第五撃 おそらくはじめから
月子が、事態を冷静に計算する顔で呟く。
「蔵虫は離れようとしてるけど、今度は逆に、国守が蔵虫を放そうとしない。恨みに囚われすぎて…このままだと」
言葉が最後まで紡がれないうちに、獣は狂ったようにのたうち始めた。
その動きに合わせて、おぞましい音。
昆虫の羽音を何倍にも増したような音と震動が、大気を固く震わせる。
なじみある音。
血の気が引いた。
「まさか…、蔵代をこじ開けようとしてるんですか!?」
「うん。帰りたいけど放してもらえないから、蔵虫がここに蔵代を現出させようとしてる」
危機感がない月子の口調に、宇津木が飛び上がる。
「なんですとっ?」
蔵代が開く。下手をすれば、碧翔郭が戦場になるだろう。
七年前の、灰垣塚みたいに。
ただし、ここに顔を揃えてるのは、勇壮な精鋭たちじゃない。
腰を抜かしてへたり込む者が続出する。
膨れ上がろうとするのは、張り裂けそうな恐慌。僕は意を決した。
一歩踏み出した袖を、後ろから月子が引っ張る。
「どうするんだ?」
「とめます」
「どうやって」
「分かりません。ですが」
僕の星を覆う、死の影。
それが消えた、とは月子は言っていない。
僕の死に、周囲が巻き込まれようとしてるんじゃないか?
恐ろしい予感が、焦燥の爪で僕の胸を引っ掻く。
月子はしずかに首を振った。横に。
「…誰も、死なないよ」
月子は飄々と僕の前に出る。悲愴さと無縁の横顔に、僕は面食らった。
「月子。何か、策が?」
「うん」
月子は、何かを抱えるように、迎え入れるように、両手を広げる。
その姿勢に、僕は口を噤んだ。宇津木と視線を交わす。
頷いた彼は、今にも崩れ落ちようとする周囲に向かって叫んだ。
「案ずるな! 今、楔が穿たれる!」
宇津木の言葉こそ、正気をつなぎとめる楔だった。
視線が、雪崩を打って月子に集中する。
月子は、楔を産み落とそうとしていた。
それは大地の脈動に相通じる不可視の力であり、地脈を穿つもの――――。
久世の血が伝える力の一つ。
かつて、国守が産み出したものより、はるかに大きな気配が、月子を中心に高まってく。
メキ。
樹皮が爆ぜるような音がした。
月子は、その音目がけ、
「――――閉じろ!」
練った力をぶち込んだ。
ドンッ!と、鉄槌が落ちたような音が大地を揺るがす。激烈な重力の鉄槌だ。
とたん、霧が晴れ行くように、蔵代の脈動を告げる震動が消える。
蔵代が、閉じた。
それも、跡形もなく。
月子は根から消した。普通、一度開いた蔵代は二度と閉じない。それを。
抹消。
あまりの呆気なさに、一同、唖然。
月子は涼しい顔で、ひとつ頷き、ふと、寂しげな目を蔵虫に向ける。
「いのちの火が、消える」
獣の姿が変容を始めた。
いち早く気付いた宇津木が、巨体に似合わない敏捷さで蔵虫に駆け寄る。
いや、かつて獣の姿をとっていたその姿は今や、一人の男に変わってた。
「国守…っ!」
尊い身に、一時触れることを躊躇った大きな手は、思い切ったようにそろそろと国守を抱き上げる。
国守の口元が動いた。
耳を寄せた宇津木は、ハッと目を見開く。
僕が近寄ると、宇津木は苦渋の目をして、無言で国守を僕に預けた。
その目が、ちら、と月子を見上げる。
無言で、どんな会話が成されたか、月子は頷いた。
宇津木は一度碧翔郭をはるかに見上げ、身を翻し何処かへと駆けて行く。
月子は黙ったままじっと国守を見下ろし、なにも言わない。
僕の手の中で、弱い鼓動が消えていく。
