも、眩しく感じる。


朝の支度を始めた顔見知りが、声を投げてくる。

「おぅ、お疲れ、清心さま」


「雷公、また御活躍だったんだってね~」


「今夜も安心して眠れるよ」


ひとつひとつにおはようございます、と返していく。

日常を穏やかに噛みしめる。行く先にそびえる州府を見遣った。目を細める。




「徹夜明けには厳しいが、ま、仕方ない」




飄然とした呟きに被せるように、梵鐘の音。










追い立てられるように、頭上をモラドリの群れが忙しなく飛んでいった。







清心さまを往来の中で見つけるのはごく簡単。

あのヒト、図抜けて長身なの。

真っ黒で、錫杖持ってるし、あの傷跡でしょ。

お顔も造作もとってもよろしいんだけど、そこに気付くのってだいぶんあとなわけ。

特徴ありすぎてさ?


どうも、はじめまして、軽いノリで頭悪そうだけどいい方の双子の黒羽、朝霧でっす。


勤め先は名門・はなぶさ家。媛にお仕え中。

いやあの方、いのちの恩人ってやつでね?

これでも身命賭してんのよ。

その仕事の一環で諜報活動中、だったんだけど…参ったわ、こりゃ。


慌ただしい遊郭街と遠ざかる清心さまの背中を見比べる。


平気そうだよね…足取りも確か。

前から思ってたけど。

あのひと、バケモンだわ。


あたしは未だに背中がぞくぞくするんだけどー。怖さで。

昨夜見たものを思い出す。炎の獅子。蔵虫。


動けなかった。居合わせた大半が、恐怖に呪縛された。

あたしも例外じゃない。へた打ったら、ここら一帯焼土になってた。


あれを前に、動けたのは数人。

よくあの絶望感に打ちのめされなかったもんよね。

そこは、素直に感心するっていうか、もう怪物だよね、心が…って、

「うわぁっ!?」


思わず声を上げた。

仕方ない。

いきなり十歳くらいの男の子が真後ろに立ってたんだから!


あのね、いるのは屋根の上なんだけど! 転がり落ちるっつーの…。

いやそれ以前に、…ひぃ…十蔵くんじゃん…っ。

いつ戻ったわけ、州府に向ったの鞭打ち始まる前じゃなかったっけ!



無表情の中、虫けらでも見る目があたしに向いた。



あれ、なんだろう…見上げられてるのに見下されてる、この感じ…。

呼吸が乱れるっていうか、息の仕方を忘れそうになるんですが。

かろうじで、口を開く。声を絞る。

「清心さまならもう出られました。州府、隼人さまのところへ向かわれたのではと」

愚考します、続ける前に、もう子供の姿は消えてた。


…こっ…………わ…っ!


あの物騒なのが清心さまの従僕なんて、世の中って分からない。

大きく息を吐き、あたしも州府へ身体を向けた。

「まずは媛さまに御報告っと」

この状況、間違いなく怒るだろうなぁ。

あの方、清心さま好きすぎるんだもん。


逃げ道は先に確保しとかなきゃ。

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