第三撃 死と旧知の仲
身を起こし、宇津木は寂しげに微笑んだ。
「惜しいお方です。病で亡くなられるなど…聡明で慈悲深く、清らかな女性。やさしさで指し示される道は常に正しかった」
「これを預けるよ、宇津木」
月子は、懐剣を握った拳を突き出す。
慌てて差し出された宇津木の掌に比べて、玩具みたいに小さい。
宇津木の掌にそれが落とされた。国守の胤である証。
きらめく天上花。
宇津木は、恭しく受け取った。
「これは、花陽様の」
「迷惑をかけるけど、これで最後だ。国守に取り次いでほしい」
宇津木は、太い笑いを浮かべる。
「正面から乗り込みますか」
「そのつもりだ」
「如月は、手強いですぞ」
「ああ。でも、できるだけ、殺したくはない。宇津木もそのつもりで。…難しいけど」
月子の言葉を噛み締めるように、宇津木は俯いた。
「しかし今、国守は」
「分かってる」
「は?」
「予断を許さない状況だ」
宇津木は目を丸くして、鋭角な頬を引き締める。目の前にいる少女が、国守の血を引くことを改めて思い出したって態度。
尋ねた声は、敬意に満ちてる。
「星読みをされましたか」
「そうするまでもなく、状況は分かるよ。…国守が無理なら。もう一人、いるよね?」
「もう一人、ですか?」
「義治だよ」
僕は面食らった。久世義治。国守の息子。月子にとっては、弟。
なのに、今の今まで、僕はまったく眼中になかった。
義治には、宰相の傀儡と言う影薄い印象しかない。それどころか、鈍い忌避が胸の底で疼く。
自分でその理由が分からず、はて、と内心首を傾げたとき。
宇津木は僕以上に、驚いたようで、ひび割れそうな声を放つ。
「…義治様にお会いになりたいと…? しっ、しかし、あの方は栞様の」
国守の正妻の名に、僕は義治を好まなかった理由を思い出す。
あの女の息子か。
国守が怪我を負う原因になった、考えなし。
ところが、月子はまったくこだわらなかった。
「母親同士の確執はともかく、私と義治は姉弟だ。姉が弟と会うことに、何の不都合がある?」
その言葉に、僕はよくよく考えてみて、ある事に気付いた。
考えてみれば、正妻はともかく、義治自身を僕はよく知らない。
勝手な先入観で判断してた。
改めて、常に誰かの後ろに立っていた、幼い少年の瞳を思い出してみる。
素直で知的なきらめきがあった。
よく先回りして行動しているようだったのは、勘のよさの表れだろう。
正妻の付属品、としてだけでなく、個人で見れば、悪感情は湧かない。
ひとつ、頷く僕。
なるほど、彼を頼るのはいい手かもしれない。
とはいえ。
「母親同士の確執? 初耳ですね。姉上は、栞様と懇意にさせて頂いていたようですが」
首を傾げ、ふと言った直後、慌てて口を閉ざす僕。
しまった。
自分で封じていた地雷を、自分で踏みに行った。
内心頭を抱える。
僕と月子に、血のつながりはない。
もうとっくに、承知してる。
それでも。
(まだ)
今までどおりの姪っ子扱いをしてしまう。
何も知らないふりで。
まだ、誰の口からも決定的な言葉を告げられていない。
今、なら。
まだ、大丈夫。
叔父と姪でいられる。
だから思わず。
…しかし実際、月子は、清音と実の母親、先ほどはどちらを指して、『母親』と言ったんだろう?
立ち上がりながら、宇津木は僕をしげしげ。
僕の問いに関しては、何も言わず、
「…本当に、清貴殿なのだな。――――六年。生きておいでとは」
「足はありますよ。…姉上と栞様は、仲が悪かったんですか?」
首を横に振る宇津木。
「清音様は、癇癪もちの栞様と共にいる間、終始穏やかに過ごせる、唯一の御方だった」
「ならば、どんな確執が?」
「確執などない。清音様と栞様には」
僕と宇津木は同時に口を閉ざした。僕は悟る。
(…なるほど)
ならば、栞と確執があったのは、月子の実の母親、というわけか。
僕がどこまで何を知ってるかはかりかねたんだろう、宇津木が月子を見遣る。
振り向く月子。澄んだ湖みたいに、静謐なまなざし。
それが、ふいに潤む。映り込んだ僕の姿が、ゆらいだ。
そこに、再会したときのような怖気が見えた。僕が口を開いた、その瞬間。
廊下に面した教室の障子が開いた。
土壁に囲まれた教室にある、唯一の出入り口。
「己が教えたげるよ」
身体をねじ込むみたいに踏み入った女は、紅緒。黒羽。
僕と宇津木が身構える間に、彼女は後ろ手に扉を閉じた。
「教える? キミが?」
僕は、反射的に顔をしかめる。
正直、このことは、誰の口からだろうと、声にして語られたくない。
はっきり言葉という形にすれば、何かが壊れてしまいそうな気がしてた。
悟る程度で十分だ。
僕と月子に、血の繋がりがないなんて。
「怖いのかい? 怖くないなら、聞くといい」
僕の弱点を見据えたと言わんばかりの紅緒の目に、嫌な予感が募る。
