第七撃 塞がりきっていない傷
× × ×
翌日。
城の奥、さらにその裏手の一角の、花畑。
その片隅で、清音は清貴を膝に抱え、鬼彦にもらった本を広げ、一緒に読んでいた。
日が当たる昼間、あまり風の通らないそこは、日向ぼっこに最適の場所だ。
いつもは二人で楽しむのだが、今日は先客がいた。
先日、会った侍女だ。
名を、花陽。
彼女は、ふたりの隣で同じように腰を下ろし、本を覗き込んでいる。
「じゃ、花陽も字はまったく?」
「『も』って言い方は正しくないわ。清音は、簡単なものなら、読めるじゃない」
清音さま、と呼ばれるのがくすぐったく、呼び捨てで構わない、と言えば、最初渋ったものの、最終的に花陽は承諾してくれた。
公の場では、『さま』付けになるのだろうが、それはそれで仕方ない。
歳が近いこともあり、二人はすぐさま意気投合。
気質が似ているのだろう。
他愛ないお喋りの合間に、軽やかな笑い声があがる。
若くうつくしい娘ふたりが並んでそうしていると、自然の花が咲いていなくとも、大輪の花がそこにあるように、空気があかるく華やいだ。
清音の膝にいる清貴は、少女たちのあかるい笑い声も何のその、うつらうつら、船をこいでいる。
気付いた花陽が、やさしい眼差しを向けながら、声を潜めた。
「清貴くん、眠そうね」
「うん、昨夜、ちゃんと眠れてないから」
あら、と何かに気付いたように清貴をそっと覗き込む花陽。
「額、すりむけてるわね。転んだの?」
苦笑し、そっと弟の頭を撫でる清音。
昨夜の出来事の最後のほうは記憶にないが、清貴が来たことは、おぼろげに覚えていた。
清音の危機に残雪が叫び、その呼び声に遠く離れた時雨が呼応し、清貴はそれに導かれてやってきたのだろう。
ただ、どうやって来たのか、義孝の寝室を警護していた八雲は清貴にまったく気付かなかったらしい。それを言うなら、清音の叫び声も聞こえなかったそうだから、神が現れたとき、寝室は、異空間のようになっていたと考えた方がいいのかもしれない。
というのに、八雲はひどく気落ちしていた。自分の落ち度だ、と。
気にするな、と義孝に再三言っていた。
第一、相手は神だ。
八雲がいくら強くとも、まともに相手取れたかどうか。
清音とて、手元に残雪があったとは言え、願わずにいられない。
(…二度は、ないといいな)
清音の顔がかげる。
あの、悪夢。
義孝が根を上げた、というのも分かる。
酷かった。
弱いところを確実に突いてくる。
無論、義孝と清音の悪夢は別物だ。
だが、克服しきれない、塞がりきっていない傷を抉られる、あの精神の激痛。
耐え切れる者は、そうはいまい。あれを、義孝は幾度も潜り抜けたのだ。
―――――脱帽する他ない。
そのせいか、あまり、義孝に反発を覚えなくなった。
清音が素直なことに、逆に義孝は戸惑っているようだが。
(でも最初から、そんな、喧嘩売ったりしてた覚えないんだけど)
態度は悪かったかもしれないが。
「…って、清音、聞いてる?」
「あ、ごめん。なに?」
もう、と花陽は頬を膨らませる。
彼女は表情豊かで、身振り手振りも大きいが、嫌味でない。健やかにあかるい。
花陽はすぐに微笑み、いらずらっぽく言った。
「東州さまと清音って仲いいわよね。今度、内々で王母さまのいらっしゃる別邸へ向かうときも、御一緒するんでしょ?」
「もう話、いってるんだ。決まったの、今朝なのに」
清音は目を丸くする。
今朝起きて早々、清音は驚いた。清貴も一緒の寝台で眠っていたからだ。
昨夜の記憶が曖昧な清音は、ひとまず義孝を問い詰めた。眠い、とまだ寝台に懐きたがっている東州王を何度か引っ叩いて叩き起こせば、当たり前だが喧嘩になった。
騒ぎに駆けつけた八雲が昨夜の一部始終を知り、そこに鬼彦が現れ昨夜の暗殺者たちの行方を語り、おっとり刀で顔を見せた宗親が落ち込む八雲をからかいはじめ…その騒動が義孝によって強引に落着したのち。
執務室へ向かった彼らに示されたのは、王母からの手紙。
彼女は、息子の不調を心配していた。
「俺は至極元気だ」
心外そうに唸る義孝。とはいえ、義孝の周囲が不穏なのは確かだ。
清音の指摘に、義孝たちは声をそろえて応えた。
―――――曰く、それは『いつも』のこと。
