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封神草紙  作者: 野中
第一部/第四章
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第二撃  急がねば

進むにつれ、緊張と好奇心がない交ぜの視線を束で感じた。僕は肌が痒くなったが、月子は悠然と揺るぎない。鈍いだけかもしれないが。

周囲の緊張は、月子のせいもあるに違いない。月子の立ち居振る舞い、存在感は碧翔郭の主人のようだ。月子は、どこにいても自然体で飾らない、そのくせ、知らず知らず目で追ってしまう優美さを生まれつき備えてる。

ところが月子本人は、それをまったく意識していない。

「…では、宰相をお呼びしてまいります。しばらくお待ちください」

通されたのは、上の間だ。

磨きぬかれた床の上に、円座が丸の形で配置されてる。

僕は剣帯から、時雨を鞘ごと引き抜いた。

とたん、掌に小刻みの震えが伝わる。僕はしずかに見下ろした。


昨夜から細かく啼いてる気がする。

蔵虫の影響だ、おそらくは。


ならば、僕がやるべきことは決まったも同然。


宰相はどう出るだろう?

円座に腰を落とした月子の隣に座りながら、僕はなんとはなしに呟く。

「そういえば、昨夜途中で風丸も鷹矢もいなくなったきりですね」

「央州だし、ご主人の許へ戻ったのかも」


これまでは姿が見えなくとも、どこかにいる気配を感じていたのだが、気付けばいなくなってた。

ここまでついてきていた黒羽たちの監視の目も、碧翔郭では拡散してる。

事態は確実に動いてた。そのとき。


僕は、戸布を一瞥、そばに置いた時雨に指を滑らせる。



「――――失礼致します」



淑やかに入ってきたのは、宰相でも女官でもない。

宰相の、妻。


春菜。


僕は目を見張る。

胸を満たしたのは、苦味でも甘さでもない。

居たたまれないような気まずさだ。

一瞬、平常心が揺らぐ。とは言え、それきりで心の粟立ちは沈殿した。

そのとき僕は、隣の月子がどういう顔をしたか見損ねてしまう。

僕たちの前にお茶を置き、春菜は丁度対面の円座に腰を落とした。

「お久しぶりね」


「碧翔郭は人手不足なんですか?宰相の奥方がこのような役を買って出るなんて」

「二人のことがあんまり懐かしいから、あたしが自主的にやったのよ。厨房での女官たちの争いをおさめるためでもあるわね」

「押し付け合いですか」

「違うわよ。相変わらずね」

懐かしそうに笑って、春菜は月子に頭を下げた。


「お久しぶりでございます、月子さま。ご無事でなによりですわ」

「うん。春菜のほうは、お子さんが二人生まれたって聞いたよ。幸せそうでよかった」

「お気にかけてくださっていたのですか」

はにかんだ春菜に、月子は無造作に頷き、僕に手を伸ばす。


「報告してくれたお返しに、私も報告」


そのまま、ぎゅう。

予測外の怪力で僕の胴を締め上げ…いや、抱きついた。

僕は呆然。この状況で、たいした胆力だ。たとえ、色気がほとんどなくて、動物が加減なしにじゃれ付いてくる感がしたとしても。

感心・自失半ばの僕の前で、月子は春菜に片手を挙げた。

「こういうわけだから」


「こ」

目の端に映る春菜も硬直。聡明な彼女のことだ、月子の出生もある程度承知だろう。

その、高貴で尊い血筋の少女が、元婚約者の男とできていたのだ。聡明である以上に彼女は誇り高い。

衝撃から来る怒りが向くのは、必然、僕だ。

絶句した春菜の手元の椀から、トーッ、と、緑茶がこぼれた。それに気付いた様子もなく、彼女は悲鳴じみた声を上げる。


「あ…っ、あたしが二の次だったのは、月子さまとそういう関係だったからなのね!?」

いきなり妙な方向へ暴走した春菜に、正気に戻れとばかりに僕。

「どうしてそうなるんですか!当時月子が幾つだか分かってますっ?」

「信じられない、清貴、アンタ子供に手を出したのね、このケダモノ!」

「手は出してません、まだ!」

「まだって何よ!!」


僕の頭の片隅で、冷静な部分が呟いた。

再会直後、なぜ痴話喧嘩みたいになってるんだろう?

