第三撃 これ以上ない復讐
× × ×
清音が向かったのは、中庭。
本当は厨房にでも行きたかったが、そう言った場所は、上臈の部屋からは一番遠いところにあると相場は決まっている。
仕方なしに、一番近い中庭の片隅で見た井戸に向かった。
それでも、かなり距離があった。
長く歩いたおかげか、辿り着いたときには、どうにかまともに頭が回るようになっていた。
ひとまず、告げたとおりに顔を洗う。
そのつめたさに、すっきりすると同時に、芯までの震えが来た。
この季節、外は寒い。
うっかり薄着で出てきてしまった。
ぼんやりしているとこれだから、と鳥肌立った腕をさすりながら、慌てて立ち上がる。風邪をひいている場合ではない。
踵を返す。
早足で中に戻ろうとすると、廊下につながる階段から誰かが降りてきた。
闇の中、目を凝らす。と。
「…楠木さん?」
「あぁ、清音ちゃん…って、どうしたの、そんな薄着でっ」
丸眼鏡を外しながら、ぼんやり頭を振っていた刀馬は、ギョッと眼鏡をかけなおした。慌てて清音に駆け寄る。
自分の羽織を脱ぎ、清音の頭から被せた。
とたん、清音の鼻先を、爽やかな香りが掠める。刀馬が衣に焚き染めた香のかおりだ。
目が覚めた心地になった清音を、衣の上から手を引いて、刀馬は屋内の廊下へつれて戻った。
「寒いのもあるけど、一人でうろうろするのは危険だよ。おれはともかく、清音ちゃんは。まぁ、護衛官たちの目は細部まで光ってるけど」
叱るより、案じる方が強い声。
「ごめんなさい」
清音は素直に謝罪。
確かに、考えなしだった。肩を落とす。刀馬は慌てた。
「ああ、うん。おれもごめんね。…なんか、清貴くんが倒れたって聞いたよ。平静じゃ、いられないよね」
清音は力なく微笑む。
「ううん、こういうときこそ私が、ほんとはしっかりしなきゃいけないの。でもいつもこんなで。どっちかっていうと、私が清貴に支えられてるんだろうなって、こういうことがあるたび思う」
力のなさが、弱さが不甲斐ない。
(しゃんとしなさい、清音)
自分で自分にはっぱをかけて、顔を上げる。強い、眼差し。
廊下の薄明かりの中、刀馬は眩しそうに清音を見た。
「…そんなことないよ。自分が弱いって知って、それでもその弱さに負けない人は、―――――強い、とおれは思う」
「楠木さんって」
微笑む清音。
「ほんと、教師、なんだね」
「え」
一瞬、刀馬は面食らう。すぐ、笑顔になった。だが。
―――――その微笑が、すぐにも泣きそうに見えたのはなぜだろう。
「そんな、たいそうなものじゃないよ」
刀馬は表情を隠すように、横を向いた。目を伏せる。
「ごめんね、ちょっと聞いていいかな。あ、いやだったら、答えなくていいから」
焦ったように前置きする刀馬。
首を傾げたが、清音は小さく頷いた。直後、耳に届いたのは、
「清音ちゃんは…家族を、殺した相手を、…どう、思ってる?」
声を出すのも、苦しそうな問いだった。
清音は目を見張る。
村を襲った相手。―――――亡くなった、皆、ではなく?
