第二撃 急がねば
進むにつれ、緊張と好奇心がない交ぜの視線を束で感じた。僕は肌が痒くなったが、月子は悠然と揺るぎない。鈍いだけかもしれないが。
周囲の緊張は、月子のせいもあるに違いない。月子の立ち居振る舞い、存在感は碧翔郭の主人のようだ。月子は、どこにいても自然体で飾らない、そのくせ、知らず知らず目で追ってしまう優美さを生まれつき備えてる。
ところが月子本人は、それをまったく意識していない。
「…では、宰相をお呼びしてまいります。しばらくお待ちください」
通されたのは、上の間だ。
磨きぬかれた床の上に、円座が丸の形で配置されてる。
僕は剣帯から、時雨を鞘ごと引き抜いた。
とたん、掌に小刻みの震えが伝わる。僕はしずかに見下ろした。
昨夜から細かく啼いてる気がする。
蔵虫の影響だ、おそらくは。
ならば、僕がやるべきことは決まったも同然。
宰相はどう出るだろう?
円座に腰を落とした月子の隣に座りながら、僕はなんとはなしに呟く。
「そういえば、昨夜途中で風丸も鷹矢もいなくなったきりですね」
「央州だし、ご主人の許へ戻ったのかも」
これまでは姿が見えなくとも、どこかにいる気配を感じていたのだが、気付けばいなくなってた。
ここまでついてきていた黒羽たちの監視の目も、碧翔郭では拡散してる。
事態は確実に動いてた。そのとき。
僕は、戸布を一瞥、そばに置いた時雨に指を滑らせる。
「――――失礼致します」
淑やかに入ってきたのは、宰相でも女官でもない。
宰相の、妻。
春菜。
僕は目を見張る。
胸を満たしたのは、苦味でも甘さでもない。
居たたまれないような気まずさだ。
一瞬、平常心が揺らぐ。とは言え、それきりで心の粟立ちは沈殿した。
そのとき僕は、隣の月子がどういう顔をしたか見損ねてしまう。
僕たちの前にお茶を置き、春菜は丁度対面の円座に腰を落とした。
「お久しぶりね」
「碧翔郭は人手不足なんですか?宰相の奥方がこのような役を買って出るなんて」
「二人のことがあんまり懐かしいから、あたしが自主的にやったのよ。厨房での女官たちの争いをおさめるためでもあるわね」
「押し付け合いですか」
「違うわよ。相変わらずね」
懐かしそうに笑って、春菜は月子に頭を下げた。
「お久しぶりでございます、月子さま。ご無事でなによりですわ」
「うん。春菜のほうは、お子さんが二人生まれたって聞いたよ。幸せそうでよかった」
「お気にかけてくださっていたのですか」
はにかんだ春菜に、月子は無造作に頷き、僕に手を伸ばす。
「報告してくれたお返しに、私も報告」
そのまま、ぎゅう。
予測外の怪力で僕の胴を締め上げ…いや、抱きついた。
僕は呆然。この状況で、たいした胆力だ。たとえ、色気がほとんどなくて、動物が加減なしにじゃれ付いてくる感がしたとしても。
感心・自失半ばの僕の前で、月子は春菜に片手を挙げた。
「こういうわけだから」
「こ」
目の端に映る春菜も硬直。聡明な彼女のことだ、月子の出生もある程度承知だろう。
その、高貴で尊い血筋の少女が、元婚約者の男とできていたのだ。聡明である以上に彼女は誇り高い。
衝撃から来る怒りが向くのは、必然、僕だ。
絶句した春菜の手元の椀から、トーッ、と、緑茶がこぼれた。それに気付いた様子もなく、彼女は悲鳴じみた声を上げる。
「あ…っ、あたしが二の次だったのは、月子さまとそういう関係だったからなのね!?」
いきなり妙な方向へ暴走した春菜に、正気に戻れとばかりに僕。
「どうしてそうなるんですか!当時月子が幾つだか分かってますっ?」
「信じられない、清貴、アンタ子供に手を出したのね、このケダモノ!」
「手は出してません、まだ!」
「まだって何よ!!」
僕の頭の片隅で、冷静な部分が呟いた。
再会直後、なぜ痴話喧嘩みたいになってるんだろう?
