第八撃 言い訳を与えた
見渡せば、見慣れない部屋で、僕は夜具に横たわってた。感じからして、宿の一部屋のようだが。
灯明の橙のひかりが、淡く室内を照らしてる。
「…気付いた? 清貴」
抑えた声に目を上げれば、つめたく濡れた手拭いが額に触れた。月子の、心配そうな顔が覗き込んでくる。
「もしかして、また同調した?」
「…はい」
「なら、話は早いね。宇津木が、頑張ってくれたみたいだ。何事もなく、碧翔郭へ渡れそうだよ」
手拭いを僕の額に乗せ、月子は屈託なく笑った。
だが、違う。その笑みは、僕にいつも見せる笑い方じゃない。
僕にはわかる。
距離が、あった。
…不安になる。
「…月子?」
言いたいことがあるなら、と促す僕に、月子はひとつ頷き、いつもの調子で、一言。
「清貴はここまででいいよ」
衒いなく、月子は言い切る。
僕は答えられない。
咄嗟に、月子の言葉をどう考えればいいのか分からなかった。
黙り込む僕になにを思ったか、月子はあっけらかんと続ける。
「これ以上一緒にいるのは良くない。学習院の裏庭で、清貴がひどい目にあったのは、私の力のせいだ。このままだと、もっとひどいことになるかもしれない。なにより、清貴の死の気配が、強くなってる。刻一刻」
そう言えば、あれからどのくらい経った?
一日は、過ぎてないはずだ。
血が詰まったみたいに鈍い思考をどうにか手繰りながら、尋ねる。
「あれ、から。どのくらい経ちました?」
「今は、同じ日の夜だよ」
「ここは?」
「流行らない宿。宇津木のトコに泊めてもらうつもりだったけど、清貴に赤闇が出てたから、こっちにした。騒がれたら面倒だからね」
「まあ、土産の猪もありませんでしたしね…」
申し訳なく思う僕。月子は一拍、沈黙。
「…えーと、そう、赤闇だけど、怪我を塞いだら消えたよ。毒にも影響受けてたみたいだね? 呪いは、そっちも浄化してったよ。やっぱり、赤闇の呪いは」
「…待ってください。さっき、月子の力のせいで、僕は怪我をした、と言いましたか?」
ようやく、月子の言葉が頭に浸透してきた。霞がかった意識を正気づかせるため、僕は頭を振る。濡れた手拭いが額から落ちた。
月子がそれを拾い上げ、軽く答える。
「言ったよ」
深い意味なんかないって態度で。
なにを考えてる?
灯火の影に隠れた表情と相俟って、僕が知る月子とは別人がそこにいる気がした。
意識は雲の上にあるようなのに、身体は地に沈みそうだ。
朦朧とする。
ぼんやり、口を開いた。
「…僕を、殺したかったんですか?」
それもいいか、と気のない声で尋ねれば、月子は苦笑。
「逆だよ」
「逆?」
「引き止めたかった、はなれて欲しくないと思った。願ってしまった」
混乱する。月子のやさしい指が僕の髪をかきあげた。
所作と裏腹に、月子の声は、淡々。
「怪我をして傷ついて、動けなくなれば、清貴は私を頼るしかない。だから」
思考が鈍い。
月子の言葉の意味を理解するのに、僕は全力を要した。
(引き止めたかった…?)
