第十撃 薫風巡る花園
混乱のままに呟いた、そのとき。
ふぅ、と思わぬほど確かな動きで月子の目蓋がもち上がる。
夢見るような目が、覗き込む僕を映した。視線が絡む。とたん。
吸い込まれる感覚に、僕は息を呑んだ。突如、月子の胸辺りが、真空と化したような。力づくで引きずられ、逆らいようもなく僕は、腕を滑らせる。
月子の上に倒れこんだ。
ためだ、離れないと、と思った矢先、視界から灯明の明かりが消える。
頭の片隅で、風に消されたか、と思ったのが、最後。
業風めいた大音声に、全身を貫かれる。
意識が乱れ、鼓膜が痛いほど乱打された。
(なに…っ)
気付けば、周囲は明るい。
松明のひかりが、赤く揺れる。鋭く、火花が弾けた。
よくよく見れば、僕を囲むようにして、複数の人間が輪を作ってる。人間。
黒い羽織。手には、数珠。
斎門たちだ。
輪は、五重、六重はあるだろう。分厚く堅固。
そこに座した斎門全員が、声を合わせ、一心不乱に呪を唱えてる。床に落ちた影が、彼らとは別の生き物みたいに蠢いた。
その厳しい声が、鼓膜を腫れさせる威力で、洪水みたいに周囲に溢れる。
声は、頭蓋骨の外から、内から、僕を苛んだ。
生きながら火であぶられるような苦痛に、肺からせりあがった息が、喉で呻きに変わった。獣めいた唸りが口からこぼれ落ちる。特に、右手は爛れ、膿むように痛んだ。皮膚が引き攣れる感覚に、傷があると悟る。
いや。待て。この身体は、僕のものか?
そのとき、はじめて疑問を覚えた。
僕の右腕には、傷なんかない。
ままならない身体をそれでも見下ろし、僕は愕然。
左半分は人間だが、右半分は、獣の長毛で覆われてる。骨格すら違って見えた。
なんだ、これは。
僕は、たった今まで、辰巳の家の二階で、月子と。
思う端から、激痛で思考が焼き尽くされる。
獣の長毛が、白炎めいたかがやきを揺らめかせるなり、絞め上げられる僕の脳内に、遠い記憶が蘇った。
脳裏を過ぎった姿は、双頭の狼。
その姿を思い出すなり、反射めいた素早さで、虚ろな声が脳裏に響く。
余の、腕を抉った獣――――。
その思考に、僕は殴られた心地になる。
違和感に、気付いたからだ。これは、僕の思考じゃない。ただし同時に、僕自身の思考でもあった。同じ場所にいるのに、別の空間にいる他者と、肉体も思考も混ざり合っているような、奇怪な感覚。
そして。
僕と混じり合っている、もう一人の他者。
それが誰かを悟るなり、僕の思考が一瞬、止まる。
これは。この身体は、まさか。
国守、久世周。
直感が、その名を叫んだ瞬間。
ドッ、と滝が落ちる勢いで、別人の思考と記憶が僕の中を吹き巡る。
おそらくは、周の。
あんまり儚すぎて、捕まえられたものなどほとんどなかったが、彼の中心に、とぐろを巻いて居座ってるものは確かに感じた。それは。
結晶になるまで昇華、錬成された、純粋な憎悪。
僕は圧倒される。
本当に、あの、清浄としか言えない男の心か、これは?
彼が、こうまで何を、誰を、憎んでいるって言うんだ。
ところが、そのおぞましいくせにうつくしい憎悪の中心に、僕は聖域を見た。
誰も入ってこられないように注連縄で区切られ、憎悪の黒い毒煙にも侵されず広がる、薫風巡る花園。
その中心に、一人の少女がいた。
玲瓏とすみきっていながら、太陽のように明るい美貌。
それでいて、月光のように神秘的だ。
はにかんだ微笑みで、何か話しかけてくる。
身振り手振りもまじえて、無邪気に。けれど何を言っているか聞こえない。
ただ、瞳だけがとてもやさしい。
不意に彼女は、足元にその目を向けた。しゃがみ込む。枯れた花があった。そこに手をかざす。
とたん、花は瑞々しく息を吹き返した。彼女はまた、笑う。
(…紡ぎ人か?)
