第三撃 勇気に、敬意を
× × ×
闇の帳が落ちる時刻。
牢の片隅に座していた花陽は、空気が流れる気配に、ふと顔を上げた。
…いつからそこにいたのか。
被衣を目深に被った侍女が、牢の前に佇んでいた。
花陽には、見覚えがある。
よく、刀馬に従っていた侍女だ。
目が合った。彼女は、何も言わない。
黙って、牢の出入り口に手をかけた。とたん。
キィ、微かに軋み、扉は難なく開く。
そう、最初から、施錠などされていない。見張りの一人すら、立っていなかった。
花陽が、紡ぎ人の禁忌とされる術を行ったのは、正午を少し過ぎた頃。
今の時刻は、日が落ちたばかり。まだ、一日も経っていない。
あのあと、花陽はおとなしく囚われた。
あまりの成り行きに呆然となって、抵抗どころではなかった。
(…清音)
彼女は、神と魂を重ねた。
御神刀を持つとはいえ、清音は只人。確実に、魂は損なわれた。
周りから見れば、それはたった一瞬の出来事。
だとしても、清音から抉り取られたいのちは、いかほどか。
罪が重く、胸をふさいだ。
罰するというなら、早く罰してほしい。
なのに。
牢に連れてこられ、ここに押し込まれただけで、誰かがやってくる気配はなかった。
この、侍女以外。
灯りもなく、ただ冷たい空気だけが、花陽の両肩に圧し掛かる。
「…お戻りになってください」
動かない花陽を根気よく促すように、侍女は言った。
無論、刀馬たちの元へ戻れ、と言っているわけではない。
帰るべき場所へ帰れ、彼女はそう言っている。
どうやら、刀馬は、花陽の身の振り方も、配慮してくれていたようだ。
刀馬らしいことだ、花陽はボンヤリ思う。彼は、どうなったのか?
おそらく、この侍女がここに現れたからには、無事逃げ遂せたのだろう。
―――――一拍後、花陽は首を振った。横に。
「…帰れないわ。あたし、禁忌を破ったもの」
神の具現化。
紡ぎ人たちの、最大の禁忌。
故郷を、想い。
―――――同時に、脳裏に浮かんだ面影に、とうとう花陽は伏せた顔を両手で覆った。
彼を愛したとき、彼の側にいられるなら、もう故郷へ戻れなくてもいいと思った。
故郷の者から見れば、花陽が愛した相手は、とんでもない存在だったのだ。それを知った故郷の皆の風当たりをものともせず、花陽は彼の元へ走った。
彼は花陽を受け止めてくれた。
彼の立場からしても、花陽を受け入れることは、難しかったはずだ。けれど。
真っ直ぐに、守ろうと、してくれた。公の場に、花陽を公表しようとすら、してくれた。
その、想いに応えたくて。
せめて彼の負担にならない立場を手に入れようとして、花陽は。
(あたしは、なにを…したの)
呆然とするほかない。
捨ててもいいと思った故郷だ。未練はない。だが。
―――――顔向けすらできなくなったことに気付く。
今回のことで、花陽は。
紡ぎ人という身分を隠し、新しい、常人としての立場を手に入れようと画策した。
それが、彼の想いに応える行動だと思って。けれど。
侍女は首を傾げた。
「…けれど、待つ方がおありでしょう」
指摘は、花陽の胸を抉った。
―――――その通りだ、待ってくれている。彼は。彼、だけは。
極上の土産をもって帰る、といって出て行った、花陽を信じて。
泣き笑いの声で呟く。
「もう、彼にすら会わす顔がないの」
とたん、侍女は鋭い声で切り返した。
「ならば、まずはその、あわせられない顔を晒して来られたらいかがです」
声の、あまりの冷たさに、花陽は弾かれたように顔を上げる。彼女の、そんな声を聞いたのは、はじめてだった。
「その上で、拒絶されたなら、仕方ありません。許してくれるまで謝り続けるか、あきらめるか、自由になさったらいいでしょう。けれど、待たせている相手に、自分勝手な理由で会わないのは、ずるくありませんか。逃げている。―――――アナタ方は、生きているのに」
彼女の言葉が、心に刺さる。
それでも、勇気を出すのは、難しかった。震える息を吐きながら、足に力を込める。
ひどい努力を払って、懸命に、顔を上げた。
みっともなくよろめきながら、半ば這うように、壁に寄りかかって、牢から抜け出る。
侍女は、慇懃に頭を下げた。
「…貴女の勇気に、敬意を」
花陽は、どうにか微笑む。彼女の前を通り過ぎながら、尋ねた。
「清音がどうなったか、知っている?」
「一命は、取り留めた、と」
―――――不幸中の、幸い。
花陽は己の愚かさを噛み締める。
同時に、膝の力が抜けそうになった。安堵のためだ。
無理やり背筋を伸ばし、牢の外へ向かいながら、告げる。
「なら、迷惑ついでに、ひとつだけ、お願い」
返事も待たずに、続けた。
「清音に伝えて。…罰を受けられなくて、ごめん」
刹那、花陽は駆け出す。
もう、心は決まっていた。帰るのだ。彼の元へ。
それだけで、力が湧いた。拒絶されようが軽蔑されようが、二の次だ。
もう一度、彼の胸に飛び込む。
その夢だけを原動力に、花陽は駆けた。
遠い、央州目指して。
―――――半年後。
央州・碧翔郭、国守主宰の管弦の宴。
そこで花陽と清音は再会し、再び縁を結ぶこととなる。
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