動けない、時雨を振るえない僕に、価値などないだろうに。
はなれてほしくないと言いながら、月子は僕からはなれたいのではないのか。
そのとき、ふと、思い出す。
学習院で、紅緒を僕が追ったとき、背後から月子が僕を呼んだ声を。
…大事なことは目の前にあるはずなのに、見過ごしてしまっている感覚があった。
何をどう判断すべきかわからなくて、僕は混乱する。
随分、疲弊していた。発熱もしているらしい。
おそらく、赤闇の呪いが発動したせいだ。
僕はどんな顔をしたんだろう。
月子は気まずそうに笑って身を起こす。
「だからさ。はなれたほうが、いいと思う。私は清貴をひどい目に合わせる。気をつけてるけど、私の力は、思うだけで、もう、ダメだから。うまいこと捻じ伏せられたら、…いいんだけど」
「なにを言って」
「だいじな人、痛い目に遭わせたくないなら私は。独りでいたほうがいいんだと思う」
立ち上がろうとした月子に、僕は。
手を伸ばした。
箍の外れた力で、袖を引く。
月子の膝が滑った。僕も均衡を崩す。
夜具ごともつれ合って、身体が床に叩きつけられた。
「い…痛…」
呻いたのは、下に引き倒された月子だ。眩暈に、僕は顎を引く。
息がうまく吸えない。息を整えながら、ゆっくり顔を上げた。
月子は、ぼんやりして見えて、なにかを堪える気配を湛えてる。
いつもそうだ。
改めて見直せば、本当にきれいな少女だった。悩ましいくらい。
熱が出てるんだろう、燃えるような息を吐き、僕は月子の顔の両脇に手を突いた。
見下ろし、喘ぐように言う。
「…で、いい」
「え?」
目を瞬かせる月子。
次は、ちゃんと聴こえるように、僕は言った。
「それで、いい。ください」
「なに」
「痛みを、ください。思考なんか消える、激痛を、戦いを。――――ください」
月子が離れたがる理由が見えない。それを考えるのは怖かった。
考えないには、これが一番だ。
痛みや戦いに気を取られてる間、他ごとを考える余裕なんかなくなる。
それがいい。それでいい。
月子は一瞬、言葉に詰まった。すぐさま、うろたえた声で囁く。
「あのね、ちょっと清貴…自分が今、どんな顔してるか自覚、ある?」
「なんです、それは」
いやなら、嫌だといえばいいのに。僕は自嘲気味に吐き捨てる。
身体の下にあるのは、月子の身体。血の繋がりがない身体。
絆を断ち切られ、突き放された気分だ。これで、終わりなのか。
終わらせたくない。
なら、どうすればいい。
逃がさないうちに、なにか、理由を。
北境辺土へ僕を迎えに来たのは、月子だ。
それがもし、血のつながりによるものでないのなら。
共に過ごした時間が嘘にはならないと言うのなら。
月子は僕を深い目で見上げてくる。
月子は僕に、なにを願う?
「望みを、言ってください。命令で、構いません。どうぞ、月子の、好きに」
「――――…清貴は、どうしたい?」
月子は、僕の唇に指先で蓋をして、掠れ声で囁く。
月子は、強制の力を持ってる。だから彼女は、何も言わない。願うことも禁じてる。
そして、今。
言っていいのに、拒絶した。
(言いたく、ない?)
なぜ。僕は許したのに。
月子は僕に、望むことすらないのか。
ふと僕は、思考を止めた。
考えすぎてる。複雑に掘り下げるな。
もっと、単純に。
理由なんか、どうだっていい。月子が何も言わないのならそれでいい。その上で、
僕は、どうしたいんだ?