こんなことができるのは。
面食らう僕の思考を掠め、風のような声が通り過ぎた。
――――花陽。
そのとき、はじめて気付く。彼女は、月子に似てた。似てる、どころじゃない。双生児みたいに瓜二つだ。
なのに、雰囲気が火と水のように違ったから、すぐ気付かなかった。
彼女は透明なほど儚かったが、月子はしずかで不動だ。
風が吹けば飛びそうな彼女に対し、月子はどこまでも満ちている。
とたん、斧で頭を殴られたような衝撃があった。
再度、斎門たちの声が神経まで締め上げてきたせいだ。
僕は理解した。
彼らは、応急処置で押さえ込んでいる。
国守が、完全に蔵虫に乗っ取られてしまうことを。
なにより、こんな状態を、外部に知られるわけにいくまい。
尊い玉体が、蔵虫へ変じようとしているなど。
そう、国守と双頭の狼は、憎悪で呼応し合い、同化しようとしている。
それが意味することは、何か。導き出された結論に、ぞっとする僕。
蔵代が割れているわけでもないのに、蔵虫が現世に顕現する。
よりにもよって、国守の身体を出口として。
媒体となったのは、…おそらく、あの蔵虫によってつけられた傷口。七年も、前の。
ふと、視界の端に、青ざめた大男が映った。
宇津木将軍。
日頃、どこか飄然とした態度が、今やすっかり失せ、鬼気迫るものがある。
その隣には、宰相・如月肇。沈毅重厚の面立ちで、冷厳に成り行きを見守ってる。
彼らに、慌てて近寄る斎門たちがいた。戸口から現れ、ほとんど転がる勢いで走り寄る。
「星読みを行いましたところ」
目の下に隈をつくった斎門が、つっかえながら告げた。
「周さまの、一の君さまに、回天の力を使っていただく策が最上、とのことです」
(国守の、一の、君?)
その言葉が意味するところは、即ち。
月子。
愕然、と空気が痺れたとたん。
扉を閉ざしたように、すべての音がぶつん、と切れた。
僕は、咳き込むように息をつく。
空気に喉を引っかかれる痛みに、僕はそれが自分の身体と理解した。
(…回天の、力? どこかで、聴いたような)
だがそれが何か、すぐには思い至らない。
全身で息をついていると、ぎこちなく頭を撫でる手に気付いた。
心地よさにうっとり目蓋を閉じかけた僕は、音を立てて目を見開く。
身体の下に、温かな身体の感触。
月子を下敷きにしている。
「…っすみま、せん」
跳ね起きようとするものの、身体に力が入らない。
少し疲れたような声で、月子。
「…いいよ。すごいなあ、清貴。もしかして、同調した?」
「同調」
すぐには何も考えられず、鸚鵡返しに呟く。
だが、月子は納得したようだ。小さく笑う。
「その上で、正気で戻って来られたんだから、並の精神力じゃないよね」
「戻る…?先ほど僕が見たものと同じものを、…国守を、月子も見たんですか?」
「そう。回天の力を持つ者同士って、波長や意識がどうしても重なりやすいんだ。当人と深い絆を持つ相手も同様。普段は意識を閉ざしてるんだけど、油断すると引き摺られる」
また、回天の力、か。
いずれ聞かねばならないとしても、このときもまだ、僕は本調子じゃなかった。
気になりつつも聞き流し、月子に先を促す。
「…なら、さっき見えた、国守の状況は」
「真実だよ。蔵虫が、現出しようとしてる」
「急がないといけませんね」
「…うん」
僕たちは、国守に会わなければならないのだ。
というのに、当の国守が、あのような状況にあると言うなら。
