第二撃 知らないことばかり
「あのっ、お久しぶりでございます、宇津木将軍!」
商人の父親が、地面を叩き割る勢いで頭を下げた。
「…ぬおっ? …お、ああ、お前さんらは」
意表を突かれ、仰け反った宇津木は、顔を上げない父親ではなく、淑やかに控えた娘を見て彼らを思い出したようだ。
「そう言えば、娘さんが嫁入りすると聞いたな。ふむ、相手はこの志月藩の男か」
「いえ。真柴藩ですわ。斜黒山を越える道程ですと、一旦志月に入りますので、そこで母にも挨拶を、と思い立って訪れました」
「そりゃいい。喜ぶだろう。にしても斜黒山を通ったか。あそこは碧翔郭の裏にある咆牙嶺ほど険しくないが、その分、賊も多い。轟谷もあって、身を隠すにはもってこいだからな。無事で何より」
商人の父親は、感涙を浮かべながら顔を上げた。
「勿体無いお言葉…っ。ええ、実際危うかったのですが、こちらのお二人に救っていただいて事なきを得ました」
「ふぅむ」
歳のわりにつぶらな宇津木の瞳が、僕らを見下ろし、ぱちぱち瞬く。
「やはり、どこかで会った気がするな。そっちのちっこいお嬢ちゃんも」
月子を見遣った。
月子は、入道雲を見上げる子供みたいにぽかんとしてる。まあ、宇津木から見れば誰でも小さい。
僕は愛想よく微笑み、顔を隠す笠の端を上げた。
「光栄です。覚えておられましたか。いつだったか、国軍の訓練を、末席で受けたに過ぎない僕を」
目が合う。たちまち、宇津木は絶句。
見張った目の奥で、脳細胞が竜巻みたいに全力で回転してるのが分かった。
意思と程遠いところで、彼は僕の台詞を咀嚼。
三秒、四秒。――――ドッと脂汗。
「う、うむ。太刀筋は良かったが、射撃の腕が練習量のわりに報われなかったな、キミは」
大根役者だが、勝手に設定を作る辺り、ノリがいい。
僕はにっこり。
「ええ。なので、軍人になる道は諦めました。さりとて、刀術士も向かず…今では用心棒などやっています」
「そ、そそそうか。で、…そっちのお嬢ちゃん…違う、もしやその…子、は」
「僕の姪っ子です」
「こんにちは」
「こ、んにちは」
反射で畏まる身体を必死で抑える宇津木の前で、月子は深く頭を下げた。
宇津木は苛められた犬みたいな目になる。今にも、勿体無い! と叫び、這いつくばりそうだ。
僕はそ知らぬふりで、おのぼりさん的発言。
「央州へは、仕事を探しにきたんです。国都が、物流の面でも一番と聞きましたし」
「よ! よかったら、ワシが世話をしようかっ」
「そんな。そこまでご迷惑をかけるわけには」
「いや、これもなにかの縁だ! ま、まあ、立ち話もなんだな、とりあえず、学習院の中へ」
懇願され、僕と月子は身元証明もなしで、学習院に入った。
普通は、面倒な手続きが山ほどあるんだが。
入口で草鞋を脱ぎ、手に持って廊下を進む。
途中、謝礼も受け取り、商人父娘と円満に別れる。
とはいえ、迂闊に会話もできず、宇津木は、僕と月子を大きな背中に隠すような格好で、空いた教室に案内した。
扉を閉めるなり、案の定、宇津木は月子の前で、べたと蜘蛛みたいに這いつくばる。
と見るや否や、床に砲弾をぶち込む勢いで叫んだ。
「宰相の行動を知りながら、止められぬ我が身の非力、償いようもございません!」
あとは一言の弁明も説明もなしに、じっと動かない。
月子は不思議そうに小首を傾げる。
ややあって、膝を落とすと、宇津木の分厚い肩に手を置いた。
「顔を上げてくれ、宇津木。この状況は、誰のせいでもないんだから。それに、如月が私を殺そうとするのも仕方ないと思う」
「それは」
「…久世の血が伝える、回天の力。これは野放しにしていいものじゃない」
宇津木の巨体が震える。驚愕じゃない。恐怖の震えだ。
僕は目を見張る。
この男が、こんな形で怯えを見せるとは。
かつて、灰垣塚の騒乱の折、尽きず湧き出る蔵虫にすら、望むところとばかりに、不敵に笑った人物だというのに。
後回しにし続けてきたが、そろそろ尋ねておくべきだろう。
ひっそり、口を挟む僕。
「回天の力というのは、なんですか?」
宇津木は答えない。月子は振り向かない。
火花が散ったように、空気が張り詰めた。
禁忌が犯されたような重い沈黙の中、月子は穏やかなほどしずかに答える。
「願いを叶える力…星を読むのではなく、――――動かす力、だよ」
なんだって?
