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封神草紙  作者: 野中
第一部/第三章
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第六撃  毒蛇のような嫉妬

× × ×











長い髪みたいにからみつく声を振り払いたくて、首を振った。

浄衣を僕に着せてた女官が、顔を隠す薄布越しに、目を合わせる。

「いかがなさいました、義治様」

呼びかけに、僕は怯んだ。義治?違う、僕は。それに構わず、身体は勝手に動く。




「なんでもありません」




ありがとう、としずかに言って、廊下を一人で進み始めた。

僕はしばし呆然。さっきまで、学習院の裏庭にいたはずなのに。

ややあって、合点する。


月子だ。


おそらくまた、月子と同調とやらの事態に陥ったんだ。

ということは、月子が近くにいるのか?

だが、五感のすべてが遠い。探りようがない。


ここはどこだ。


女官は僕に義治、と言った。

なら今、僕は久世義治の中にいるのか。

理解するなり、爽やかな風みたいに、他者の思考が僕の胸を吹きすぎてく。義治だ。


彼は、母親のことを思い出してた。

泡みたいな母親の言葉が、浮いては消える。




大丈夫? 心配だわ。成功させてね。期待してるわ。でも怖い。危険よ。行かないで。




栞の堂々巡りの台詞に、僕は呆気に取られた。

不安を伝染させるような態度だ。

美里が息子に向けた顔と口調を思い出し、咄嗟に比較してしまった僕は気分が悪くなる。


義治は、一度だけ、疲れたように嘆息した。視線が、足先を向く。

最初、彼が心の中で振り払った声は、栞のものだったのだ。

「大丈夫です、母上。父上は、きっとわたしが」


己に言い聞かせ、胸を張る。背をまっすぐ伸ばし、前を向いた。


初々しい覚悟と誇りが、胸を熱くする。

僕はようやく思い至った。

先日、斎門が一の君に回天の力を使っていただく策が最上、と進言してたことを。

国守の公の一の君は、義治のみ。


まさしく今、それが行われようとしているのだ。


僕が状況を悟るなり。

何に気付いたか、義治はふっと息を呑む。

忙しなく視線を泳がせたあと、動揺を恥じるように、小声で呟いた。






「…姉上様?」






僕は目を見張る。気付いたのか。僕に。いや、月子に。いるのか、月子が。本当に?

耳を澄ますように集中したが、僕には分からない。

それでも、義治は会話をするように言葉を続けた。

「え?ですが、斎門たちが…いいえ。ですが、逃げるわけにはいきません。父上を救いたい。――――そんな」

なにを聞いたか、氷を押し当てられたみたいに、義治の胸が冷える。




「やめてくださいっ。聞きたくないっ、父上が死にたがっているなど…!」




とたん、自制が全力で動いた。

彼もまた、感情のままに叫ぶどころか、思うことすら許されない存在だ。

「申し訳ありません。…はい、――――はい。気をつけます。神経を細部まで張り巡らせ、備えます」

誠実に頷いた義治は、ふ、と口を噤む。



巨大な扉が見えた。廊下の突き当たりだ。兵士が両脇を固めてる。



見えない暗がりには、黒羽の気配を感じた。

義治を認め、直立不動の兵士が、さらにそっくり返る。

「お疲れ様」

義治の労いに、も、勿体無い! と兵士たちは真っ赤な顔で応じた。

緊張に強張りきった身体を動かし、彼らはゆっくり扉を開く。同時に。






音の洪水が奔流となって義治を叩いた。


僕が先日聞いた、斎門たちの大合唱だ。






広間から、松明の赤い色がこぼれ、こもった斎門たちの体温か、湯気みたいな熱気がムッと義治の頬を撫でた。

義治は奥歯を噛み締め、挑むように歩を進めた。


斎門たちの輪の外にいた数人が振り向く。

義治は足を止めた。いたのは。

老いた斎門数名、鷹の目をした黒羽二人、義治の母・栞、侍女数名、宰相夫妻、宇津木。

宇津木は、央州王の代理か。そして、

(――――春菜)