しかも、ここは公共の場だ。冷静に、オトナの会話、オトナの会話を…。
思うなり、全力でじゃれついていた月子が、僕の肩越しに何を見たのか、チッと鋭く舌打ち。
…月子が僕に見せた、はじめての反応だ。
新鮮に思うより、不穏を感じる僕。
振り向けば、戸口で先ほどの文官が硬直していた。
その隣から、一片の動揺もない宰相が進み出る。濡れ場の真っ最中に出くわしても、表情一つ変えず隣を通り過ぎて行きそうな男だ。
僕は宰相の沈毅重厚な面立ちのおかげで、水を被ったみたいに平静に戻る。
気を削がれた月子が離れ、乱れかけていた僕の襟元を直した。
どこか拗ねた可愛い態度だが、あらゆる意味で本気だ。僕は隣を刺激しないよう、座りなおした。
宰相は、真っ先に妻へ顔を向ける。
「なぜ、ここにいるのだね、春菜」
「久しぶりに、東州の昔話をできる人たちが来られたんですもの。積もる話をしたかったんです」
どうやら、春菜の出現は、宰相のあずかり知らぬことだったらしい。
思えば昔から、春菜は物見高かった。昨夜、儀式の場にいたのも、好奇心だろう。
「でも、アナタが来たからには、ここから先はお仕事なのね。…席を外しますわ」
小娘みたいに短気な怒りを見せたのが嘘のようだ。
聞き分けよく、気紛れな蝶のごとく身を翻し、春菜は上の間を出て行った。
春菜の背を見送り嘆息し、宰相は僕を一瞥。彼の視線は昔から変わらない。堅物らしい硬質さの中に、抑えがたい嫉妬がある。
いや、嫉妬と言うのも生温い、殺意だ。
色恋沙汰が絡むと、君子も愚者になる。
宰相は月子に頭を下げた。
「お久しぶりです。月子さま」
「久しぶり、如月。昔からだけど、ちょっと無粋だよ」
刺客の繰り手を前に、月子はまったく気圧されない。悠然とたしなめる言い草に、宰相はニンガリ笑う。
僕は心中、意外だった。
この男の、これほど打ち解けた態度は、はじめて見た。とはいえ、たとえ宰相が月子に好意を持っていても、状況は何も変わらない。
宰相は、公的意思と個人的好意とに一線を引くのに迷いない男だ。
「清貴殿とは、仲がよいのですな」
「生まれたときからの付き合いだからね」
宰相は、先ほど春菜が座っていた円座に腰を落とす。案内役の文官は、退室することもなくそばに控えてた。
「早速ですが、…なぜ、この時間に真正面からお越しになられたのです。夜、山門からお招きする予定だったはずですが…、この意表外の訪問は、清貴殿のやり口ですかな」
後半は、僕に向けた問いだ。
胡坐をかき、僕は頷いた。
「そうです。何がしかの汚点めいた扱いは御免被りたい」
「宇津木将軍に迷惑をかけるとは思いませんでしたか?」
それを言われると弱い。だが、言いなりでは主導権を握れない。
「将軍には悪いことをしました。あとで詫びに猪でも獲ってきましょう。まあ、生きて碧翔郭を出られたら、ですが」
「人聞きの悪い、そもそも、お迎えするつもりでおりましたよ」
「それが本当なら、奪ったものをお返し願いたいですね」
「言いがかりですな。他から何か奪わねばならないほど困窮しておりません」
僕は内心嘆息。
このままだと、話が進まない。
なんとはなしに、時雨に目を向けた。
瞬間、天井裏や柱の影から、一挙に殺気が迸る。黒羽か。
「申し訳ありませんが、宰相殿。腹芸に付き合っている暇はありません」
いつでも太刀を振るえるように昂揚する肉体に対し、意識が冴え冴えと醒めていく。
態度の変化に気付いた宰相が、口を噤んだ。
この男の、察しがいいところは助かる。
微笑む僕。
「何から話せばいいか…そう、七年前のことを少し、よろしいですか」
「昔話ですな」
宰相の表情は変わらない。だが、双眸に警戒が過ぎった。
現状とつながらない話題に、相手の出方を待つ姿勢。
別に、焦らすつもりはない。
実際、時間がないのだ。僕はあっさり札をめくった。
「七年前、灰垣塚で、僕は蔵虫と相対しました。それは、白炎の毛皮を持つ、双頭の狼の姿で軍隊の前に立ち塞がった。そのとき、僕は相手の一眼を潰した」
宰相は黙って先を促した。
国守を支配した蔵虫を連想したろうが、何も言わない。
それならそれで構わない。
彼が言おうと言うまいと、僕には支障がない。
さらに踏み込む僕。
「昨夜、その蔵虫は僕を見つけました」
「同調したときだね」
反応したのは、月子だ。それは僕と月子にしか分からない符号だった。
「はい。蔵虫は僕を呼んでいます。おそらく、ヤツの目的は二つ。僕への報復。そして、御正室様――――」
の命、とまで明言はできない。
すれば、避けがたい現実になってしまいそうだ。
「蔵虫の戦意に、時雨がうるさいくらい啼いています。…急がねば、国守は手遅れになる」
「宇津木将軍から聞いていたが、本当に何もかも御存知のようだ」
宰相は心の整理をつけるように呟いた。おもむろに尋ねる。
「…報復、と言っても、清貴殿におとなしく殺されるつもりはないだろう」
「そのつもりがあれば、宰相は僕を捧げるつもりですか?」
「無論だ」
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