第五撃 分かるんだ…そっか、分かるんだ
僕は、愕然。一拍おいて、慌てて扉を閉ざす。
いきなり夜になったわけじゃない。
鼻腔に飛び込んできたにおいで、正体なら特定できた。
同じものを目撃した蘇芳が、相変わらず淡々と呟く。
「…煙…?」
そう、紛れもなく、アレは。
煙だ。煤。
家前の空気が煤に汚染されてる。
いつの間に。
いや。
表では、月子と北斗が、燻製肉を炙っているはずで。そうだ。
「…月子。北斗」
扉を開け、なんとなく小声で名を呼ぶ。と、
「…清貴?」
煙の中から、声。月子だ。
外に出る僕。背で扉を押し、閉める。
家の中まで煤に汚染されるわけにいかない。
「ちょっと、こっちに出てきてください。できるようなら、火を消して」
「え、でも」
「誰も怒りませんから」
考え込む沈黙。しばらくして、動く気配。
煤から出てきた月子は、本人が炭化したみたいにまっくろだった。
「料理って大変なんだな…死ぬかと思った」
生真面目に言って、けほん、とこぼした咳も黒い。
色々間違っている。
ひとまず、感想は棚上げ。
僕は小さな頭を抱き寄せ、上着で顔を拭ってやった。
されるがままで、なぜか月子は困った顔。
「…上着、汚れる」
「洗えばいいですから」
「私の汚れなのに」
「どうしたんです? ああ、大きくなったから、こういうのは恥ずかしいですか」
首を振る月子。肯定とも否定ともつかない曖昧な動き。
そうして、おいて。
とても嬉しそうに笑った。
釣り込まれる、笑顔。つい僕も微笑む。
僕はこの笑顔がちょっとおかしいくらい好きで、だから月子にはなんでもしてあげたいと思う。
「ところで、北斗はどこへ?」
「薪を取りに行った。火を見ててくれって」
なるほど、律儀に火だけ見ていた結果が、これなわけだ。
燻製肉は炭へ生まれ変わったに違いない。合掌。
「ごめんなさい。私、やっぱり失敗した、んだな」
「気にすることないですよ。誰しも、はじめから完璧にはできません」
「うん…あの、さっきの燻製肉って、なんの肉だったんだ?」
顔や耳の煤を大まかに拭い、月子から離れる僕。
「カラーダですよ。大きな…そうですね、鹿と河馬の中間のような生き物です」
ところが、僕が離れた分、距離を詰める月子。面食らう僕。
けど月子は無意識みたいだ。
所作に関係なく、目が無邪気に輝いてる。
「あ、聞いたことある。餌場を求めて、しょっちゅう集団で移動するヤツだ」
「正解です。月子がここに長居できるようなら、狩りに行くのもいいですね。新鮮な肉は、美味ですよ」
「移動してるのをどうやって見つけるんだ?道でもあるの?」
「風向きによっても進む方向が変わりますからね。ま、根気よく。ああ、その前に、グラズもご馳走したいですね。今が時期でないのが残念です」
「グラズ?」
「魚です。近くに、川があるので、そこで」
僕は目を細めた。
自然の動きは圧倒的過ぎて、僕って歯車は砂漠の砂一粒ほどの存在感もないんじゃないかって、時折思う。
それが逆に、僕を安らがせてくれるのも事実。
北境辺土の時間は、人間と無関係に流れてく。
人間中心のヒガリ国とは、違う。別の世界みたいだ。
無論、どちらも僕の好みだけど。
「ああ、月子は魚、苦手でしたっけ。でもよかったら、一口食べてみてください。新鮮で、一味違いますよ。ダメなら無理にはすすめませんから」
「…なんで、知ってるんだ?」
不思議そうに僕を見上げる月子。
微笑みながら、僕は戸惑う。
(近い)
ほとんど密着の近さ。
月子の態度は、凍えてたところに、ようやく見つけた焚き火で暖を取ろうとしてるような所作にも似てた。
その奇妙な距離感のなさに、頭の隅で、僕は月子の孤独を想う。
「女官たちは、私が好き嫌いないって思ってる。魚が苦手なんて知らない」
「そうなんですか?しいたけも苦手ですよね」
「え」
「果肉は好きですが、西瓜とか葡萄とか、種があると食べにくそうですよね。そうそう、意外と、餡子が好きでしたっけ。しかもどっちかと言うと漉し餡」
「う」
決まり悪そうに身を竦めたが、結局、月子は照れ臭そうに笑う。
指摘に怒ることもなく、楽しげだ。
もしかして、未だに全部当たりなのか。…の、ようだ。
うきうきした声で呟く月子。
「分かるんだ…そっか、分かるんだ」
「はい。そうだ、月子、北境辺土の景色は最高ですよ。散歩したかったら、声をかけてくださいね。辺り一帯、熊や狼がウロウロしてますから、一人だと危険なので」
素直に頷く月子。
話している間に、煤煙が晴れてきた。
未だ黒い煙をたなびかせるのは、網の上に乗っかった炭の塊だけだ。
その向こう側で。
カラン、カラカラカラ。
木の枝が硬い地面に落ちる乾いた音がした。
大体誰か分かったが、仕方なしに目を向ける。
北斗が、悪夢でも見る顔で、炭の塊を見つめてた。
北斗が、肺の底まで息吸う。
僕は姪っ子の耳を塞いだ。刹那。
「なにこれ――――――――――――――っ!!」
北斗の絶叫が蒼穹を衝き、遠くで驚いた鳥たちが一斉に飛び立った。