考えようによっては、意地が悪い質問だ。だが、刀馬にそんなつもりはあるまい。
彼は、後悔したような顔をしている。それでも、聞かねばおさまらないものがあった。
そんな、複雑な表情。
清音は。
胸からこみ上げるものに、喘ぐように答えた。
「苦しい、かな」
憎い。許せない。
彼らを考えれば、そんな言葉では足りないほど、身体に満ちるものはどす黒い。
かなうなら。
同じ目に合わせたい。
いや、それ以上の目に。
それで傷ついたなら、ざまあみろ、と罵倒したい。
―――――何も持っていなかったなら。
清音は、躊躇わず、それを実行した。入念に計画を立てて。何年かかっても。だが。
…清貴がいた。弟が。
彼がいるからこそ、他のすべてを捨てて、復讐だけに走っている時間などない。
弟のせいにするわけではない。
彼のおかげだ、と思う。
憎悪は消えない。
暗い衝動は、こうなった以上、清音が生涯抱えて生きなければならないシロモノだ。けれど、それだけのために生涯を費やす虚しさと苦痛を、清音は思わずにいられない。
そうせずいられたのは。
清貴の、おかげ。
「彼らのことを考えると、こう…、行き場のない感情が、生まれるんだ。渦を巻いて、身体の中で、ぐるぐるしてる。消えないなぁ、これは。たぶんずっと、死ぬまで。でも」
胸元を掴み、清音は言葉を噛み締めた。
「清貴が、いる。おかげで復讐に走らなかったから、私は。…皆と、出会えたよ」
あらゆるしがらみを無視して、破滅に走ることは、清音にはできない。
絆を育み、しあわせになることこそがきっと、あの日亡くなった皆の望みで、…ある意味で、これ以上ない復讐にもなるだろう。
彼らとの生活が、近いうちに終わることも、分かっているけれど。
だからと言って、終わりを嘆いて投げ出すなんて、もったいないことはできない。
ただ、―――――出会えた、その幸福を思う。
言って、清音が見せたあかるい表情に。
刀馬は、ホッと息を吐く。そう、とやさしげに微笑んだ。
「実はおれね、…ほら、妹亡くしたって言ったでしょ。生きてたら、清音ちゃんと同じくらい。だからかな、妹と清音ちゃんをなんとなく重ねてたんだけど…、なんか、違った」
否定的な意味じゃなくてね、と刀馬は寂しげに続けた。
「清音ちゃんが似てるのは、―――――義孝さまなんだ」
清音は目を見張る。驚いた。
東州王。
彼に、似ている? 清音が?
「気質は違うけど、根っこの部分がね」
我に返って、清音は慌てて首と両手を横に振る。
「そんな…っ。ぜんぜん、違うよ!私、あんなすごい人じゃない」
全力で否定する清音。刀馬が何か反応する直前、
「いや、オレも本の虫に賛成」
「うわっ!」
突如、清音と刀馬の間に顔を出した宗親に、飛び上がる刀馬。清音は驚きのあまり硬直。
ふたりの反応に満足げに笑い、宗親は清音を見下ろした。
「にしても、王サマのこと、すごいって認めてるんだな、お嬢ちゃん。最初は反発ばっかだったのに、だからここのところ、あんまり怒らないのか」
「うん、まあ…って、私そんなに怒ってた?」
顔を両手で押さえる清音。恥ずかしい。
ぽんぽん、彼女の頭を笑いながら宗親は軽く叩いた。刀馬を見遣る。
「八雲と鬼彦が交替したぞ。仕事、一段落したんなら、お前も休んだらどうだ、本の虫」
刀馬は気弱に笑った。
「…まだ少し、やることが残ってるから」
「…皆より少し到着が遅れたのも、城での仕事があったからだろ。ここに来るのも、他より強行軍だったはずだ」
「大丈夫だよ」
宗親は嘆息。
「―――――分かった。けどな、ちゃんと休めよ」
「分かってる。ありがとう」
「それから」
何気ない口調で、宗親は真摯に続けた。
「何かあったら、相談しろよ。征一朗の代わりにはなれないけどな、一人で抱え込むよかマシなはずだぜ」
丸眼鏡の奥、ふ、と目を見張る刀馬。次いで、穏やかに微笑んだ。
先程の、どこか不器用さがにじむ笑い方と違って、完璧な微笑。というのに。
(…あれ?)