僕が殺したも同然だ。僕はこころに、罪を刻み付ける。
その思いに気付いたか、国守の口元が綻んだ。
気にするな、唇はそう動いたようだ。
ありがとう、とも。
蔵虫すら同調させた憎悪の持ち主とは思えないほど、その微笑は静謐だった。
果たされなかった復讐に安堵するように、双眸が閉じようとする。そのとき。
瞳が、愕然と開かれた。
視線が、僕を貫いた背後に固定される。
僕は振り向いた。なにもない。戸惑って、顔を戻す。瞬間。
僕は虚を突かれた。
月子の隣に、髪の長い女の姿がある。気配の欠片もなかったのに。
確かに目がその姿を映している、たった今ですら。
まるで、空気みたいな存在感。
月子は、興味なさげに彼女を一瞥。その顔が、瓜二つだ。
僕の脳裏に、一つの名が閃く。
花陽。
耳元に、昨夜の月子の声が蘇った。
――――花陽の魂は、国守の近くにある。かなしいって、泣いてる。
今、彼女は、微笑んでる。闇夜における一点の、灯火みたいに。
月子は至極優雅に、横へ退く。彼女に、場を譲るように。
僕は腕の中の国守を見下ろした。
彼の顔から、一切の影が抜け落ちる。現れ出たのは、見るからに温雅な顔の男。
国守でもなく、運命に苛められた子供の顔でもなく、飾らない、素の。
そして、微笑む。花陽を見つめて。
とても魅力的な笑顔だった。
花陽は、見る者すべてが恋に落ちそうな微笑を振りまき、国守の手を取った。
胸に抱くように引き寄せる。
立ち上がらせようとしてるのか?
無理だ、と思ったときには、風に攫われるみたいに、国守は立ち上がってた。と言うのに、僕の腕の中で、肉体の重みが増す。
僕は悟った。
花陽は奪ったのだ。たった今、国守の魂を。
奪う? 違う、おそらくはじめから、彼女のものだった。
見つめあい、微笑み合った瞬間、二人は消える。
最後の一瞬、月子を見たようだったが、定かでない。
行ってしまった。
誰もが、その場の沈黙がもたらす均衡を破るのを恐れ、言葉もない空間に。
「耳ある者は聴け!」
怒号めいた一喝が、大気を殴る。全員の視線が吸われた先にいたのは。
先ほど駆け去った宇津木だ。彼は荒らぐ息を肩でつき、ふき出る汗を拭い、ばらり、と眼前に書簡を広げた。
周囲に示すようにして、大声で人々の耳を貫く。
「国守の御遺言であるっ!」
はっとした一同が、驚愕や戸惑いを感じるより先に、打たれたような沈黙の中、宇津木は腹の底から声を張り上げた。
「花陽が息子第一子、月子を廃嫡し、栞が息子第二子、義治を世継ぎと成す」
誰かが鋭く息を吸う。
幾人かが、月子を振り向いた。
その目は女官が多い。
花陽を覚えていた者は、すぐさま彼女と月子をつなげたに違いない。
なにより月子は、久世の力をはっきりと示した。
月子は、安らかな顔でつめたくなっていく父親を見下ろした。
その口元に、やさしい親しみが浮かぶ。
「やるなあ」
とたん、空気をつんざく金切り声が上がった。
「そうだ、その顔! あの女と同じ顔…! あの子供が、国守を殺したのよ!」
声の主は、女官に守られるように立っていた女だ。
誰なのか、確かめるまでもない。
事態を引っ掻き回す達人。御正室様、だ。
「その刀術士を使って…!逃がしてはなりません、その者ども、大逆人ですっ。早く、誰か早くあの二人を殺して!!」
僕は国守の遺体を慎重に地べたへ横たえる。
宇津木の戸惑った声が耳に届いた。
