第六撃 取りこぼさずにすんだもの
× × ×
まだ、夜は明けていない。
別邸の、離れ。
人払いされたそこに、安静のためにと運ばれ、横になっていたはずの清音が、いつもの男装姿で廊下を歩いていた。
急ぎ足で、ところどころ部屋を覗いて歩く。
彼女は、人を捜していた。
義孝を。
清音は、半分泣き出しそうで、半分怒っている顔でのし歩く。
頭の中が、まだ混乱していた。
(…だって、)
先刻、清音は聞いた。
八雲から。
―――――刀馬が死んだ、と。
そのとき、花陽のことも聞いた。いなくなった、と。
だが、彼女のことだ。きっと、生きている。
したたかに、しあわせのために、歩き出してくれるだろう。
それこそが、清音に対する償いになると、いつか気付いてほしい。
けれど。―――――刀馬は。
…もう、戻らない。
「…こんなのってないよ…」
無意識に零れる呟き。
義孝には、鬼彦が報告に向かったらしい。つまり、彼ももう、それを知っているのだ。
そばで眠っていた清貴を八雲に任せ、清音は部屋を飛び出した。
義孝を捜して大分経つのだが、一向に見つからない。
彼も、この離れにいるらしいのだが。
「もう、どこにいるんだよ…っ」
心配のあまり、苛立った声を放つ。
見つけたところで、どうできるつもりもない。
だがとにかく、清音が目覚めて、元気で歩いているところは見せておいたほうがいいと思った。
悪い報せばかりではないのだ、と言いたかった。
聞けば、義孝はひどく清音を案じてくれていたらしい。
というのに、清音は目覚めて、まだ義孝と話をしていない。
―――――きっと、また彼は独り、じっと傷の痛みに堪えている。
義孝のそういった性向は、野生の獣が、巣穴に篭り、周囲を警戒しながら傷が癒えるのを待っている、そんな様子に似ていた。
捜して、捜して。
まだ暗い中、裏手の建物に向かった清音は、回廊を大股に横切る。そのとき。
「お嬢ちゃんじゃないか。…驚いたな」
向かう先から、のんびり歩いてくる、長身の人影が、清音を認め、呆れた声を上げた。
「なに元気に歩いてんだ。跳ね回っていい状態じゃないだろ」
「…和泉さん」
こんなときにも、宗親の声は、あくまで軽い。
「なにせ、―――――アンタの寿命は半分、ごっそり削られてんだぜ」
というのに。
ふ、と怯む清音。
(…なに?)
なぜだろう、今、なにか。
宗親はたった今、自分の言葉で自分に消えない傷を刻み付けた―――――そんな凄惨な気配を感じた。
実際に血を流すより、どこか酷い痛みの気配。
周囲は暗くて、宗親の顔は見えない。
だから余計、彼の心が、誤魔化しなく声に乗って響くのだ。
気圧された心地で、立ち止まる清音。彼女を尻目に、回廊から降りる宗親。まだ星の瞬いている空を見上げた。
それは一瞬で、すぐに顔を、正面に戻す。
清音から見れば、向こうを向いたまま、項に手を当てた。
「その様子なら、もう知ってるんだな」
「…楠木さんが、」
声を喉に詰まらせる清音。
『死』という言葉の不吉さが、今は怖くて堪らない。
「―――――アイツさぁ、本の虫」
突如、投げ出すように、宗親は声を放つ。
「文官の資格、持ってたの知ってるか? 実際、何年か、その仕事にも就いてた。なのに一介の教師、―――――収入が不安定で圧倒的に利の少ない学者の地位を選んだ。…なんでだと思う?」
清音は首を横に振った。
ただ、刀馬はいつも楽しそうで穏やかで、研究の方が好きなのだろう、と勝手に思っていた。
(…違うの? なら、)
「―――――分からない」
宗親はやはり、清音を振り返らない。
淡々と、言葉を紡いだ。
「政に関わってるとな、正常な感覚が麻痺していくんだよ」
宗親は、大きく息を吐いた。ため息。白い息が流れる。
「人間に顔がなくなって、数字で判断するようになる。土地を記号で見る。紙の上の情報。たった、それだけの意味しか持たなくなる。数字のひとつひとつに顔があって風景があって、…ちゃんと血が通っているものだと、…分からなくなるんだ」
清音は目を瞬かせた。宗親が何を言いたいのか、分からない。
(楠木さんのことを、話しているんだよね…?)