熱い息を、吐いた。指先を撫でた感触に、月子が小さく身を震わせる。
真下に見える瞳が、慄くような、貪欲なひかりを宿した。
瞬間、望みは同じ気がした。月子と僕と。
でもきっと月子は、僕に言わせたがっている。
そう望むことすらきっと、自制しているのだろうが。
察すれば、ためらいは消えた。
「置いて、いかないでください」
目を閉じ、言いたい言葉を拾えた安堵に、肩の力を抜く。疲れた。
おかげで、気付いたこともある。僕は、月子から離れたくないんだ。どうあっても。
かつてはあんなに簡単に離れられたのに。
もう、できない。
「なら、清貴」
月子の両手が首に回った。引き寄せられる。
咄嗟に僕が肘を突いた間で、彼女は鮮やかに笑った。
「一緒に、行こう。母上が、望んだとおりに」
それは、はじめて見る笑顔だ。太陽みたいな、強い生命力そのものの。
拍子に僕の中から、いやな憑きものが、根こそぎ抜けてった。
目が覚めた気分になる。
(あ)
とたん、脳裏に閃いたのは、姉の手紙。
彼女の願いを知るなり僕は、血の雨が降る願いだ、と思った。
その上で、姉の心を察して、…察した、つもりでいた。
でもまだ足りてなかった。
もし。
もし誰も、姉と同じ望みを彼女と同じように実行に移そうとしなければ、月子はどうしたか。
――――――――死の運命をおとなしく受け入れた。周りが望むままに。
月子は言った。
月子を始末しようとする如月の気持ちは分かる、と。宇津木に。
彼女が持つ力はそれほど危険だから、と。
今更ながら、僕は確信した。
月子には、死ぬつもりがあったのだ。
姉はそれを理解していた。そして、それをこそ、もっとも恐れた。
(ああ、だから)
姉は月子に言い訳を与えたのだ。
白鞘清音の望みを生きて果たさなければならない、という言い訳を。
それが果たされた後のことは、姉には考えるまでもなかったろう。
僕がいるから。
僕が、月子の死を望むわけがない。
そうである以上、月子は生きる。
誰かが望むなら、彼女は生きることをあきらめたりしない。
しなくて、いい。
不意に、月子が言った。
「私の世界はねえ、清貴なんだよ」
僕と額を合わせる月子。目を閉じる。
「陣はね、何も知らなかった。清貴と同じで。私が本当にお姉ちゃんと思ってて、でも東州を出るとき、全部打ち明けたんだ。そしたら、陣は怒った。怒って…だから、本当のこと話すと、清貴も離れてくと思った。私の、力のこと」
「…ああ。だから、なんだか、怯えてたんですね」
肯定するように瞬いた月子の睫が、僕の顔を掠めた。
距離が近い。だが穏やかで、厳かな空気があった。
「国守の気持ち、分かる気がする。私も清貴なくすとどうなるか分からない」
「あんな…ことにはなりませんよ。月子は、やさしいですから」
「やさしくないって。認めたくないことには、自分勝手に厳しいよ」
「自分勝手では僕のほうが上ですよ」
「自慢できることじゃないよ、それ」
小さく笑い合う。
すぐさま、声を低くして、僕。
「明日は、蔵虫…神とご対面、ですね」
月子は頷き、一言。
「勝とうね」
運命に。
声にされなかった言葉を確かに聞いた気がして、僕は頷く。
僕の赤闇の呪いを考えれば、蔵虫と戦うことは避けられない。そして、如月がどう出るかも予想がつかなかった。国守の元へ向かうということは、敵陣の只中へ飛び込むようなものだ。
でも今、月子は言った。
勝ってくれ、という願いでも、絶対勝つてる、という気休めでもない。
のんびり、何の気負いもなく、勝とうね、と。
肩の力が抜ける。
月子が持つ業のような力を考えれば、そんな言葉しか残されないのかもしれないけれど。
僕は小さく笑った。
「そういうところ、好きですよ、本当に」
目を見張る月子を置いて、身を離す僕。
「え、え?清貴?」
「さて、そうと決まれば、早く眠って明日に備えなくてはなりませんね」
ごく自然体で僕は夜具を整える。
気持ちはあっさり切り替わっていた。
枕元の時雨を確認。
僕が気を失っている間、おとなしくしてくれていたらしい。
「あ、あのね、清貴、さっき」
「はい?」
「………なんでも、ない」
起き上がり、月子は嘆息。
自分の床を延べ、僕の体調を気にしつつ、横になる。
それを見守り、僕は明かりを消した。
夜具に入る前に、月子の頭を軽く撫で、囁く。
「全部終わってから、続き、しましょうね」
一拍置いて、返された頷きに、僕は微笑んだ。
絆はなくなったわけじゃない。
まだここにある。
それを失いたくないのなら、気持ちに素直に手繰り寄せればいい。
横になる直前、時雨の鞘をすると撫ぜ、僕は覚悟を決めた。
――――――――僕は月子を離したくない。
読んで下さってありがとうございました!