「何を仰っているのですか、奥方様っ? これ以上久世の血を流させるのですか…のみならず、かの刀術士は、かつてアナタのお命を救った者ですぞ!」
「早く殺しなさい!!」
栞は聞く耳を持ってない。
絶叫に、幾人かの刀術士たちが前へ出る。
応じ、僕は立ち上がった。
誰の目も僕の姿に、畏怖と憐憫を浮かべてる。
それ以上戦えないだろう、と囁き、おしとどめるみたいに。
刀術士たちが、一斉に地を蹴った。
僕、ではない、月子目がけ。
すべての刃の軌跡が、一撃必殺、急所を狙ってた。苦しまず、死ねるように。
ああ、やさしいね。
僕は微笑む。だが。
「散りなさい」
時雨の切っ先が跳ね上がった。次の瞬間。
――――一振り、でしたね。
それを見てた相手が、あとで慄然と僕に語るように、時雨の一閃は一度の唸りだけで、すべての刀術士を無力化した。
月子を中心に固まり、刹那、爆発の勢いで吹っ飛ばす。
花開くように僕と月子を囲み、彼らは呻き声を上げた。
僕自身、どうやったか分からない。我武者羅に、時雨に導かれて動いただけだ。
まっすぐ伸ばした背に、月子の息遣い。
一指も触れさせない。
しかも、一人も殺さない。
素敵な課題だ。
僕の口元に、笑み。それが剃刀みたいだって自覚はしてる。
「心中、と言うことになるかもしれませんね」
「いい」
月子の声は、どこか、陶然と。
「羨ましいくらい最高の死に様だ」
人垣の一角が、崩れた。駆け出そうとして尻込みしてた刀術士たちが、複数、倒れてる。
「この指示は、納得行きません。月子さまに加勢します」
現れたのは、蓮だ。
その間、周囲を薙ぎ払うみたいに、宇津木が僕たちの方へ駆けつける。
「しずまれ!刀術士は義の存在。命令に従うだけの操り人形のことを言うのではないっ」
将兵の指示に、状況をまだ把握できない彼らは戸惑った。
この場で最高権力者たる女の指示との間で、板ばさみだ。
とたん、頭上で刃音。
見上げれば、飛び交う黒影が目に映った。黒羽。
雪崩をうつ複数に対し、誰かが捨て身で応戦してる。同じ、黒羽だ。
「鷹矢」
見上げ、月子が呟く。
おそらく、蓮と同じ。仕事はともなく、月子には悪感情がないようだったから、こっちに加勢してくれたんだろう。
しかし、あのままでは。
「奥方様、命令の撤回を!」
「宇津木…っ。アナタ、大逆人に味方するの…!」
宇津木の必死の声も栞には届かない。
止めようがなかった。僕は覚悟する。
国軍と刃をかわすことを。
いないだろう、国守が亡くなった今、栞をとめられる者など。
「何をしているの!殺しなさい、もろともに!!」
しかし、刀術士たちは栞の命令に背を突かれても、動けなかった。
宇津木親子、その力の程は、骨の髄まで知っている。
そして、僕の戦いぶりは、つい先ほど目の当たりにしたばかりだ。
無策で突っ込む相手は愚者と言えた。
引き攣れたような事態の拮抗に、痺れを切らした栞が、何か叫ぼうとした瞬間。
「止めよ!」
毅然とした声が、一同を打った。
「我が姉に無礼は許さぬ」
声の主を見た者たちが、打ち据えられたように、次々膝を折る。
黒羽たちの乱刃もやんだ。
慄くように、誰かが彼の名を呼ぶ。
「…義治様…!」
僕は意外な相手の登場に、頬を叩かれた心地になる。
次いで、詰めてた息を大きく吐き出した。
そうだ、国守は名指ししたではないか。義治を世継ぎと成す、と。
なら、彼こそが。
包帯を巻いた肩に羽織一枚引っ掛けた姿で、青ざめた少年は胸を張った。失われた片腕など、気にも留めず。
その背後に、僕は意外な人物を見た。