彼が言ったような感覚は、清音には理解できない。なにより、そんな感性を、あの刀馬が持っていたとも思えなかった。
ついていけない清音には構わず、汚いものをさっさと吐き出したがっているように、宗親は続ける。
「そんな中で、な。本の虫はある書類に確認の印を押して、通した。その書類には、他の高官たちの印も連ねられていて…まだ若かった―――――いや、幼かったアイツは、ろくに見もせずに、考えもせずに、右に倣った。いつものこと、慣れた作業のひとつ、だったんだろう」
そこではじめて、やりきれないように、宗親の声に曇りが生まれた。
「多くは最高機密書類で、城の書庫の奥に眠っているが…、本の虫にとっては曰くつきの、一枚がある。内容ってのが、な」
ふと、宗親は呻くように声を絞る。
「隣国が攻め入ったあの日、攻め入られた近隣の村落をどうするか、その意向を定めるものだった」
―――――それが、どういう意味を持つのか。
ゾッと清音は総毛立った。
嫌なものを振り払うように、宗親は、首を横に振る。
「―――――本の虫はそれに、気付いちまった。…そのとき、アイツは狂ったんだろう。少し、だけ」
あのとき、王母はなんと言ったか。刀馬に刃を突きつけられたとき。
―――――あのひとも、随分あとになるまで気付かなかった、と言ったら、…信じてくれるかしら。
あのひと。東州王・先代。彼女の夫。
次に、義孝の姿を思い出す。執務室で彼が処断する、数多の事柄を。
あれほど膨大な量を処理する立場にあるものが、細部にまで気を配っていられなくなるのは、分かる気も、した。最初に宗親が言ったような精神状態になるのも、仕方ない、…そんな、気も。だが。
「ひどい…」
清音は泣きそうになる。
そういった仕組みだ、仕方ない、自分が携わっていることがどういう職務か分かっているなら、耐え切れないほうが悪い、――――――そう、言う人もいるだろう。だが。
政の仕組みがどれだけ情を排除したものだろうと、それを動かすのは、結局人間だ。
刀馬の身に降りかかった運命は、清音から見れば、あまりに酷かった。
宗親は振り向いた。
月光の中、ホッとしたように、清音を見る。
「あー…、うん。そうだ、―――――そうだよな。…ひでぇよな」
まるで自分に言い聞かせるように、宗親は呟く。
「そう感じるのがまともだ。…でも時に、こっち側に立ってると、―――――何がまともか分からなくなる」
「…『こっち側』?」
宗親は答えない。ただ、苦笑。そして、清音に向き直った。
「アイツは、やさしいヤツだった。…だから、な?」
真摯に続ける宗親。
「誰かに、アイツを殺させるわけにいかなかった」
誰か。
それはおそらく。
―――――義孝と、八雲と、鬼彦。この、三人のこと。
「無気力商人は割り切るのが上手だ。だから、殺すことは、殺せたろう。けど、…きっと自覚なく壊れる。心が。アイツのこと、気に入ってたからな。―――――石頭小僧も、命令されりゃ、殺したろう。主人への忠義第一の教育を受けて育ったヤツだ」
仲間のことを語る宗親の声は、冷静そのもの。
だが双眸に満ちるのは、痛ましさ。
そして紡がれるのは、誰より、彼らのことを理解した台詞。
「けどな、忠義の道を選んで進んだのは、確かに石頭小僧自身だが、それは心の底から渇望したものじゃない。ただ、『そうあるべき』と望まれ、真摯にその望みに応えた結果に過ぎない。…石頭小僧はまだ未熟で、―――――実のところ、まだなにひとつ自分で選び取ってないんだ。…なのに、忠義ゆえに、とあの場で本の虫を殺してたら。きっと、将来ひどい歪みになる。石頭小僧は純粋だ。その分、虚偽には本能的に、過敏な反応をする」
そこで、言葉を区切る宗親。
義孝のことは、言わない。代わりに、清音を真っ直ぐ見つめた。
「そうならなかったのは、お嬢ちゃんのおかげだ。お嬢ちゃんのおかげで、最上の結果が導き出された。―――――ありがとう」
万感の思いがこもった、感謝の言葉。その響きに、偽りは欠片もない。
清音は微笑む。彼女も、心底から思った。
よかった。
完璧な、結果ではなかったけれど。手の届かなかったものも、多いけれど。
取りこぼさずにすんだものも、確実に存在する。
清音の、微笑みに。
宗親は、痛みを堪える表情になった。
「…どうしたの?」
気付き、顔を曇らせた彼女に、どうにか微笑みながら、宗親は低い声で告げる。
「――――――もう、気付いてるんだろ?」
彼はその長身から脱力したように力を抜いて、そのくせ、何かを待つように、回廊の上に立つ清音を見ていた。
清音は目を瞬かせる。宗親は促すように言った。
「確かに、失われたものも多いが、救われたものもあった。その代償は、―――――なんだった?」
ため息混じりに告げる、宗親。
「お嬢ちゃんの、寿命。…だろ?」
宗親の屈託に、ようやく合点がいった。清音は目を見張る。
神と対峙した、昼間。
清音が動けたのは。
宗親に、教えられたことがあったからだ。
だが、それは、…逆を言えば。
「オレは知っていた。神と同調すれば、お嬢ちゃんは死ぬ―――――昨日の夜まで星は、確かにそう告げていた」
宗親は、―――――分かって、いて。
仕向けたのだ。清音がそう、動くように。
清音は思い出した。
神を殺す方法を尋ねたとき、宗親が見せた表情を。
彼が見せた、強い後悔。
あれは、これから起こることに対して向けられたもの。
あの時からきっと、宗親は何もかも知っていた。それを思い知らせるような、宗親の声は平静。
「けど、お嬢ちゃんの死と引き換えに、神は暴走をやめる―――――それは、確実な未来だった。お嬢ちゃんが生き残ったのは、…運が良かった。それだけの話だ」
それでも。
清音に、怒りはない。ただ。
―――――未来を知る、そのことの意味を悟った。
(…辛い、な)
だが、同情など間違っているだろう。
宗親は、自分の力を、まるごと受け入れ、そこに立っていた。
だからと言って、感謝も違う。
彼のおかげで清音は動け、結果的に死にもせず、義孝たちも助かったが、宗親はそんなもの、唾棄するだろう。むしろ、自身への蔑みを深める。
ならば、清音の心にある、何を告げればいいか。
読んで下さってありがとうございました!