急がなければ。
否、急いでも、もう手遅れなのか? 分からない。
ただ、進むことしか、今は思いつかなかった。
ぼんやり聞く言葉は決して笑い飛ばせないものなのに、密着した身体から響いてくる声は気持ちいい。
だがいい加減離れなければ、とわずかに身を離したとき、ようやく僕は気付く。
平然として見えて、どこか切羽詰った混乱が月子の瞳にあった。
それもそうだ。
(あんな光景を、見たなら)
僕にも、足元が崩れ落ちそうな不安がある。
それほど、ヒガリ国で、国守と言う存在は、巨きい。
彼が、倒れる? しかも、あんな不吉な形で。
咄嗟に、歯を食い縛る僕。
だめだ。
(…堪えなさい。この程度がなんですか)
自分に言い聞かせる。強く。
蔵虫なんて、何度も見ている。
いまさらなにを怖がることがある。
なるようになる。
今までだって、そうだった。それで、なんとかやってきたのだ。
僕は大丈夫だ。
そんなことより。
合間に、僕の頭を撫でるような、髪を梳くような月子の手を取り、握りこむ。
自分だって怯えているのに、僕への思い遣りを優先した、彼女の手を。
僕自身のことより、月子だ。
この子の不安や恐怖を、僕の弱さのせいで煽るわけにはいかない。
まずは、僕がしっかりしないと。
(いいですか、刀術士・白鞘清貴)
この程度、なんでもないさ、と笑い飛ばせ。
僕が手を握るなり、目を瞬かせる月子。その肩から少し、力が抜けるのを見て、僕は微笑む。
何も気付かないふりで、穏やかに囁いた。
「そんなに大きく目を見張っていたら、眠れなくなりますよ」
先ほど見たのは、ただの悪夢、夢に過ぎない、と言外ににじませて。
そんなのは、気休めに過ぎないけれど。
これは呪文みたいなものだ。
徒に現実を突きつけてばかりでは、疲れるだけ。
起き上がり、僕は、月子の手を、今度は両手で包み込み、ぽんぽん。
宥めるように軽く叩く。
月子はぼんやり、僕を見上げ、ぽつり、一言。
「…清貴を、見ていたい」
「僕を?」
思わぬ返事。面食らう僕。
まだ火を灯したままだった灯明の芯が、ジジ、と小さな音を立てた。
視線を逸らさず、わずかに顎を引く月子。
「落ち着くんだ」
(…微妙な評価ですね…)
それだけ抜けた顔をしているということだろうか。
僕は、あまり顔についてとやかく言われた経験はない。
いつだったか、蘇芳などは、貴様は顔より性格が強烈だからな、とあの冷淡な口調でしみじみ言ったものだが。
僕は苦笑。
「美人ならともかく、僕の顔じゃ、そう珍しくも面白くもないでしょう?」
「清貴は、ぼけっとしてなかったら美人だよ」
…聞かなければよかった。
しかも、月子のような麗人に言われたところで、実感はない。
話している内に、瞬間的な月子の興奮もおさまってきた。
見計らって、僕は静かに提案。
「汗かきましたね。着替えましょう」
「あ、うん」
笑いながら囁けば、月子は少し肩を竦める。
「相変わらず、清貴の声って、身体の奥まで響くな」
「そうですか?」
むずむずする、と首を振って起き上がる月子。
彼女は、荷物の方へ身をひねった僕の胸元に目を向けた。
「? なんか、ガサッて音したけど」
忘れてた。
僕は懐から、それを取り出す。
別れ際に、蘇芳が放り込んだ手紙だ。
灯明の明かりに照らし、早速開いて見た。
書かれていたのは、用件と日時。
同時に読み終え、僕は月子と顔を見合わせた。