風丸。
そうか。僕は理解した。
風丸は、義治の手駒――――義治は端から、事態を憂い、動いてたんだ。
ふらつく足で地面を踏みしめ、義治は月子へと進む。
栞が叫んだ。
「義治っ。そんな、どこの馬の骨とも知らぬものに、身に過ぎた言葉を…っ」
一瞬、苛立ちが義治の目を過ぎった。顎を引き、彼は叱責を放つ。
「いい加減になさい、母上!…この方は、わたしの姉です」
「何を言うのです、義治…っ。証拠は?証拠がどこにっ?」
息子の厳しい言葉に、栞は震え上がりながらも反論した。
言いながら、勝ち誇る。
「どこにもないでしょう?」
義治はかなしげに目を伏せた。多分にあわれみがこもった態度だ。
「物的証拠など何の意味もない。久世の血は、呼び合うのです。無視できるものではありません」
ゆえにこそ、持て余し、直系以外の血筋の者は力を制御できず発狂し、夭逝する。
久世の血が、直系しか残らないのは、そういうことだ。
強すぎる力は、猛毒に等しい。
義治の言葉に、今度こそ全員が、口を閉ざした。
義治は母親を一瞥する。
「父上と同調し、私はすべてを知りました。これ以上、幻滅させないでください」
栞は、言葉もなくへたり込んだ。
義治は月子の前に立った。
膝を折る。
「…姉上、母や宰相の数々の無礼、どうかお許しください。そして、なにとぞ城へお戻りになり、その偉大なるお力で、父上の跡を継がれますよう」
ざわめきが、漣となった。
月子は苦笑。首を横に振る。
「私が? お前がいるよ、義治」
「姉上が、わたしより優れた資質をお持ちなのは、誰の目にも明らかです」
頑なな声を上げ、義治は月子の返事をじっと待った。
肯定以外認めないといった気迫だ。
それに釣り込まれることもなく、月子は呑気に首を振った。横に。
「弟の顔を見られたから、私はそれでいい。父上のことは…仕方ない」
「姉上」
義治の言葉を遮るように、月子は宣言した。
「私は、お前に何も求めない。久世の血に、何も求めない。求めたとしたなら、…会うことだけだ。大切な人の遺言って、だけじゃなく」
月子は微笑む。義治は押し黙った。泣きそうな顔で。
「私が国守となったら、民がかわいそうだ。やる気がないからな。その上、調和と無縁の気質だし。その点、義治なら問題ない」
同意を求めるように、僕を見上げ、微笑む月子。
僕も微笑み返した。
高貴な姉弟を交互に見遣る。
大丈夫だ。
そう、もう大丈夫だ。ぜんぶ、うまくいく。
栞を見遣り、気抜けた彼女の様子に、僕は苦笑。
少し離れた場所に立っていた如月は、何を考えているか分からない無表情。
まだまだ前途多難な気になる僕。
でも。
今はだめかもしれないが、きっと、そのうち。
時に僕は楽観的過ぎると言われるが、そんなことはない。
しばしの沈黙の後、御意、と立ち上がる義治。
その後ろに、いつでも支えられるよう、風丸がしずかに立った。
励ますように頷く月子。
ふいに、何を感じたか、弟と揃って星空を見上げる。
一時、何かに目を凝らし、耳を澄ませ、…直後、ぱっと僕に向き直った。
その目をかがやいている。
と見るなり、僕の腕の中に飛び込んできた。
「いいことは続くみたいだ。清貴の星から、死の影が消えた」
ふらつく足に力を込め、意地で踏みとどまったが、僕は失血で倒れそうだ。
けど。
どうやら、僕の命は安全を約束されたらしい。
手の内で、時雨がからかうように、涼やかな音を立てた。
読んで下さってありがとうございました!