さすがに、毛ほどの動揺もないってわけにいかない。

当然だが、義治の視線は特に誰かに止まることなく春菜を素通りした。

身を乗り出しかけた栞を、黒羽たちが制す。


代わりに枯れ木めいた老斎門たちが国守の一の君を音もなく取り囲んだ。


世間話もなしに、進み始める義治。






これは、儀式なのだ。






斎門たちの輪の一角が切れ、そこに道ができている。

まっすぐ前を向いた義治は、唖然となった。危うく転倒しかける。

かろうじで持ち直したが、義治の全身から冷や汗が噴き出した。


刹那、僕も自失。


広間の中央に、獣がいた。




白炎の毛皮を持つ獣。双頭の、狼。四つの瞳のうち、三つは空を切り取ってきたかのような、紺碧。一つは、潰れてる。




獣の姿に、人間の名残など、欠片も残っていない。

元は人間と思えない巨躯である。








が、国守だ。これが。








彼の意識など、どこまで残っているものか。

鎖で雁字搦めの長い口の端から、だらだらと涎が垂れ落ちる。

敵愾心か、蒸気のような荒い鼻息がもれた。

まぶしい体毛が、雷のひかりのように逆立つ。

床が揺れた。尻尾が、ばしんっ、と鞭みたいに撓ったからだ。とたん。


双頭の狼は義治に踊りかからんとした。が、当然、鎖に引き戻される。

爛々と燃える空色の瞳は、義治に据えられ――――いや。




僕だ。




確信した。ヤツは、僕を見てる。義治の中にいる、僕を。

呼んでる。


――――ハヤク、コイ。


聞こえた声に僕は面食らう。声は、嬲るように続けた。






牙でお前の肉を裂き、舌の上でお前の血を転がそう。

臓腑はおろか、骨まで飲み込んでやる。

同化しよう。

一つになろう。


獣になること、それが、お前の望みだろう――――?






毒のようにつめたい意思に、僕は目を見張った。


僕の思考じゃない。義治の考えでもない。

これは、あの、双頭の狼の。


カツン!


老斎門たちが、揃って杖を床に打ち付けた。立ち止まる。

義治も倣った。

全員、双頭の狼の前で、紺碧の双眸を見据え、厳しい面持ちで背筋を伸ばした。






「ここに一つの謎がある」

「不可能がある」

「真理がある」

「否、癌だ」


不思議と、彼らの声は、周囲の大音声にかき消されず、細く鋭く耳朶を打つ。


「この忌まわしい肉の檻に」

「覇者の祝福を」

「運命を描く手」

「消す手」

「いざ」


老斎門たちが、一斉に叫んだ。






「まわされぃ!」






突き飛ばされるように、義治は前へ出た。双頭の狼を見つめる。

手をさし伸ばす。

これが、父。


変わり果てた姿に、義治は声を上げて泣いた。心の中で。

彼は知っていた。姉の言葉は否定したが、父の絶望に。それゆえの、祈願に。


父は死にたがっている。


知っている。それこそが、彼のやさしさだとも。

回天の力を持つ者同士、同調は簡単だ。

互いが何を思い、何を考えたか、筒抜けだった。

(苦しかったのですね)




花陽。




かつて、国守が愛した女の名が、義治の心を掠める。


僕はその記憶を辿った。











彼女は死んだ。


公式の発表では、身ごもった身体で崖から転落、谷川に落ち、消息不明。

国守はそれを信じた。絶望に耐えて。




事実は違った。




死んだとされたときも、彼女は生きていたのだ。

すべては、栞の企みだった。

花陽と栞、国守の執心の差は、誰の目にも明らかだった。

誇り高い彼女は傷ついた。

その傷から噴き出す毒蛇のような嫉妬が、花陽抹殺に動くのに、さして時間はかからなかった。

危うく逃れた花陽は、一人で子を産み、寝る間もなく押し寄せる刺客から逃れ、息を切らせながら友人の清音を頼った。


紡ぎ人たる花陽と東州王の妻たる清音。

この二人がいかなる時に出会い、友情を育んだかは、当人たち以外に知るものはいない。

彼女たちは、決して話そうとしなかったからだ。




花陽が東州に至った雪深いその日、清音もまた、初産を迎え、東州の離宮は慌しかった――――。







読んで下さってありがとうございました!

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