しかも、ここは公共の場だ。冷静に、オトナの会話、オトナの会話を…。


思うなり、全力でじゃれついていた月子が、僕の肩越しに何を見たのか、チッと鋭く舌打ち。

…月子が僕に見せた、はじめての反応だ。

新鮮に思うより、不穏を感じる僕。

振り向けば、戸口で先ほどの文官が硬直していた。


その隣から、一片の動揺もない宰相が進み出る。濡れ場の真っ最中に出くわしても、表情一つ変えず隣を通り過ぎて行きそうな男だ。

僕は宰相の沈毅重厚な面立ちのおかげで、水を被ったみたいに平静に戻る。

気を削がれた月子が離れ、乱れかけていた僕の襟元を直した。

どこか拗ねた可愛い態度だが、あらゆる意味で本気だ。僕は隣を刺激しないよう、座りなおした。


宰相は、真っ先に妻へ顔を向ける。

「なぜ、ここにいるのだね、春菜」

「久しぶりに、東州の昔話をできる人たちが来られたんですもの。積もる話をしたかったんです」

どうやら、春菜の出現は、宰相のあずかり知らぬことだったらしい。


思えば昔から、春菜は物見高かった。昨夜、儀式の場にいたのも、好奇心だろう。


「でも、アナタが来たからには、ここから先はお仕事なのね。…席を外しますわ」

小娘みたいに短気な怒りを見せたのが嘘のようだ。

聞き分けよく、気紛れな蝶のごとく身を翻し、春菜は上の間を出て行った。

春菜の背を見送り嘆息し、宰相は僕を一瞥。彼の視線は昔から変わらない。堅物らしい硬質さの中に、抑えがたい嫉妬がある。

いや、嫉妬と言うのも生温い、殺意だ。

色恋沙汰が絡むと、君子も愚者になる。


宰相は月子に頭を下げた。

「お久しぶりです。月子さま」

「久しぶり、如月。昔からだけど、ちょっと無粋だよ」

刺客の繰り手を前に、月子はまったく気圧されない。悠然とたしなめる言い草に、宰相はニンガリ笑う。


僕は心中、意外だった。

この男の、これほど打ち解けた態度は、はじめて見た。とはいえ、たとえ宰相が月子に好意を持っていても、状況は何も変わらない。

宰相は、公的意思と個人的好意とに一線を引くのに迷いない男だ。


「清貴殿とは、仲がよいのですな」

「生まれたときからの付き合いだからね」

宰相は、先ほど春菜が座っていた円座に腰を落とす。案内役の文官は、退室することもなくそばに控えてた。


「早速ですが、…なぜ、この時間に真正面からお越しになられたのです。夜、山門からお招きする予定だったはずですが…、この意表外の訪問は、清貴殿のやり口ですかな」


後半は、僕に向けた問いだ。

胡坐をかき、僕は頷いた。

「そうです。何がしかの汚点めいた扱いは御免被りたい」

「宇津木将軍に迷惑をかけるとは思いませんでしたか?」

それを言われると弱い。だが、言いなりでは主導権を握れない。

「将軍には悪いことをしました。あとで詫びに猪でも獲ってきましょう。まあ、生きて碧翔郭を出られたら、ですが」


「人聞きの悪い、そもそも、お迎えするつもりでおりましたよ」

「それが本当なら、奪ったものをお返し願いたいですね」

「言いがかりですな。他から何か奪わねばならないほど困窮しておりません」

僕は内心嘆息。

このままだと、話が進まない。

なんとはなしに、時雨に目を向けた。

瞬間、天井裏や柱の影から、一挙に殺気が迸る。黒羽か。


「申し訳ありませんが、宰相殿。腹芸に付き合っている暇はありません」


いつでも太刀を振るえるように昂揚する肉体に対し、意識が冴え冴えと醒めていく。

態度の変化に気付いた宰相が、口を噤んだ。

この男の、察しがいいところは助かる。

微笑む僕。

「何から話せばいいか…そう、七年前のことを少し、よろしいですか」


「昔話ですな」

宰相の表情は変わらない。だが、双眸に警戒が過ぎった。

現状とつながらない話題に、相手の出方を待つ姿勢。

別に、焦らすつもりはない。


実際、時間がないのだ。僕はあっさり札をめくった。




「七年前、灰垣塚で、僕は蔵虫と相対しました。それは、白炎の毛皮を持つ、双頭の狼の姿で軍隊の前に立ち塞がった。そのとき、僕は相手の一眼を潰した」




宰相は黙って先を促した。

国守を支配した蔵虫を連想したろうが、何も言わない。

それならそれで構わない。

彼が言おうと言うまいと、僕には支障がない。

さらに踏み込む僕。

「昨夜、その蔵虫は僕を見つけました」


「同調したときだね」

反応したのは、月子だ。それは僕と月子にしか分からない符号だった。


「はい。蔵虫は僕を呼んでいます。おそらく、ヤツの目的は二つ。僕への報復。そして、御正室様――――」

の命、とまで明言はできない。


すれば、避けがたい現実になってしまいそうだ。






「蔵虫の戦意に、時雨がうるさいくらい啼いています。…急がねば、国守は手遅れになる」






「宇津木将軍から聞いていたが、本当に何もかも御存知のようだ」

宰相は心の整理をつけるように呟いた。おもむろに尋ねる。

「…報復、と言っても、清貴殿におとなしく殺されるつもりはないだろう」

「そのつもりがあれば、宰相は僕を捧げるつもりですか?」



「無論だ」






読んで下さってありがとうございました!

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