第七撃 なにが正しい
その記憶に、僕の中で、はるか昔の出来事が閃光のように蘇った。
姉の初産の日、七歳になった僕は、外へ追い出された。
東州王がやってきたとき目障りだから、と言う理由だ。
清音にくっついているだけの小汚い子供。
僕の存在は、当時その程度のものだった。
東州王をはじめ、彼らの周囲に仕える者たちは、弟君と、からかい気味に、けれど誠意を持って尊重してくれたが、そちらの方が変わっていることを、僕は知っていた。
僕の価値などどうでもいいが、悔しかったことを覚えてる。
姉のそばにいることは、僕にとって当然のことだったから。
なのにここでは、当たり前のことを取り上げられる。叫び出したいほど理不尽だった。
耐えたのは、偏に姉のためだ。
姉をかなしませるのは本意でないから、僕はおとなしく時雨を持って外へ出た。
ちいさな身体に、時雨はまだ余ったが、僕には一片の花びらより軽かった。
時雨がそばにあれば、まだ耐えられた。
歩いて時間を潰しはじめて、どれくらい過ぎた頃だろう。
僕は助けを求める声を聞いた。それだけならば無視した。
僕は、人助けが楽しい、面白いと思ったことは一度もない。
それでも駆け出したのは、刃音を聞いたからだ。
これなら、いい暇潰しになるかもしれない。
駆けつければ、賊に追われる女がいた。その腕の中には、赤ん坊。
見るなり、遊び半分の気持ちが消えて、体内の血が沸騰した。
一瞬、姉と女とが重なったからだ。方針は、すぐさま固まった。
賊は、殺す。
一息に、僕は女の背に割り込み、賊との間に立ちはだかった。
賊どもに誰何の間など与えない。
雪に足を取られた女が振り向いたとき、彼女の背後に立ってたのは、僕一人だった。
怯えるどころか、女は僕に感謝した。
追いつめられながら、底抜けに明るい笑顔で。
気が違ったかと思ったが、どうやら正気のようだった。
ただし、僕が名乗ったとき、彼女は目を丸くして、妙なことを口走った。
「働いたのね、回天の力…この子は、まさしく」
このまま放っておくのは、姉を見捨てるようで、できなかった。
僕は彼女を離宮に誘ったが、女はやんわりと拒絶、そこで別れた。
それきりの縁。僕は、そう思ってた。
ところが、義治の記憶によれば、彼女――――花陽は、まっすぐ離宮へ向かったことになっている。
そこで、いかなる手段を使ったか、清音と会った。
紡ぎ人であるからには、その力を駆使したのかもしれない。
折りしも清音の出産は終わっていたが、それは死産だった。
女たちの間で、どのような会話があったか、知る者はいない。
ただ、結果は誰もが知るところだ。
花陽は残りの寿命すべてを賭して娘に守護の法印を施し、死亡。
亡くなった清音の初産の子は、花陽と共に、行き倒れた不幸な母子として弔われた。
花陽の娘は清音の子として、東州王の一の君となる。
東州王も、すべて承知の上で受け入れた。
これが、真実。
国守がすべてを知ったのは、清音が亡くなった日。
同じ日に、月子に施された守護の法印が解けたのだ。
守護の法印はそれまで、彼らの同調すら阻んでいた。
すべてを言い含められてきた月子の記憶によって、国守と義治は、一切を知った。
それからだ。国守が、変わったのは。
彼は何度も自問した。なぜ。
後悔を、怒号の勢いで喚きたてた。心で。
果ては、胸に爪を立て、切り裂くような憎悪が、栞に向かった。
反面、己の醜悪な感情が、周には許せなかった。栞とて、被害者だ、と。
そして。
この世に彼が生れ落ちて以降、必死に鍛え上げた自制が、自然と生れ落ちる、それらいっさいの感情を殺し続ける。
何度も何度も何度も何度も何度も。
やがて、周は心を投げ出した。この、せめぎ合う情動に疲れきって。
妻を傷つけるくらいなら、いっそ自分を、先に。
――――この方はもう、消えたいのだ。
義治は悟る。
いや、おそらく、花陽がいなくなったそのときに、彼は死んでた。
今の周は、叩き起こされた死者のようなもの。
義治の指先が、震えた。顎先を、汗が滴る。斎門たちの声も遠い。
義治の顔が、苦悶に歪む。
国守を元に戻すのは、自分勝手ではないのか。
彼が消えたいと望むなら。そう、させる、べきでは。
けれど、そうなれば。
国は。臣下は。母は。息子たる義治、自身は。
少年のやさしさが悲鳴を上げた。
どうすればいい。なにが正しい。誰か。
答えを。
重圧に耐えかねた義治のこころが軋んだ刹那。
双頭の狼の目が、嘲りにきらめいた。義治は、弾かれたように身を引く。
だが、…遅い。
突如、激痛が彼の肩を引き裂いた。