こちらの方が、どこか不自然だ、と清音は感じた。
戸惑い、宗親を横目にすれば、彼の瞳に一瞬、寂しげな色が掠める。
それはほんの刹那。
すぐ消えた、と思うなり、宗親は清音の頭から刀馬の羽織を取り上げた。刀馬に投げて返す。代わりに、自分が肩に引っ掛けていた黒い羽織を清音の肩にかけた。
宗親も香を焚き染めている。その、冷たく甘い香りの奥に、麝香が沈んでいた。
「お前に風邪ひかれせるわけに行かないからな。それは返す。にしても」
刀馬を案じたかと思えば、次の瞬間には、宗親は含みある眼差しを彼に向けている。
「頭から被らせるなんてな。…普通、こう肩にかけるだろ」
言われて清音も気付いた。
だが、それがどういう意味なのか、いまいち分からない。
刀馬は笑顔を崩さない。ごく自然に答えた。
「そうだね。あんまり寒そうだったから、つい」
羽織に腕を通し、襟を整え、刀馬はこめかみをぐりぐり。
疲れた表情は、いつもの彼だった。
「うぅ、だめだ、ちょっと外の風に当たって気分転換してくる」
言いつつ、入ってきた扉から出て行く背中に、宗親は呆れた声を投げる。
「ほどほどにな」
扉が閉まると同時に、宗親は清音を促した。
「さて。戻るか」
「…東州王に言われてきたの?」
隠すことなく頷く宗親。
「お嬢ちゃんが出てった時に、一緒に行った方がいいかって思ったんだけどな。面倒だから放っておいた。ら、そわそわし出した八雲が指摘して、王サマも我に返っておれに命令したってわけ。すぐに気付けないって事は、王サマもけっこう動揺してたみたいだな。お嬢ちゃんはアレだったし、弟君はぐったりしてるし」
清音は目を瞬かせた。
「私や清貴のことで、東州王が動揺する?」
「するする。分からないか?」
並んで歩きながら、面白がるように、宗親。…これだから、その言葉が信用ならないのだ。
見上げたとき、清音は大きくはだけられた胸元に目がいき、慌てて目を逸らすと肩にかけてもらった羽織に手をかける。
「あ、ごめん。これ返すよ。寒いでしょ?」
「そう来るか。だめだぜ、今は、せっかく男が見栄張ってんだから、素直に受け取っとくのが正解だな」
「う。でも…いいの?」
「おう、腕通しとけ。それにな、オレ寒いのは得意なんだよ。本山、ここなんかよりめっちゃ寒いからな」
「本山って…東の斎門の?」
「そこでの生活そのものが修行って感じの寒さだ。…だからこの時季戻りたくないんだよな~」
宗親はしみじみ。
のんびり、義孝の寝室へ向かいながら、続ける。
「でもま、命令なら、仕方ないけどな」
命令。
その言葉に、疑問に思っていたことを尋ねる清音。
「ね、和泉さんはなんでここまでついてきたの」
「ん?」
「東州王の命令じゃないでしょ」
ただの勘だが、義孝は、ここへついてくることを、宗親に強要していない。状況からして、なんとなくそんな気がするのだ。
なにせ、本山へ一時でも戻ってくるよう、再三の便りがあったことを、義孝は知っていた。意外と気遣い屋の彼は、そういうとき、相手に無理強いは決してしない。なのに。
「和泉さん、自分でここまでついてこようって決めて、来たでしょ。そういうの、和泉さんにしては、珍しいから。何か、理由があるのかなって」
清音の眼差しは、真っ直ぐだ。
ふと、隠れるように、顔の半分を片手で覆う宗親。
「あー…、見抜かれてんのな。というのか、意外と見てるのな、お嬢ちゃん。石頭小僧もオレがここにきたの、不思議がってたけど、お嬢ちゃんもとは、意外っつーか」
「もしかして」
少し、清音は不安になった。
宗親は斎門だ。
星を読む。先を見通す。
だからと言って、宗親が怖いとは思わない。だが、彼の行動には何か、隠された意味があるのでは、と少し勘繰ってしまう。
気付いた、というより、そういった疑念を向けられることに慣れているのだろう。
宗親は苦笑。首を横に振った。
「オレが斎門で最高位の御門だからって、何でも知って、見通せるわけじゃない。大体、王サマの隠し事だって知らなかったんだし」
それに、と目を伏せた。
「すべてが分かって、思い通りにできるんなら。―――――アイツのことだって、助けられた」
いつもの軽さも、そして重さもない、平坦な口調。
アイツ。
宗親がそう言った相手はおそらく、…鷲峰征一朗。彼の、友人。
感情がまったくこもらない声に、逆に、清音は宗親の心に潜む傷痕に触れた気がした。口を噤み、息すら潜め、宗親の言葉を待つ。
「オレはさ、知ってたんだ。アイツを行かせたらどうなるか、知ってた。…だから行かせたく、なかった。結果、王サマが死ぬって分かってても、そう、思った」
いつもの彼らしからぬ不器用な物言いで、訥々、続けられる言葉。
「―――――アイツとは幼馴染で、…同じ時間を長く過ごした同い年の相手ってのは、…なんつーか、特別、だろ? …はは、そう言えば、本の虫と王サマも幼馴染なんだぜ? 本の虫はな、どこか、名前の知れない山奥の村出身なんだが、特別頭が良くて、それがある上臈の目に止まって、城に上がって…歳が近いからって、王サマ付きにされたんだ。王サマとアイツとオレと本の虫とは、だから、結構、長い付き合いになるな」
口調は、どこまでも静謐。
宗親の双眸は深い。何をどこまで、彼は見ているのか。
彼自身ではなく、彼の双眸に映るそれが、清音は時折怖くなる。
読んで下さってありがとうございました!