だから、王母が心配するのはよほどのことがあったから、ということになるが。
『神』に関わる話を、身内のものが、身内以外にするわけがない。
義孝たちは、そのように手配している。
となれば、別のところから話が漏れたか、もしくは、まったく考えも及ばない偽情報が王母の耳に届いたか。むろん、内通者が動いた可能性も高い。
色々な憶測は働くが、あくまで、憶測だ。
実際に会って話した方が早いと判断したか、義孝は気が進まない様子で、しかし、はっきりと告げた。
「近々、別邸へ顔を見せに行ったほうがいいかもしれねぇな」
それが、今朝のことだ。
なのにもう、花陽は知っている。
清音が驚いたのはそこだが、花陽は別のことを気にしていた。
少し、寂しげな顔になる。
「いいな、清音は。好きな人と一緒にいられて、…羨ましい」
―――――好きな人。
義孝と清音は、そういう関係ではない。それに。
(不釣合いなことは、分かってるもの)
口は悪いが、義孝は上等の部類の男だ。清音では、釣り合わない。
清音が一瞬、沈んだように、花陽の表情も、ふとかげる。
「…あたしもね、好きな人がいるの」
清音は目を見張った。
少し、意外だったのだ。花陽が恋愛沙汰で、暗い顔をしたことが。
彼女が、恋で悩むことはない気がしていた。
花陽は、文句なしにうつくしい。気性もよい。一緒にいるだけで、あかるくなれる。
彼女を拒絶する男がいるなど、清音は想像できなかった。
戸惑い、首を傾げる。
「…片想い?」
花陽は寂しげに微笑んだ。首を振る。横に。
…そのわりに、しあわせには見えない。
清音が言葉を重ねるのを遮るように、花陽は続けた。
「けど決して結ばれない」
一瞬、言葉を失う清音。
垣間見えた覚悟のような、決意に似たものが、容易な気休めを拒絶している気がしたのだ。
ここから先に踏み入っていいものか分からず、清音は気遣わしげに、花陽の真剣な顔を見守る。
「―――――分かって、いても。堂々と、そばにいたくて。…あたし、とんでもないことを…」
表情が曇り、花陽は項垂れた。
何があったかは、知らない。
清音はうろたえ、膝に乗せた清貴のぬくもりを感じながら、言葉を探す。
話してもらえない以上、いや、教えてもらったとしても、花陽の苦しみを清音が本当の意味で理解することはできない。
だが、清音は花陽に笑っていてほしい。そのいっしんで、励ます声で言った。
「大丈夫!何があったかしらないけど…、生きてる以上、あきらめなけりゃ、取り返しはつくよ」
清音の言葉には、不思議な力がある。
たとえどれだけ困難なことでも、彼女が言えば、できるのではないか、という気にさせられるのだ。
―――――本当に、不可能だ、と思い知っていても。
それを、身をもって感じ取り、俯いたまま花陽は目を瞬かせた。清音の言葉に、頭を上げる、元気をもらえた。
ゆっくり、顔を上げ。
花陽は、やさしく微笑んだ。
「…ふふ。清音って、不思議」
「そう?」
理由は分からないが、花陽が笑ったことに、清音は嬉しくなる。
安堵し、言葉を続けようとした清音の前で、前触れなく花陽は立ち上がった。何かを振り切るように、見えた。
刹那、彼女の微笑に、寂しさが混じる。
「―――――やっぱり、あたしには、…無理」
「花陽?」
「…清音とは、友達に、なりたかったな」
突然のことに、清音は面食らった。それを押し隠し、花陽の雰囲気が変わったことに気付かないふりで、応じる。
「…もう、友達だよ」
頷きかける、花陽。途中で、首を横に振る。罪悪感に満ちた顔で、告げた。
「もう会わない」
「私、何か気に障ることした?」
清音は真摯に尋ねる。また、花陽は首を横に振って、
「したのは、わたし」
踵を返した。言葉を拒絶するように。
その背を、言葉もなく見送って、清音は清貴の髪にぎゅっと頬を押し付けた。
「私、何かしたかなぁ…?」
清音が話せないことがあるように、花陽にも話せないことはあるだろう、と。
そう、感じて。
―――――このとき、無理にでも花陽の内情に踏み入らなかったことを、のちに、清音はひどく悔いることになる。
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