ドボッ、と水が溢れかえるような音がして、血がしぶく。
義治の血が。
松明にかがやくそれを、数多の瞳が呆然と映し出す。
義治の右腕が、蔵虫の牙に持っていかれた。
風が止むように、斎門たちの声が消える。
とたん、倒れた義治の前で、胸を反らした蔵虫が咆哮。
広間が震撼した。
どんな威嚇にも恫喝にも動じない斎門たちが、棒を飲んだように硬直。
蔵虫を縛る鎖が、枯れ草のように千切れ飛んだときには、幾人かの斎門の頭が、獰猛な爪に輪切りになってた。人体を踏み潰し、双頭の狼は優雅に跳躍。その碧眼に映るのは。
千切れた己の腕も省みず、義治は喉も潰れんばかりに叫んだ。
「母上!!」
ヒッ、と栞の喉が鳴る。その眼前、二人の黒羽が、決死の覚悟で立ちはだかった。
彼らの手が暗器を閃かせた刹那。
果敢な侍女が、栞の身を宰相夫妻へ突き飛ばす。間髪入れず、生臭い息が彼らの顔を湿らせた。同時に。
水をぶちまけるように、血が床を滑った。
狼の牙が、黒羽と侍女の肉体を噛み千切ったのだ。
生き残った侍女たちの鋭い悲鳴が、天井で砕けた。
蔵虫は栞を追って、身を躍らせる。
そこには、宰相夫妻の姿もあった。
二人の女を背後に庇う如月。
血に猛った双頭の狼は、彼の喉めがけて牙を剥いた。
鉄壁のごとく立ち塞がった如月も、斃れるかと思われたその瞬間。
「おおおっ!!」
裂帛の気合とともに、大太刀が空気を裂いた。狼の牙が、刃をがっきと食い締める。
紺碧の瞳と間近で睨み合ったのは。
「おお、宇津木将軍…っ!」
獣との力比べで丸太のような腕を震わせ、宇津木は腹の底から声を張り上げた。
「まだ終わっておらん! 斎門ども、北の方様をお守り参らせぃっ!」
小動物なら気絶している一喝に、斎門たちは一瞬で生色を取り戻す。
パッと宇津木から双頭の狼が飛び離れた。
距離を取り、低く身構えた肉体には、強靭なバネが潜んでいるに違いない。
おそらく、この広間の端から端へ跳ぶくらい、わけないだろう。
それでも臆さない宇津木の姿に鼓舞され、斎門たちが、喉も裂けんばかりに声を上げた。
とは言え、広間を逃げ出されたら、それで終わりだ。
ところが、蔵虫は宇津木にこだわった。
正確には、宇津木と如月の背後に守られた栞に。
蔵虫は、飢えるほど彼女の断末魔を望んでいた。
――――国守の願い通りに。
義治は青くなった。
暗くなっていく視界の中で、闇色に光る鎖が床から迸る。
とみるなり、双頭の狼を噛んだ。
忌々しげな咆哮が大気をつんざく最中にも、鎖は獣を縛していく。
室の奥へ、引き摺り戻されていく獣。
その光景に、どこからか漏れる、安堵の息。
ひとまず、最悪の事態は免れた。
しかし、本当の最悪は、とうに始まっている。
生き残った老斎門が、詐欺師にしてやられた声で呻いた。
「蔵虫が納まるのは、玉体、――――星の位置を違えるのも容易い」
先日の星読みの結果は、操られたものということか。
ことの重大さに、空気すら凍りつく。
それを割り砕いたのは。
「どういうおつもりですかな、宇津木将軍」
如月の沈着な声。
一片の動揺もない宰相の双眸は、眉間に突きつけられた切っ先を映している。
宇津木の大太刀だ。
侍女らが震え上がる中、宇津木は淡々と言った。
「義治様に儀式の続行は不可能だ」
厳しい視線が、刃越しに火花を散らす。
如月が相手の言葉を促した。
「久世の力持つ者はもうお一方いらっしゃる。かのお方におすがりしよう。よもや国守をお見捨てにはなりますまいな?」
宇津木の瞳に、綱渡りめいた緊張が満ちる。
僕は悟った。これは、月子の懐剣を奪われた悔恨の念に押された取引なのだ。
そう、鷹矢の姿が、あの騒動のうちに消えていたことを、僕は覚えている。
如月は、感情の見えない瞳で、義治を見た。
如月の背後では、栞が発狂したように悲鳴を上げている。
春菜が、彼女を腕に抱きしめ、宥めていた。
義治は。
悔いていた。恥じていた。
誰かの手助けになるどころか、事態を重くしたことを。
同時に、…安堵していた。彼が決めなくてすんだことに。
己の不甲斐なさを罵倒しながら、一抹の悔恨を込めて、月子を想う。
――――申し訳、ありません。
義治が意識を手放す寸前、如月はしずかに同意した。
「よかろう」
ぶつん、と腱が千切れるような音がして、僕の強張った肉体が震える。
震えた、その記憶をはじめに、ぐっと意識が身体の底からせりあがった。
力を抜いて、目を開ける。熱い。でも、僕の身体だ。
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