夕飯の献立でも口にするみたいに消えた言葉は、日常からかけ離れてた。
それは、咄嗟に聞きなおしたい衝動に駆られるほど荒唐無稽で、そのくせ、一瞬で心臓を射抜く。
僕は無意識に拳を握った。
月子の言葉は、言い換えれば、この世を思い通りに動かせる力、と言うことだ。
そんな夢みたいな話、あるはずが。
――――いや。
一拍、調子外れの鼓動が跳ねる。
心当たりなら、ある。思い出せ。
北境辺土で、夜中、カラーダの群れと遭遇したとき。
東州の市場で、月子が金貸しに取り囲まれたとき。
それより先に、蓮が白鞘の太刀を持っていたことも、もしかすると。
ありそうで、あり得ない事態だった。自然なようで、妙な違和感が微かに残った。
なにもかも、まるで別の意思が働いたように、うまく片付きすぎた。
「…それも、国守・久世家が伝える血の力ですか?そんな話、聞いたことが」
月子はなんでもないふうに頷いた。嘘を嘘だと指摘され、悪びれなく肯定するように。
「ないだろうね。上臈の血筋にしか知らされないから。ゆえに、久世の血の者は、己自身で血に楔を打ち込む。血で、血を縛るんだ。力を暴走させない枷として」
「楔を、人の身に? それは…」
生まれながらに、自由を取り上げられると言うことか。
久世家の血が生み出す楔の本質は、あらゆるものの封印。
即ち、楔を打ち込む対象が、生身の人間となれば。
(普通に考えれば、成長が、)
…止まる、はずだ。
だが、彼らは普通に歳をとっている。
ならば、と僕は思考を転換。
封じられたものはなんだ?
回天の力だ。
それがどんなものかを考えれば、自ずと答えは見えてきた。
私心で何かを変えようと思うのは、…何かを感じるから、だ。ならば、感じないようにすればいい。即ち。
…彼らが封じたのは、
(彼らの精神…、心)
そこまで思い至れば、なっとくできることもある。
国守にしろ、月子にしろ。
穏やかで物静かだが、――――心が遠い。
別の次元に存在するような、奇妙な距離感があった。
これは、ひどい報いだ。僕の胸に、刺すような痛みが走った。
僕は、筋金入りの莫迦だ。まったく知らなかった。なんにも分かっちゃいなかった。
この子について、知らないことはないと思ってた。
知らないことばかりじゃないか。
「欲してはならない。望んではならない。すべて、あるべきものをあるがままに」
擦り切れるほど繰り返したのか、月子の唇に、その言葉は馴染みきってた。
諦めることは容易いという。
だが、心の底から諦め切ることは、途方もなく難しい。
「こうやって、久世の血の継承者は、自分に暗示をかけるんだ。…完全ではないにしろ。最上の策は、幽閉。久世の者に刺激を与えてはならない。できうる限り、無に近い状態に保たせる。でなければ、この世の理が、法が、消滅する。蔵代の破裂どころじゃない」
ゆえに、東州王は月子から人を遠ざけたのか。
楔が、回天の力を…その原動力となるこころを、押さえ込んでいるとはいえ、その封印も、完全ではない。
それは不幸だ。
完全であったなら、彼らは本当に何も感じずすんだのに。だが。
何も感じない者は、最早人間とは言えない。
そうなれば、国守・久世家は単なる化け物だ。早々に、周りから見捨てられるに違いない。かなしいが、おそらくそれが事実だ。なにせ、
(…人間は、人間にか治められない)
僕は、国守の危うさを、はじめて悟る。
淡々と告げる月子を見つめる僕の耳に、ふとガズの言葉が蘇った。
――――適当に積み上げた積木みたいに脆い国。
そのとおりだ、ガズ。でも。
僕は、月子の小さな背中を見つめた。
(なんで、この子だった)
その力ゆえに、この子は。
常に、なにかを堪えているのだ。
それでも。
既に幾つかの出来事を、月子は無意識に変えてしまっている。
あまりに些細な結果になったのは、かろうじで、自制が働いているからだろう。
なにより、楔の力が彼女を縛っている。
そのすべてを、月子は誰より強く自覚しているに違いない。
「人の手に余る力だ。なのになぜ、人の手に入ってしまったんだろう」
呟く月子の声は、底知らずに深い。たまらず、僕は言った。
「手に入ったのは、月子のせいではないでしょう」
「清貴」
「辛くないですか。そんな力、なければいいとは思いませんか」
月子の答え如何では、僕はなんでもしたろう。
一言、いやだと言えば、地の果てまでも消し去る方法を探しに行くつもりだった。
どれほど時間がかかっても、必ず。
ところが、月子は戸惑ったように首を振った。
「この力がなかったら、ここにいたのは今とは違う自分だ。それだけのことだ。たいした違いはない。だから、なければいいと思ったことはないよ」
月子はけろりと言い切った。本気だ。
たいした違いはない、と本気で言ってる。
僕は、雷に撃たれた気分で愕然。宇津木も、突っ伏してるけど、唖然とした気配。
それも一瞬、僕は苦笑。そうですか、小さく呟く。
そうだ、これが、月子だ。
月子は国守とは違う。
事実を鏡映しにまるごと受け入れても、取り乱さず、折り合いをつけて歩いていけるのだ。
あきらめてるわけじゃない。月子は強い。非常識なほどしなやかで、剛毅。
だから、不都合を、誰かや、何かのせいにしたりしない。
気負いなく、ごく自然にそう考える。
――――まだ、十六。
僕は瞑目した。
月子は、投げやりでなく、困ったふうに言葉を続ける。
「私は面倒くさい生き物だ。分かってるんだ。自分でも持て余す。でもさ。だいじな人が願ったから、私はここへきた」
「…清音様、ですか」
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