聞きたくないと叫ぶ声が確かにあった。
けど、それが成長する直前、紅緒は高らかに告げる。
「月子様の母上の御名は、花陽様。紡ぎ人のお血筋。かつて、清音様のご友人であられたけど、栞様は嫌っておられたそうだ。つまり」
赤い唇が、突きつけるような声を放った。
「アンタと月子様は赤の他人なんだよ、白鞘清貴」
言葉にされることが。
…これほど痛むとは思わなかった。
僕は、月子を振り向いた。
月子は固く目を閉じる。顔を背けた。かなしむように、目蓋が青く震える。
僕は崩れ落ちないように、腹の底に力を込めた。眩暈がする。
分かってた。気付いてた。
月子と同調し、国守の内に潜り、あの娘を見たとき、ちゃんと僕は確信した。
それでも月子に、尋ねなかった。怖かったから。決定打を、僕は先延ばしに、延ばして。
こうして、すべてが白日の下にあっても、僕は信じたんだ。
肉親だ、と言ってくれたら。
見え透いた嘘でも、月子の言葉を。
信じた。――――でも。
いくら待っても、否定はなかった。
雑音が遠退く。ゆっくり窒息するみたいに。目の前がまっくらになる。
僕と月子に血のつながりはない。
この事実に、全身の血が氷に変わり、僕は青ざめた。
月子に僕が関わる理由が、一瞬で粉砕された気分だ。
僕は何年も前に滅びた村の郷士で。
対する月子は、国守の子。
もともと違いすぎる身分が、僕の意識の中、月子との間に壁となって立ち塞がる。
これらの理解は一瞬。
隙を逃さず、紅緒は決死の声を叩き込む。
「水よ!」
ド、プン。
とたん、水が耳を塞いだ。耳だけじゃない。
教室が水に埋まってた。
札の表と裏を引っくり返すみたいに、突如大気が水に変わる。
呪術か。
幻覚に過ぎないが、舐めると命を落とす。
身近に立ちはだかる死の気配。おかげで。
瞬く間に冷静になった。僕は、死と旧知の仲だ。
紅緒は障子の前で、悠然と微笑む。
勝ち誇るというより、何かを企む顔。
どうするつもりか知らないが、この程度、ここにいる三人には足止めにもならない。
僕は時雨に手をかけた。月子と宇津木を一瞥。
どの顔にも、一点の動揺すらない。
僕は一歩踏み出した。
障子や足元の畳が濡れた様子はない。
水は幻覚。わかってるのに、息苦しさは本物。ならば。
幻覚に、応じるまで。
――――抜刀。
時雨の切っ先が向いたのは、壁。
障子の前の紅緒は無視だ。こっちのほうがやりやすい。
戸惑う紅緒。
僕は迷いなく、土壁に刺突を繰り出した。
呼吸一つ吐く間に、壁に描き出されたのは、弧。子供ほどの大きさ。
弧を描くのは、時雨の切っ先がつけた条痕だ。
乱れた水に揺らぐことなく、僕は片足を無造作に上げる。直後。
蹴り抜いた。紙を破るみたいに穴が開く。
とたん、ドッと室内の水が穴から流れ出した。
僕は幻の奔流を避け、紅緒を見遣る。彼女は僕を忌々しげに睨んだ。
白刃めいた視線を返し、宇津木を貫く紅緒。身構える宇津木に、叫んだ。
「三つ向こうの教室で、今授業中だけどね」
はっきり耳に届く声。紅緒は畳み掛けた。
「その教室を、今と同じ状態にされたくなかったら、懐剣を己に投げな! 三つ数える間にねっ」
水が引いてく。宇津木の顔が歪んだ。
浮かぶ、苦悶と焦燥。
「ひとつ! ふたつ!」
考える間もない。いや、与えない。
「みっつ!」
言う間に、懐剣が宙を舞った。目で追った先で、紅緒の手に落ちる。
「懐剣はもらったよ!」
水に押し流される花弁みたいに、扉を押し開け、滑るように紅緒は飛び出した。
一髪の差もなく、追う僕。
「やりません」
「申し訳ない!」
続く宇津木を、月子が止めた。
「いいよ。あそこで懐剣を渡さなかったら、私は宇津木を軽蔑してた。宇津木は正しい。紅緒は私と清貴に任せて、宇津木は学習院を守って。――――あとで、邸に寄る」
早口に告げると、先に飛び出した僕を追ってくる。
「清貴!」
呼ぶ声に、僕は振り向かず、片手を振った。
案じる声と思ったから、安心させたくて、気付けばそうしてた。
けど、その勘は半ば当たっていて、半ば外れていたんだ。
あとから考えれば、月子の様子はどこかおかしかった。
心に引っかかったのは、わずかな違和感。
このとき、僕は本当はどうすればよかったか?
立ち止まって、振り向けばよかったんだ。
そしたら、月子の表情に気付けたのに。
――――こういうときの、僕は猟犬だ。
目に映るのは、眼前を駆ける獲物だけ。
そのことで何度後悔しても、莫迦みたいに懲りない。
速度を上げ、月子を引き離し、紅緒を追った。
それこそが、戦いしか知らない僕が月子にできる唯一のことだと考えて。
蝶のように身軽な紅緒の背を追い、僕は周囲を探った。
紅緒が一人のはずがない。鷹矢がいるはずだ。どこに。
僕は校舎を飛び出した。裏庭を突っ切る。
読んで下さってありがとうございました!




